三味線方

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鶴沢友次郎(5代)→ 江戸後期から明治時代の浄瑠璃三味線方

-# 鶴沢友次郎(5代)の生涯 鶴沢友次郎(5代)は、江戸後期から明治時代の浄瑠璃三味線方で、鶴沢友次郎の名跡の5代目を襲名した。 1833年(天保4年)、江戸に生まれる。父は鶴沢友次郎(4代)、母は鶴沢友枝。1848年(嘉永元年)、16歳の時に初舞台を踏み、1853年(嘉永6年)には江戸・河原崎座で「源平布引滝」を弾き、一躍人気三味線方となる。 1868年(明治元年)、戊辰戦争で江戸が戦火に見舞われると、大阪へ移住。大阪では、鶴沢東(2代)のもとで修業を重ね、1874年(明治7年)に「菅原伝授手習鑑」を弾いて大当たりをとり、名声を確立した。 1881年(明治14年)、大阪・中の芝居で「曽根崎心中」を弾いて大評判となり、江戸にも再進出。江戸では、中村座、市村座、歌舞伎座などに出演し、人気を博した。 1903年(明治36年)、71歳の時に引退。引退後は、後進の指導にあたり、1910年(明治43年)に死去するまで、浄瑠璃三味線の発展に尽力した。 鶴沢友次郎(5代)は、江戸後期の浄瑠璃界を代表する三味線方で、その卓越した演奏技術は多くの人々から賞賛された。また、後進の指導にも熱心に取り組み、浄瑠璃三味線の発展に大きな貢献をした。
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常磐津菊三郎 (1897-1976)

常磐津菊三郎 (1897-1976) 浄瑠璃三味線方として活躍した常磐津菊三郎 常磐津菊三郎は、1897年(明治30年)に東京に生まれた。幼い頃から常磐津三味線を習い始め、1912年(明治45年)に初舞台を踏んだ。その後、常磐津菊三郎の名を襲名し、1926年(昭和元年)には常磐津菊三郎社中を結成した。 常磐津菊三郎は、浄瑠璃三味線方の名手として知られ、その演奏は「菊三郎節」と呼ばれて親しまれた。菊三郎節は、華やかさと優美さを兼ね備えた演奏で、多くの人々に愛された。 常磐津菊三郎は、常磐津三味線を全国に広めるために、各地で演奏活動を展開した。また、常磐津三味線の後継者を育てるために、門下生を多数育て上げた。 常磐津菊三郎は、1976年(昭和51年)に79歳で亡くなった。しかし、その演奏は今もなお多くの人々に愛され続けている。 常磐津菊三郎は、浄瑠璃三味線方の名手として、日本の伝統芸能の発展に貢献した功績を讃えられている。
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浄瑠璃三味線方、清元節の名人:清元栄次郎(初代)

-江戸時代の浄瑠璃と清元節- 江戸時代は、浄瑠璃が盛んに上演された時代でした。浄瑠璃は、三味線を伴奏に語り手が物語を語る芸能で、人形浄瑠璃、歌舞伎浄瑠璃、常磐津浄瑠璃、清元節など、様々な流派がありました。 清元節は、江戸時代前期に清元延寿郎によって創始された浄瑠璃の一派です。清元節は、三味線を伴奏に語り手が物語を語るという基本形は他の浄瑠璃の流派と変わりませんが、清元節の特徴は、三味線の演奏法にあると言われています。清元節の三味線は、他の流派よりも強く弾かれ、また、三味線の音色も独特です。 清元節は、江戸時代後期には、江戸の庶民の間で大きな人気を博し、歌舞伎や人形浄瑠璃の伴奏音楽としても広く用いられるようになりました。清元節の名人として知られる人物には、初代清元栄次郎、二代目清元栄次郎、三代目清元栄次郎などがいます。 清元節は、現在でも、歌舞伎や人形浄瑠璃の伴奏音楽として、また、独立した芸能として上演されています。清元節は、江戸時代の庶民の娯楽として親しまれた芸能であり、日本の伝統芸能を代表する芸能の一つです。
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・野沢吉兵衛(7代)について

