享徳4年

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「一庵如清」(?-? 室町時代の僧)

一庵如清の生涯 一庵如清の生没年は不詳だが、室町時代中期に活躍した僧である。清溪弥陀寺を開いた清溪栄西の法孫であり、相國寺の第2世貫首を務めた。 一庵如清は、建長寺の第7世住持である無本覚心の弟子として出家し、その後、清溪栄西の門下に入った。清溪栄西の没後、相國寺の第2世貫首に就任し、後小松天皇の帰依を受けた。 一庵如清は、禅宗の修行を重視し、坐禅と公案による悟りの道を説いた。また、書画にも優れ、多くの墨蹟を残している。 一庵如清は、応仁の乱の際に相國寺を焼失し、その後、再建に尽力した。また、後花園天皇の勅願により、建仁寺に塔頭である一庵院を開いた。 一庵如清は、70歳を超えても精力的に禅の教えを説き続け、多くの弟子を育てた。最終的に、建仁寺塔頭の常住院で亡くなった。 一庵如清は、室町時代中期の禅宗の代表的な僧の一人であり、その思想と実践は、後世の禅宗に大きな影響を与えた。
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臨済宗の僧である温伯正琇の生涯と業績

温伯正琇の生い立ちと出家 温伯正琇は、1464年(寛正5年)に、京都の臨済宗の寺である相国寺の塔頭である善住院に生まれた。幼名は長松丸といい、幼い頃から知恵が良く、学問を好んだ。 11歳の時、相国寺の塔頭である萬壽院に入って出家し、諱を正琇と改めた。15歳の時、相国寺の喝食となり、17歳の時、相国寺の侍者となった。 20歳の時、相国寺の住職である春屋妙葩の侍者となり、春屋妙葩から禅の教えを学んだ。23歳の時、春屋妙葩の遷化に伴い、相国寺の塔頭である万寿院の住職となった。 26歳の時、相国寺の塔頭である瑞泉院の住職となり、30歳の時、相国寺の塔頭である慈光院の住職となった。34歳の時、相国寺の塔頭である西芳院の住職となった。 38歳の時、相国寺の塔頭である東福院の住職となり、41歳の時、相国寺の住職となった。相国寺住職として、寺務の改革や、禅の教えの普及に尽力した。 54歳の時、相国寺の住職を退任し、相国寺の塔頭である慈光院で隠居した。58歳の時、慈光院で遷化(せんげ)した。
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大館佐子-室町時代,8代将軍足利義政の側室

大館佐子とは 大館佐子(おおまちさこ、生没年不詳)は、室町時代、8代将軍足利義政の側室。 出自 岩見国(現在の島根県)の大館氏の娘とされる。 足利義政との関係 大館佐子は、永享10年(1438年)、足利義政の側室となった。義政との間に、義尚・義視・義澄・義稙・義冬・義助など、8男6女の計14人の子女を儲けた。 義政は、大館佐子を寵愛しており、永享12年(1440年)には、従五位下に叙され、文安元年(1444年)には、正二位に至った。また、長禄2年(1458年)には、尼僧となって、光浄院殿と号した。 大館佐子は、足利義政の側室として、政治に影響力を持ったとされる。また、文化人としても知られ、禅宗を篤く信仰し、歌を詠むことを好んだ。 死後 大館佐子は、文明元年(1469年)に死去したとされる。墓所は、相国寺(京都市上京区)にある。 大館佐子は、室町時代の女性として、政治や文化に大きな影響を与えた人物である。
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華蔵義曇 – 室町時代の曹洞宗の僧

