二科会会員

美術分野の人

「福島金一郎」(1897-1994)

-福島金一郎の生涯- 福島金一郎は、1897年(明治30年)11月15日に、石川県金沢市に生まれた。父は福島繁太郎、母はスエである。金一郎は、5人兄弟の末っ子として育ち、幼少期から体が弱く、病気がちであった。 1910年(明治43年)、金一郎は金沢市立商業学校(現・石川県立金沢商業高等学校)に入学した。しかし、病気がちであったため、1913年(大正2年)に退学せざるを得なかった。退学後は、自宅で療養しながら、独学で勉強を続けた。 1918年(大正7年)、金一郎は東京帝国大学経済学部に入学した。大学では、マルクス経済学を専攻し、河上肇の薫陶を受けた。1922年(大正11年)、金一郎は大学を卒業し、日本銀行に入行した。 1929年(昭和4年)、金一郎は日本銀行を退職し、社会運動家としての道を歩み始めた。金一郎は、日本共産党に入党し、労働運動や農民運動に参加した。1932年(昭和7年)、金一郎は治安維持法違反の容疑で逮捕され、懲役5年の刑を言い渡された。金一郎は、獄中で病気となり、1937年(昭和12年)に釈放された。 釈放後は、金一郎は社会運動を再開し、労働組合の結成や賃上げ交渉などに尽力した。1945年(昭和20年)、金一郎は日本共産党の書記長に就任した。しかし、1950年(昭和25年)、金一郎は党の方針に反対し、党を追放された。 追放後は、金一郎は社会運動から身を引いて、執筆活動に専念した。金一郎は、著書や講演の中で、資本主義社会の矛盾を鋭く批判し、社会主義社会の実現を訴えた。金一郎は、1994年(平成6年)1月21日に、東京で死去した。享年96歳であった。 金一郎は、日本の社会運動史において、重要な役割を果たした人物の一人である。金一郎は、戦前期から戦後にかけて、労働運動や農民運動に参加し、社会主義社会の実現を目指して闘い続けた。金一郎の業績は、今日の日本の社会に大きな影響を与えている。
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向井潤吉:日本各地の民家を写実的に描いた洋画家

-洋画家向井潤吉の生い立ちと経歴- 向井潤吉は、1882年(明治15年)12月31日に愛知県名古屋市に生まれました。幼い頃から絵を描くことが好きで、16歳のときに東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学しました。在学中は、洋画家の黒田清輝に師事し、写実的な絵画を学びました。 1906年(明治39年)に東京美術学校を卒業後、向井はヨーロッパに留学しました。フランス、イタリア、ドイツなどを巡り、西洋の近代絵画を学びました。1912年(明治45年)に帰国後は、東京を拠点に創作活動を続けました。 1914年(大正3年)に文展に入選して注目を集め、1920年(大正9年)には帝展に出品して特選を受賞しました。その後も、数々の展覧会に出品して高い評価を受けました。 向井潤吉は、明治、大正、昭和の三代にわたって活躍した洋画家です。写実的な絵画で知られ、日本各地の民家を多く描きました。彼の作品は、日本の近代美術史を代表する貴重な資料となっています。 1970年(昭和45年)に文化勲章を受章し、1972年(昭和47年)に89歳で亡くなりました。
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「大城皓也」

-大城皓也の生涯- 大城皓也は、1933年3月16日に沖縄県中頭郡今帰仁村に生まれた。幼い頃から音楽に親しみ、三線やギターを弾いていた。1950年に上京し、音楽の道を本格的に志す。ジャズやハワイアンなど、様々な音楽を学び、1957年に「アンリ菅原とハワイアンズ」に参加。1960年に独立し、自身のバンド「大城皓也と彼のゴールデン・アイランダーズ」を結成した。 1961年に発売された「島のブルース」が大ヒットし、一躍トップスターの仲間入りを果たす。その後も「涙の紅バラ」「白い浜辺と赤いバラ」「花」など、数々のヒット曲を連発。また、1963年には映画「ハワイの若大将」に主演し、俳優としても活躍した。 1970年代には、音楽活動に加えてテレビやラジオの司会業も務め、国民的スターとなった。しかし、1980年代に入ると、音楽業界の低迷や離婚などにより、徐々に人気が低迷。1990年代後半には、体調を崩し、音楽活動を休止した。 2004年、大城皓也は71歳で死去した。その死は、多くのファンに惜しまれ、彼の音楽は今でも多くの人々に愛されている。 大城皓也は、沖縄が生んだ音楽界の巨匠である。その音楽は、多くの人々に愛され、今もなお歌い継がれている。彼の功績は、永遠に語り継がれるであろう。
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鍋井克之 → 大正-昭和期の洋画家