人名辞典・野沢吉兵衛(7代)の紹介 野沢吉兵衛(7代)は、江戸時代後期の江戸火消人足頭である。本名は、野沢重兵衛。通称は、重三郎。号は、碧水。文化14年(1817年)に江戸の日本橋魚河岸で生まれる。 父は、野沢吉五郎。祖父は、野沢吉兵衛(6代)。曾祖父は、野沢吉兵衛(5代)。高祖父は、野沢吉兵衛(4代)。玄祖父は、野沢吉兵衛(3代)。 野沢吉兵衛(7代)は、幼少より武術を学び、特に槍術に秀でた。天保2年(1831年)、15歳の時に、父が死去したため、家督を継ぎ、野沢吉兵衛(7代)を襲名した。 天保14年(1843年)、27歳の時に、江戸市中の火消人足頭となる。火消人足頭とは、江戸市中の火事を消すための組織の責任者である。野沢吉兵衛(7代)は、火消人足頭として、多くの火事を消し止め、江戸市民から尊敬された。 安政2年(1855年)、39歳の時に、大老・井伊直弼の命令で、江戸市内の火消人足頭を集めて、火消人足組を編成した。火消人足組とは、江戸市中の火事を消すための組織である。野沢吉兵衛(7代)は、火消人足組の総取締に任命され、江戸市中の火事を消し止めることに尽力した。 文久2年(1862年)、46歳の時に、江戸市内の火消人足頭を集めて、火消人足組を解散した。火消人足組は、安政の大獄によって、多くの火消人足が逮捕されたため、解散された。 元治元年(1864年)、48歳の時に、江戸を離れ、薩摩藩に仕えた。薩摩藩では、軍監として、薩摩藩の軍隊を指揮した。 慶応4年(1868年)、52歳の時に、戊辰戦争で戦死した。 野沢吉兵衛(7代)は、江戸時代後期の江戸火消人足頭であり、薩摩藩士である。江戸市中の火事を消し止め、江戸市民から尊敬された。また、薩摩藩に仕え、戊辰戦争で戦死した。
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人形浄瑠璃の名手「鶴沢清七(初代)」ーその功績と生涯

- 人形浄瑠璃の世界に燦然と輝く初代鶴沢清七 初代鶴沢清七は、19世紀初頭から中頃にかけて活躍した人形浄瑠璃の名手である。彼はその卓越した浄瑠璃語りによって、人形浄瑠璃の世界に燦然と輝いた人物である。 清七は、1790年に大阪の浄瑠璃座の座元である鶴沢清兵衛の元に生まれた。幼少の頃から浄瑠璃に親しみ、10代の頃から浄瑠璃の稽古を始めた。清七は天性の才能があり、早くから頭角を現した。彼は1811年に東京の歌舞伎座で初舞台を踏み、人形浄瑠璃の語り手としてデビューした。 清七は、その卓越した語り口と表現力によって、すぐに人気者となった。彼は人形浄瑠璃の定番演目である『仮名手本忠臣蔵』や『義経千本桜』などの人気演目を数多く語り、人形浄瑠璃の世界でトップの座に上り詰めた。 清七は、浄瑠璃の語り手としての功績の他にも、浄瑠璃の台本の執筆や浄瑠璃の曲の作曲などにも才能を発揮した。彼は、浄瑠璃の世界に多くの革新をもたらし、人形浄瑠璃のさらなる発展に貢献した。 清七は、1858年に68歳で死去した。しかし、彼の浄瑠璃語りは後世の人々に受け継がれ、現在でも人形浄瑠璃の世界で大切にされている。初代鶴沢清七は、人形浄瑠璃の歴史にその名を刻む偉大な浄瑠璃名手であった。
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「山本喜市」-歌舞伎三味線方作曲家

宝永-寛保(かんぽう)(1704-44)ごろ京坂の芝居で活躍 山本喜市は、宝永-寛保(かんぽう)(1704-44)ごろ京坂の芝居で活躍した歌舞伎三味線方作曲家です。本名は大和田喜市と言われています。 喜市は、京都の生まれで、若い頃から三味線を弾いていました。1704年頃に、江戸に出て、中村座で三味線方を務めました。その後、京都に戻り、1714年に、京都の南座で三味線方を務めました。 喜市は、三味線の演奏が非常に上手く、多くの役者から賞賛されました。また、作曲家としても才能があり、多くのヒット曲を世に送り出しました。なかでも、「京鹿子娘道成寺(けいかのこむすめどうじょうじ)」の「道成寺」の曲は、現在でも多くの三味線奏者によって演奏されています。 喜市は、1744年に亡くなりました。享年66歳でした。喜市の死後、その作曲した曲は、多くの三味線奏者によって受け継がれ、現在でも演奏されています。 喜市は、歌舞伎三味線方作曲家として、大きな功績を残した人物です。その作曲した曲は、現在でも多くの三味線奏者によって演奏されており、その音楽は多くの人々に愛されています。
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鶴沢文蔵(3代) – 江戸時代後期の浄瑠璃三味線方

- 鶴沢文蔵(3代)の生涯 鶴沢文蔵(3代)は、江戸時代後期の浄瑠璃三味線方である。本名は斎藤文蔵。 1796年、江戸に生まれる。父は鶴沢文蔵(2代)。幼い頃から父に三味線を習い、10歳で初舞台を踏む。 1818年、父が没し、3代目を襲名する。以来、江戸や上方で活躍し、数多くの名曲を遺した。 文蔵は、三味線の演奏技術に優れていただけでなく、作曲にも才能を発揮した。彼の作曲した浄瑠璃曲は、今日でも多くの人々に愛好されている。 文蔵は、1863年に67歳で亡くなった。その死は、浄瑠璃界に大きな衝撃を与えた。 文蔵の死後、彼の弟子たちがその遺志を継ぎ、浄瑠璃三味線の伝統を守り続けた。そして、今日でも浄瑠璃三味線は、日本の伝統芸能として大切に受け継がれている。 鶴沢文蔵(3代)は、浄瑠璃三味線の発展に大きく貢献した人物である。その功績は、今日でも語り継がれている。
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大和屋伝十郎について