-華蔵義曇の生涯と経歴- 華蔵義曇は、室町時代中期の曹洞宗の僧です。山城国(現在の京都府)に生まれ、幼い頃から仏教に興味を持ちました。成長後、曹洞宗の寺院である永平寺に入門し、厳しい修行を重ねました。義曇は、その努力が認められ、やがて永平寺の住職となりました。 義曇は、永平寺の住職として、曹洞宗の発展に努めました。また、当時の日本に流行していた禅宗の思想を積極的に取り入れ、曹洞宗の新たな展開を図りました。義曇の功績により、曹洞宗は、日本における禅宗の代表的な宗派の一つとして確立されることになりました。 義曇は、曹洞宗の僧侶としてだけでなく、儒学者としても活躍しました。義曇は、中国の儒教の古典を研究し、その思想を日本に紹介しました。義曇の儒教の思想は、当時の日本の知識人に大きな影響を与え、日本の儒教の発展に貢献しました。 義曇は、70歳で永平寺を退職し、隠居しました。隠居後も、義曇は、曹洞宗の発展に努め、多くの弟子を育て上げました。義曇は、90歳で亡くなりました。
その他

「虚廓長清」- 室町時代の曹洞宗の僧

-虚廓長清の生涯と足跡- 虚廓長清(きょかく ちょうせい、1342年 - 1428年)は、室町時代の曹洞宗の僧である。室町幕府第3代将軍足利義満に師と仰がれ、室町幕府の御用僧として活躍した。 虚廓長清は、肥前国松浦郡(現在の長崎県松浦市)に生まれる。幼名は助太郎。10歳の時に出家し、名を長清と改める。13歳で京都に上り、建仁寺で仏教を学ぶ。20歳の時に、鎌倉の建長寺に転じ、大応国師徹翁義亨に師事した。 徹翁義亨の死後、虚廓長清は越前に移り、永平寺の第17世住持となる。永平寺で10年間住持を務めた後、1388年に京都に戻り、東福寺に住した。1390年に、足利義満の帰依を受け、室町幕府の御用僧となる。 虚廓長清は足利義満の信頼が厚く、幕府の政策に影響を与えることもあった。1392年、足利義満が明に遣使した際には、虚廓長清もその一員として同行している。また、1394年には、足利義満が政権を返上し、出家した際に、虚廓長清がその戒師を務めている。 虚廓長清は1428年に87歳で死去した。遺体は京都の東福寺に葬られた。虚廓長清は、室町時代の代表的な禅僧の一人であり、その生涯と足跡は、室町時代の政治や文化を理解する上で重要な資料となっている。
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畠山持国:室町時代の武将

畠山持国の生涯 畠山持国は、室町時代の武将である。摂津国守護、山城国守護、河内国守護、近江国守護を歴任した。室町幕府の管領も務めた。 畠山持国は、1407年(応永14年)に畠山満家の子として生まれた。1435年(永享7年)に父が死去すると、家督を継いで摂津国守護となった。1441年(嘉吉元年)には、室町幕府の管領に就任した。 畠山持国は、管領在任中に嘉吉の乱を鎮圧した。嘉吉の乱は、室町幕府の将軍である足利義教が、赤松満祐に殺害された事件である。畠山持国は、赤松満祐を追討して、乱を鎮圧した。 畠山持国は、管領を辞任した後も、室町幕府の重臣として活躍した。1473年(文明5年)に死去した。 畠山持国は、室町時代の代表的な武将の一人である。管領として幕府の政務を担い、嘉吉の乱を鎮圧するなどの功績を挙げた。畠山持国は、室町幕府の安定に貢献した武将である。
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「上杉持朝」