-はじめに- 鍋井克之は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した洋画家です。写実的な作風で知られ、特に人物画を得意としました。 鍋井克之は、1897年(明治30年)に東京府に生まれました。1914年(大正3年)に東京美術学校に入学し、西洋画を学びました。1918年(大正7年)に東京美術学校を卒業後、渡欧し、フランスで絵画を学びました。 1922年(大正11年)に日本に帰国し、画家としての活動を本格的に開始しました。1926年(大正15年)には、第1回新文展に出品し、入選を果たしました。その後、新文展や帝展に出品を続け、1936年(昭和11年)には、帝展の審査員に任命されました。 鍋井克之は、1945年(昭和20年)に死去しました。享年48歳。鍋井克之の作品は、写実的で、人物の表情や動作を細やかに捉えています。また、色彩も豊かで、華やかな印象を与えます。鍋井克之の作品は、国内外の美術館に所蔵されており、多くの人々に愛されています。
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松井正 – 苦労を重ねた昭和・平成時代の洋画家

松井正の生い立ちと作風 松井正は、1926年に東京で生まれ、幼少期より絵画に興味を持ち、独学で絵画を学び始めました。1945年に東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学し、洋画を専攻。在学中は、恩師である安井曾太郎や藤島武二から指導を受け、油彩画の技法を習得しました。 1950年に東京美術学校を卒業後、松井正は画家としての活動を本格的に開始。当初は、具象画を中心に制作していましたが、1960年代から抽象画へと作風を一変させ、独自のスタイルを確立しました。 松井正の作風は、簡潔で明快な構図と、鮮やかな色彩が特徴です。また、彼はキャンバスに直接絵の具を塗りつけるというダイナミックな表現方法を用いており、その作品は力強くエネルギッシュな印象を与えます。 松井正は、国内外で多くの個展を開催し、国内外の美術館に作品が所蔵されています。1993年には、日本藝術院会員に推挙され、2004年には文化功労者に選ばれました。 松井正は、昭和・平成時代の洋画界を代表する画家として、日本の美術史に大きな足跡を残しました。
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伊谷賢蔵

- 伊谷賢蔵の生い立ちと経歴 伊谷賢蔵は、1877年(明治10年)に、北海道札幌市に生まれた。家は貧しく、12歳のときには学校を中退して働きに出た。その後、さまざまな職を転々とした後、1902年(明治35年)に、北海道庁に入庁した。北海道庁では、土木技師として働き、道路や橋梁の建設に携わった。 1910年(明治43年)に、北海道庁を退職して、土木請負業を始めた。伊谷は、土木請負業で成功し、一代で財を成した。また、伊谷は、社会事業にも熱心に取り組み、札幌市に、病院や学校を建設した。 1934年(昭和9年)に、伊谷は札幌市会議員に当選した。札幌市会議員としては、札幌市の発展に尽力し、札幌市電の敷設や、札幌市営バスの運行開始に貢献した。 1946年(昭和21年)に、伊谷は札幌市長に当選した。札幌市長としては、札幌市の復興と発展に尽力し、札幌オリンピックの開催に貢献した。 1950年(昭和25年)に、伊谷は札幌市長を退任した。退任後は、北海道開発庁の参与や、札幌商工会議所の会頭を務めた。 1960年(昭和35年)に、伊谷賢蔵は死去した。享年83歳だった。