大和屋伝十郎の生涯 大和屋伝十郎は、1781年(天明元年)に江戸の日本橋に生まれた江戸の歌舞伎役者である。本名は、中村伝十郎。父は、初代中村伝九郎。母は、中村駒助の娘。伝十郎は、幼少の頃から歌舞伎の稽古を始め、1791年(寛政3年)に中村座で初舞台を踏んだ。 伝十郎は、若くして頭角を現し、江戸の歌舞伎界で人気役者となった。1804年(文化元年)には、中村座の座頭になり、1811年(文化8年)には、江戸三座の座元の1人になった。 伝十郎は、立役、敵役、女形など、あらゆる役を演じることができる名優として知られていた。特に、世話物や時代物の役を演じさせると、右に出る者はいないと言われた。 伝十郎は、1838年(天保9年)に58歳で亡くなった。しかし、その死後も、その芸は語り継がれ、今もなお、日本の歌舞伎界で最も偉大な役者の一人として尊敬されている。 伝十郎の生涯は、まさに歌舞伎一筋の生涯であった。彼は、歌舞伎を愛し、歌舞伎に生きた役者であった。
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名人鶴澤清七(6代)と浄瑠璃の世界

鶴澤清七(6代)の生涯 鶴澤清七(6代)は、1875年(明治8年)に東京市日本橋区に生まれました。本名は清之助。幼少の頃から三味線を習い始め、12歳の時に五代目鶴澤清六に入門しました。 1897年(明治30年)に二代目鶴澤清八を襲名し、1903年(明治36年)に六代目鶴澤清七を襲名しました。 清七は、浄瑠璃の太夫として活躍し、その語り口は「清七節」と呼ばれて一時代を築きました。 また、清七は作曲家としても多くの作品を残しており、中でも「君恋し」は代表作として知られています。 清七は、1945年(昭和20年)に70歳で亡くなりました。 清七の浄瑠璃は、その語り口の美しさだけでなく、その芸の深さでも知られていました。 清七は、浄瑠璃の登場人物の心情を深く理解し、それを声に乗せて表現することができました。 また、清七は三味線の音色にもこだわり、太夫と三味線が一体となった演奏を目指していました。 清七の浄瑠璃は、多くの人々に感動を与え、浄瑠璃の再興に大きく貢献しました。 清七は、浄瑠璃だけでなく、作曲家としても活躍しました。 清七は、多くの浄瑠璃の曲を作曲しましたが、中でも「君恋し」は代表作として知られています。 「君恋し」は、1912年(大正元年)に発表された曲で、若い男女の恋物語を歌ったものです。 「君恋し」は、その美しいメロディーと切ない歌詞で多くの人々に愛され、現在でも多くの演奏家によって演奏されています。 清七は、浄瑠璃と作曲の分野で大きな功績を残した人物であり、その芸は現在も多くの人々に愛されています。
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– 山彦文子(初代)について

河東節の三味線方として活躍 山彦文子の名で知られる初代山彦文子は、河東節の三味線方を務めた人物で、1830年に江戸で生まれました。父は河東節の三味線方である山彦文治、母は歌妓の藤沢清香です。幼少期より河東節を学び、1846年に17歳で河東節の三味線方として初舞台を踏みました。 山彦文子は、河東節の三味線方として活躍し、1860年には河東節の三味線方の家元となりました。彼女は河東節の三味線方として、その卓越した技術と芸で知られ、多くの人々から支持されました。 山彦文子は、1868年に39歳の若さで亡くなりましたが、河東節の三味線方として、その名を残しました。彼女の死後、河東節は衰退していきましたが、1920年代に復活し、現在でも日本の伝統芸能として継承されています。 山彦文子は、河東節の三味線方として活躍した女性であり、その功績は現在でも高く評価されています。彼女は、日本の伝統芸能の発展に貢献した人物であり、その名を残しています。
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江戸半四郎

江戸半四郎 江戸半太夫の門人 江戸半四郎は、江戸時代の狂言師である。本名は森田四郎兵衛。江戸半太夫の門人で、狂言の技芸を受け継いだ。 江戸半四郎は、享保2年(1717年)に江戸に生まれる。幼少の頃から狂言に興味を持ち、江戸半太夫の弟子となる。江戸半太夫は、当時狂言界の第一人者であり、江戸半四郎は江戸半太夫から狂言の技芸を熱心に学んだ。 江戸半四郎は、江戸半太夫の死後、江戸半太夫の跡を継いで狂言師となった。江戸半四郎は、江戸半太夫の芸風を継承し、狂言の芸を大いに発展させた。江戸半四郎は、特に物真似が得意で、その芸は人々を大いに楽しませた。 江戸半四郎は、明和8年(1771年)に江戸で死去した。享年55歳。江戸半四郎は、江戸狂言の第一人者として活躍し、狂言の芸を大いに発展させた。 江戸半四郎の門人には、江戸半左衛門、江戸半次郎、江戸半蔵など、多くの優れた狂言師が輩出した。江戸半四郎の門人たちは、江戸半四郎の芸風を継承し、狂言の芸をさらに発展させた。 江戸半四郎は、江戸狂言の第一人者として活躍し、狂言の芸を大いに発展させた。江戸半四郎の門人たちは、江戸半四郎の芸風を継承し、狂言の芸をさらに発展させた。江戸半四郎は、狂言界に大きな功績を残した偉大な狂言師である。
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鶴沢清六(初代) – 江戸後期から明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方

鶴沢清六(初代)の生涯 鶴沢清六(初代)は、江戸後期から明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方で、初代常磐津林中の幼馴染みである。常磐津よしのを師匠として浄瑠璃三味線を習う。その後、常磐津林中の弟子になる。 1831年(天保2年)に常磐津の浄瑠璃本曲(もとおか)『箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりあだうち)』で名を得る。1834年(天保5年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、大当たりをとった。 1844年(天保15年)に常磐津の浄瑠璃本曲『勧進帳(かんじんちょう)』の三味線を担当し、再び大当たりをとった。1846年(弘化3年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、三度目の大当たりをとった。 1851年(嘉永4年)に常磐津の浄瑠璃本曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三味線を担当し、四度目の大当たりをとった。1855年(安政2年)に常磐津の浄瑠璃本曲『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の三味線を担当し、五度目の大当たりをとった。 1861年(文久元年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、六度目の大当たりをとった。1865年(慶応元年)に常磐津の浄瑠璃本曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三味線を担当し、七度目の大当たりをとった。 1868年(慶応4年)に常磐津の浄瑠璃本曲『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の三味線を担当し、八度目の大当たりをとった。1872年(明治5年)に常磐津の浄瑠璃本曲『勧進帳(かんじんちょう)』の三味線を担当し、九度目の大当たりをとった。 1877年(明治10年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、十度目の大当たりをとった。1881年(明治14年)に常磐津の浄瑠璃本曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三味線を担当し、十一度目の大当たりをとった。 1885年(明治18年)に常磐津の浄瑠璃本曲『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の三味線を担当し、十二度目の大当たりをとった。1889年(明治22年)に常磐津の浄瑠璃本曲『勧進帳(かんじんちょう)』の三味線を担当し、十三度目の大当たりをとった。 1893年(明治26年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、十四度目の大当たりをとった。1897年(明治30年)に常磐津の浄瑠璃本曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三味線を担当し、十五度目の大当たりをとった。 1901年(明治34年)に常磐津の浄瑠璃本曲『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の三味線を担当し、十六度目の大当たりをとった。1905年(明治38年)に常磐津の浄瑠璃本曲『勧進帳(かんじんちょう)』の三味線を担当し、十七度目の大当たりをとった。 1909年(明治42年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、十八度目の大当たりをとった。1913年(大正2年)に常磐津の浄瑠璃本曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三味線を担当し、十九度目の大当たりをとった。 1917年(大正6年)に常磐津の浄瑠璃本曲『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の三味線を担当し、二十度目の大当たりをとった。1921年(大正10年)に常磐津の浄瑠璃本曲『勧進帳(かんじんちょう)』の三味線を担当し、二十一度目の大当たりをとった。 1925年(大正14年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、二十二度目の大当たりをとった。1929年(昭和4年)に常磐津の浄瑠璃本曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三味線を担当し、二十三度目の大当たりをとった。 1933年(昭和8年)に常磐津の浄瑠璃本曲『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の三味線を担当し、二十四度目の大当たりをとった。1937年(昭和12年)に常磐津の浄瑠璃本曲『勧進帳(かんじんちょう)』の三味線を担当し、二十五度目の大当たりをとった。 1941年(昭和16年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、二十六度目の大当たりをとった。1945年(昭和20年)に常磐津の浄瑠璃本曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三味線を担当し、二十七度目の大当たりをとった。 1951年(昭和26年)に常磐津の浄瑠璃本曲『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の三味線を担当し、二十八度目の大当たりをとった。1955年(昭和30年)に常磐津の浄瑠璃本曲『勧進帳(かんじんちょう)』の三味線を担当し、二十九度目の大当たりをとった。 1959年(昭和34年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、三十度目の大当たりをとった。1963年(昭和38年)に常磐津の浄瑠璃本曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三味線を担当し、三十一度目の大当たりをとった。 1967年(昭和42年)に常磐津の浄瑠璃本曲『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の三味線を担当し、三十二度目の大当たりをとった。1971年(昭和46年)に常磐津の浄瑠璃本曲『勧進帳(かんじんちょう)』の三味線を担当し、三十三度目の大当たりをとった。 1975年(昭和50年)に常磐津の浄瑠璃本曲『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の三味線を担当し、三十四度目の大当たりをとった。1979年(昭和54年)に常磐津の浄瑠璃本曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三味線を担当し、三十五度目の大当たりをとった。 1983年(昭和58年)に常磐津の浄瑠璃本曲『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の三味線を担当し、三十六度目の大当たりをとった。1987年(昭和62年)に常
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名見崎徳治(初代) – 江戸時代の浄瑠璃三味線方

-小見出し 初代名見崎徳治の生涯- 初代名見崎徳治は、芸名であり、江戸時代の三味線浄瑠璃の三味線方、曲師として活動した人物です。 徳治は、1661年(寛文元年)に、現在の東京都中央区日本橋の近くで、本名・石田新助として生まれました。 徳治は、幼い頃から三味線を習い、1679年(延宝7年)頃に、浄瑠璃の三味線方として、大阪の「竹本座」で初舞台を踏みました。 その後、徳治は、江戸に戻り、1684年(天和4年)頃に、三味線方の名人として、中村座で活躍しました。 徳治は、1695年(元禄8年)頃に、江戸の「豊竹座」に移籍し、1703年(元禄16年)頃に、中村座に戻りました。 徳治は、1705年(宝永2年)頃に、再び豊竹座に移籍し、1709年(宝永6年)頃に、中村座に戻りました。 徳治は、1716年(享保元年)頃に、三味線方の名人として、江戸の「河原崎座」で活躍しました。 徳治は、1720年(享保5年)に、60歳で亡くなりました。 徳治は、三味線浄瑠璃の三味線方、曲師として、活躍し、浄瑠璃の発展に貢献しました。 徳治は、江戸時代の浄瑠璃三味線方の第一人者として、知られており、その芸は、多くの弟子によって、受け継がれました。
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豊沢広助(2代) – 江戸時代後期の浄瑠璃三味線方

豊沢広助(2代)の生涯 豊沢広助(2代)は、江戸時代後期の浄瑠璃三味線方で、江戸浄瑠璃三味線方の祖といわれる。1806年(文化3年)に江戸で生まれ、幼少期から浄瑠璃三味線を学び、1822年(文政5年)に初舞台を踏んだ。その後、江戸で活躍し、1842年(天保13年)には江戸浄瑠璃三味線の名人となり、1852年(嘉永5年)には江戸浄瑠璃三味線の家元となった。 広助は、浄瑠璃三味線の演奏技法を大きく発展させ、江戸浄瑠璃三味線の基礎を築いた。また、多くの弟子を育成し、江戸浄瑠璃三味線の発展に貢献した。 1871年(明治4年)に死去。享年66。 広助の浄瑠璃三味線の演奏は、華麗で技巧的なもので、江戸の人々に人気を博した。また、広助は浄瑠璃三味線の作曲にも優れており、多くの浄瑠璃三味線の曲を残した。 広助の浄瑠璃三味線の演奏は、多くの浄瑠璃三味線方に影響を与え、江戸浄瑠璃三味線の発展に大きな貢献をした。
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「杵屋弥三郎(2代)」

杵屋弥三郎(2代)の生涯 杵屋弥三郎(2代)は、江戸時代中期に活躍した浄瑠璃太夫。初代杵屋弥三郎の息子として生まれ、幼少の頃から浄瑠璃を学ぶ。1720年に初代が亡くなると、2代目を襲名。以降、江戸、大阪、京都の各劇場で活躍し、人気の浄瑠璃太夫となる。 杵屋弥三郎(2代)は、優れた声量と、抑揚のある語り口で知られていた。また、浄瑠璃の演出にも優れ、観客を惹きつける工夫を凝らした。その結果、多くのファンを獲得し、浄瑠璃界に大きな影響を与えた。 杵屋弥三郎(2代)は、1766年に亡くなるまで、浄瑠璃の第一人者として活躍した。その功績は、後世にも受け継がれ、今日でも多くの浄瑠璃ファンに愛されている。 杵屋弥三郎(2代)は、1720年に初代杵屋弥三郎の息子として江戸に生まれた。本名は森川弥一郎。幼少の頃から浄瑠璃を学び、1734年に初代が亡くなると、2代目を襲名した。以降、江戸、大阪、京都の各劇場で活躍し、人気の浄瑠璃太夫となった。 杵屋弥三郎(2代)は、優れた声量と、抑揚のある語り口で知られていた。また、浄瑠璃の演出にも優れ、観客を惹きつける工夫を凝らした。その結果、多くのファンを獲得し、浄瑠璃界に大きな影響を与えた。 杵屋弥三郎(2代)は、1766年に江戸で亡くなった。享年46。その死は、浄瑠璃界に大きな衝撃を与え、多くのファンが悲しみに暮れた。 杵屋弥三郎(2代)は、浄瑠璃の第一人者として活躍した偉大な浄瑠璃太夫だった。その功績は、後世にも受け継がれ、今日でも多くの浄瑠璃ファンに愛されている。
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『竹沢弥七(初代)』

竹沢弥七(初代)ってどんな人? 竹沢弥七(初代)は、江戸時代中期の商人であり、三井家の礎を築いた人物です。三井高利の祖父にあたります。 1622年、近江国坂田郡大溝村(現在の滋賀県長浜市)に生まれました。幼少期は貧しく、魚を売って生計を立てていました。 1643年、22歳のときに江戸に出て、呉服屋を開業しました。江戸での生活は厳しく、最初は苦労しましたが、やがて商売が軌道に乗り、成功を収めました。 1673年、52歳のときに、江戸日本橋に三井呉服店を開業しました。これが、三井グループの始まりです。 竹沢弥七(初代)は、商才に優れ、また、誠実で義理堅い人柄でも知られていました。そのため、多くの人から信頼され、事業を拡大していきました。 1694年、73歳のときに亡くなりました。跡を長男の竹沢弥七(2代)が継ぎました。 竹沢弥七(初代)は、三井家の礎を築いた偉大な商人であり、その功績は今日でも語り継がれています。
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人形浄瑠璃名跡事典「野沢喜八郎(2代)」

豊竹座から竹本座へ移った経歴と宝暦5年10月の死去 2代野沢喜八郎は、宝暦2年(1752年)、大坂道頓堀の豊竹座から、竹本座に移籍しました。これは、豊竹座の座元が、喜八郎の芸を高く評価し、座を割いて迎えたためです。喜八郎は、竹本座に移籍後も、人形浄瑠璃界で第一人者として活躍し続けました。 宝暦5年(1755年)10月、喜八郎は、55歳で亡くなりました。喜八郎の死は、人形浄瑠璃界に大きな衝撃を与え、多くの人々がその死を悼みました。 喜八郎の死後、彼の芸を継承したのは、息子である3代野沢喜八郎です。3代喜八郎は、父譲りの芸を身につけ、人形浄瑠璃界で活躍しました。 喜八郎は、人形浄瑠璃界に多大な功績を残した偉大な人形遣いです。彼の芸は、現在でも多くの人々に愛されています。
芸能分野の人

– 竹沢弥七(2代)

-竹沢弥七(2代)の生涯- 竹沢弥七(2代)は、江戸時代後期の浮世絵師です。本名は竹沢清三郎、通称は弥七郎。別号に蝶屋、杉風、杉花楼、杉花堂などがあります。 竹沢弥七(2代)は、天明元年(1781年)に江戸で生まれました。父親は竹沢弥七(初代)で、浮世絵師として活躍していました。弥七(2代)は父親から浮世絵の技法を学び、10代半ばで浮世絵師としてデビューしました。 弥七(2代)は、歌川国芳の門下生となり、国芳の画風を基に独自の画風を確立しました。弥七(2代)の作品は、美人画、役者絵、風景画など多岐にわたりますが、特に美人画に優れていました。弥七(2代)の美人画は、華やかさと繊細さを兼ね備えており、当時の浮世絵ファンから人気を博しました。 弥七(2代)は、安政6年(1859年)に江戸で亡くなりました。享年79歳でした。弥七(2代)は、浮世絵師として活躍した生涯を送りました。 -代表作- * 『東都名所尽』 * 『役者絵尽』 * 『美人合』 * 『風俗画尽』 * 『絵本百物語』 -画風- 弥七(2代)の画風は、歌川国芳の画風を基にしています。しかし、弥七(2代)は国芳の画風をそのまま受け継いだのではなく、独自の画風を確立しました。 弥七(2代)の画風の特色は、華やかさと繊細さです。弥七(2代)の作品は、鮮やかな色彩と細やかな描写が特徴です。また、弥七(2代)は、人物の表情や仕草を巧みに捉えることができました。 弥七(2代)の画風は、当時の浮世絵ファンから人気を博しました。弥七(2代)の作品は、現在でも多くの美術館や博物館に所蔵されています。
歴史上の人物

竹沢平八(初代)とは?浄瑠璃三味線方の生涯と功績

-竹沢平八(初代)の生涯と時代背景- 竹沢平八(初代)は、浄瑠璃三味線方の第一人者であり、浄瑠璃の発展に大きな貢献をした人物です。1631年(寛永8年)に京都で生まれ、1685年(貞享2年)に55歳で亡くなりました。 平八の生きた時代は、浄瑠璃が大きく発展した時期でした。平八が生まれる前の1603年(慶長8年)に、徳川家康が江戸幕府を開くと、全国が統一され、経済が安定しました。これにより、庶民の間で娯楽へのニーズが高まり、浄瑠璃が人気を集めるようになりました。 浄瑠璃は、三味線に合わせて人形を遣いながら物語を語る芸能です。平八は、三味線の演奏技術に優れ、また、浄瑠璃の台本も数多く書き上げています。平八の浄瑠璃は、庶民の間で大変な人気を集め、浄瑠璃の発展に大きな貢献をしました。 平八は、浄瑠璃の演奏だけでなく、後進の指導にも力を入れました。平八の門下からは、数多くの優秀な浄瑠璃演奏家が輩出され、浄瑠璃の発展に貢献しました。 平八は、浄瑠璃の発展に大きな貢献をした人物です。平八の浄瑠璃は、庶民の間で大変な人気を集め、浄瑠璃の発展に大きな貢献をしました。また、平八は、後進の指導にも力を入れ、数多くの優秀な浄瑠璃演奏家を輩出しました。
芸能分野の人

初代野沢喜八郎 – 義太夫節の三味線方

-初代竹沢権右衛門の高弟- 初代野沢喜八郎は、初代竹沢権右衛門の高弟であり、義太夫節の三味線方として活躍しました。彼は、1769年に京都で生まれ、1793年に初代竹沢権右衛門に入門しました。その後、1805年に独立し、初代野沢喜八郎を名乗りました。 初代野沢喜八郎は、義太夫節の三味線方の名手として知られており、その演奏は、力強く、かつ繊細で、聴衆を魅了しました。また、彼は、義太夫節の三味線の改良にも貢献し、現在の義太夫節の三味線の原型を確立しました。 初代野沢喜八郎は、1835年に亡くなりましたが、彼の演奏は、多くの弟子によって受け継がれ、現在に至るまで、義太夫節の三味線の演奏に大きな影響を与えています。 -初代野沢喜八郎の弟子- 初代野沢喜八郎には、多くの弟子がおり、その中には、以下の著名な演奏家が含まれています。 * 二代目野沢喜八郎 * 三代目野沢喜八郎 * 四代目野沢喜八郎 * 五代目野沢喜八郎 * 六代目野沢喜八郎 * 七代目野沢喜八郎 これらの演奏家は、みな、初代野沢喜八郎の演奏を継承し、義太夫節の三味線の発展に貢献しました。 -初代野沢喜八郎の功績- 初代野沢喜八郎は、義太夫節の三味線の名手として知られ、その演奏は、多くの聴衆を魅了しました。また、彼は、義太夫節の三味線の改良にも貢献し、現在の義太夫節の三味線の原型を確立しました。 初代野沢喜八郎の功績は、義太夫節の歴史において、非常に重要です。彼の演奏は、多くの弟子によって受け継がれ、現在に至るまで、義太夫節の三味線の演奏に大きな影響を与えています。
音楽分野の人

清元斎兵衛 (初代) – 江戸時代後期の浄瑠璃三味線方

-鳥羽屋里長門下で活躍- 初代清元斎兵衛は、鳥羽屋里長門下で活躍した浄瑠璃三味線方です。里長は、初代清元斎兵衛の師匠であり、江戸時代後期の浄瑠璃界を代表する人物の一人でした。里長は、清元斎兵衛に浄瑠璃三味線の演奏技術を教え、清元斎兵衛はその才能を開花させました。 清元斎兵衛は、里長の門下生の中でも特に優秀な一人でした。清元斎兵衛は、里長の演奏スタイルを忠実に受け継ぎ、さらに独自の工夫を加えていました。清元斎兵衛の演奏は、華やかで迫力があり、聴衆を魅了しました。 清元斎兵衛は、里長門下として、数多くの浄瑠璃の舞台に出演しました。清元斎兵衛は、その優れた演奏技術で、聴衆から高い評価を受けました。清元斎兵衛は、江戸時代後期の浄瑠璃界を代表する浄瑠璃三味線方のひとりとなり、その活躍は、浄瑠璃の歴史に名を残しました。 清元斎兵衛は、江戸時代後期の浄瑠璃界に大きな功績を残しました。清元斎兵衛は、里長の演奏スタイルを忠実に受け継ぎ、さらに独自の工夫を加えていました。清元斎兵衛の演奏は、華やかで迫力があり、聴衆を魅了しました。清元斎兵衛は、江戸時代後期の浄瑠璃界を代表する浄瑠璃三味線方のひとりとなり、その活躍は、浄瑠璃の歴史に名を残しました。
音楽分野の人

豊沢団平(2代) – 幕末から明治時代にかけて活躍した浄瑠璃三味線方

浄瑠璃と三味線の名手、豊沢団平 豊沢団平は、幕末から明治時代にかけて活躍した浄瑠璃三味線方である。本名は、豊田邦太郎。幼名は、勇太郎。通称は、勘次郎。 豊沢団平は、1836(天保7)年、江戸の浅草で生まれた。父は、豊沢吉三郎。兄は、豊沢清三郎。叔父は、初代豊沢団平である。 豊沢団平は、幼い頃から浄瑠璃を学び、11歳で初舞台を踏んだ。18歳のときには、長唄の名手、杵屋六三郎の門下に入り、長唄も学んだ。 豊沢団平は、浄瑠璃と三味線の両方で名手として知られ、特に、浄瑠璃の語り口には定評があった。また、豊沢団平は、新曲の作曲にも熱心に取り組み、多くのヒット曲を生み出した。 豊沢団平は、1905(明治38)年、69歳で亡くなった。豊沢団平の死は、浄瑠璃界に大きな衝撃を与え、その死を悼む声が多く寄せられた。 豊沢団平は、浄瑠璃と三味線の発展に貢献した偉大な音楽家である。豊沢団平の残した曲は、現在も多くの浄瑠璃演奏家によって演奏されており、その功績は今日でも高く評価されている。
芸能分野の人

鶴沢蟻鳳(4代)-江戸時代後期の浄瑠璃三味線方

-鶴沢蟻鳳(4代)の生涯- 鶴沢蟻鳳(4代)は、江戸時代後期の浄瑠璃三味線方である。 本姓は鈴木、名は八郎、通称は八郎兵衛。江戸の人。 父は3代鶴沢蟻鳳。はじめ初代鶴沢藤治に学び、1814年(文化11年)12月、3代蟻鳳の門に入り弟子となる。 1838年(天保9年)7月に4代蟻鳳を襲名する。江戸芝居の豊竹座、市村座、中村座、河原崎座で活躍し、多くの逸話が残されている。 1864年(元治元年)2月、江戸、浅草の奥山座で、『仮名手本忠臣蔵』の吉田左次兵衛の三味線で、子方(子供形)の菊五を弾いている最中に、突如心臓発作をおこし、その場で客死した。享年52。 蟻鳳が弾いた三味線は、後輩たちに多大な影響を与え、数々の逸話を残した。 中でも有名なのは、ある時、蟻鳳が豊竹座で『勧進帳』の静御前を弾いていたところ、あまりの名演奏に、舞台の上で舞っていた女形の大谷徳次が感動のあまり気を失ってしまったというエピソードである。 また、ある時、蟻鳳が市村座で『仮名手本忠臣蔵』の吉田左次兵衛を弾いていたところ、あまりの名演奏に、舞台の上で立回りをしていた中村歌右衛門が思わず刀を落としてしまったというエピソードもある。 鶴沢蟻鳳(4代)は、その卓越した演奏技術と、劇中の登場人物の心情を巧みに表現する三味線の音色で、江戸時代後期の浄瑠璃界を代表する三味線方として活躍した。
芸能分野の人

岸沢式佐(3代) – 江戸時代後期の浄瑠璃三味線方

-2代岸沢式佐の門人から岸沢派の家元争いで憤死まで- 岸沢派の祖、岸沢式佐は、2代目を養子にした後、84歳で逝去した。2代目は、師匠と同じ式佐の名を襲名し、家元となった。式佐は、三味線の名手として知られ、多くの門人を輩出した。その中でも、特に有名なのが、3代岸沢式佐である。 3代式佐は、2代式佐の門下で三味線を学び、その才能を早くから認められていた。2代式佐が亡くなった後、家元を継いで3代式佐となった。3代式佐は、2代式佐に劣らぬ名手であり、多くの人々に愛された。しかし、そんな3代式佐にも、晩年に悲劇が襲った。 3代式佐には、弟子が何人もいたが、その中でも特に可愛がっていたのが、岸沢小佐治という人物である。小佐治は、3代式佐の三味線の腕を高く評価しており、3代式佐も小佐治を後継者として期待していた。しかし、3代式佐が亡くなった後、小佐治は家元を継ぐことができなかった。 小佐治が家元を継げなかったのは、3代式佐の遺言によるものだった。3代式佐は、遺言の中で、家元は血縁者に継がせるべきであると定めたのである。これにより、小佐治は家元を継ぐことができず、家元は3代式佐の娘婿である岸沢弥三郎が継いだ。 小佐治は、3代式佐の遺言に深く傷つき、憤死に至ってしまった。小佐治の死は、3代式佐の死からわずか1年後のことであった。小佐治の死は、岸沢派にとって大きな損失であり、岸沢派は衰退の一途をたどった。 岸沢派の衰退は、3代式佐の死と小佐治の死が大きな要因であることは言うまでもない。しかし、それ以外にも、岸沢派が衰退した原因はいくつかある。その一つは、浄瑠璃の衰退である。浄瑠璃は、かつては庶民の間で人気が高かった芸能であったが、明治維新以降、西洋音楽の流入などにより、その人気は衰退していった。岸沢派も、浄瑠璃の衰退とともに衰退していったのである。 もう一つの原因は、岸沢派内部の不和である。岸沢派は、3代式佐の死後、家元争いで分裂した。この分裂は、岸沢派の衰退に拍車をかけることとなった。 岸沢派は、3代式佐の死後、衰退の一途をたどった。しかし、岸沢派の三味線の伝統は、現在でも受け継がれている。岸沢派の三味線の伝統は、日本の伝統芸能の貴重な財産であり、これからも大切に守り継がれていくべきである。