扇谷上杉家の6代当主 上杉持朝(うえすぎ もちとも、応永23年(1416年) - 寛正5年9月19日(1464年11月4日))は、扇谷上杉家の6代当主。上杉憲実の嫡男。持朝という名は、室町幕府第6代将軍・足利義教より偏諱を賜って名乗ったものである。 持朝は、応永23年(1416年)に上杉憲実の嫡男として誕生。永享7年(1435年)、父・憲実の隠居により家督を継承した。 持朝の時代、扇谷上杉家は関東地方の有力大名として勢力を誇っていた。しかし、持朝は足利義教の側近・細川持之と対立し、鎌倉公方の足利持氏と結んだ。永享11年(1439年)、持氏は鎌倉を出発して上洛し、持之を討ち取った。この功績により、持朝は義教から感状を賜った。 永享12年(1440年)、持氏は持朝の娘・渋川満直室を妻に迎えた。この婚姻により、扇谷上杉家と鎌倉公方家はより緊密な関係となった。 永享13年(1441年)、持氏は京都の相国寺に禅宗の寺院である持氏寺を建立した。持氏寺は、翌年に持氏の叔父・鎌倉公方足利満貞の菩提寺となった。 嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱が起こり、足利義教が赤松満祐によって暗殺された。持朝は、義教の弟・足利義勝を擁立して赤松氏と戦った。持朝は赤松氏を討ち、義勝を第7代将軍に就けた。 嘉吉3年(1443年)、持氏は鎌倉を離れて上洛し、将軍・義勝を奉じて京都に入った。持朝は、持氏に従って上洛し、義勝の側近として仕えた。 文安元年(1444年)、持氏は持朝を関東に派遣し、鎌倉公方の代理として関東を統治させた。持朝は、鎌倉公方の御所である鎌倉府を再建し、関東の治安維持に努めた。 寛正5年(1464年)、持朝は鎌倉で死去した。享年49。持朝の死後、扇谷上杉家の家督は嫡男・上杉憲顕が継承した。
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雪叟一純-南北朝-室町時代の禅宗僧

曹洞宗の重鎮-雪叟一純 雪叟一純は、南北朝-室町時代に活躍した禅宗の重要な人物で、曹洞宗の重鎮として大きな影響を与えた。1336年に愛知県に生まれ、幼い頃から禅に親しんだと伝えられている。やがて、曹洞宗の祖師である道元の名著『正法眼蔵』に強く惹かれ、その教えを深く学ぶことに傾倒していった。 その後、雪叟は悟りを得るため、各地の禅寺を巡りながら厳しい修行に励んだ。その中で、中国の禅思想に接し、従来の曹洞宗の教えを発展させる新しい思想を形成していった。雪叟は、禅の教えは単に悟りを開くだけでなく、世間の苦しみや矛盾を解決するための実践的な指針であるべきだと主張した。そのため、禅の修行は日常生活の中で行うべきであるとし、坐禅や作務などの実践を通じて、自らを鍛錬し、悟りに向かうことを説いた。 雪叟の教えは、当時の曹洞宗の僧侶や信者たちに大きな影響を与え、曹洞宗の発展に大きく貢献した。また、雪叟は禅の教えをわかりやすく説いた著作を残しており、その思想は現代の仏教界にも大きな影響を及ぼし続けている。 雪叟一純の主な著作には、『雪叟語録』『正法眼蔵随聞記』などがある。『雪叟語録』は、雪叟の禅の教えをまとめたもので、その思想を理解する上で重要な資料となっている。『正法眼蔵随聞記』は、道元の『正法眼蔵』の講義録であり、雪叟が道元の教えをどのように理解していたかをうかがい知ることができる貴重な文献である。 雪叟一純は、曹洞宗の発展に大きく貢献した禅僧であり、その教えは現代の仏教界にも大きな影響を与え続けている。
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飯尾貞連:室町時代の官僚

-飯尾貞連の生涯- 飯尾貞連は、室町時代前期の官僚である。1375年(永和元年)、美濃国恵那郡飯尾荘(現在の岐阜県中津川市)に生まれる。父は飯尾貞清、母は不詳。 貞連は、幼少期から学問に優れており、15歳で京都に上り、儒学を学ぶ。その後、室町幕府に出仕し、侍所奉行や奉行衆などを歴任する。1408年(応永15年)、42歳の若さで伊勢神宮の祭主となる。 貞連は、伊勢神宮の祭主として、神宮の運営や神事の執行に尽力した。また、1414年(応永21年)には、幕府の命を受けて、朝鮮に派遣される。朝鮮との国交回復に成功し、両国の友好関係を深めることに貢献した。 貞連は、1430年(永享2年)に、56歳で死去する。その死は、朝廷や幕府、伊勢神宮など、全国各地で大きな悲しみに包まれた。 貞連は、官僚として、幕府の政務を支え、伊勢神宮の祭主として、神宮の運営や神事の執行に尽力した。また、朝鮮との国交回復に成功し、両国の友好関係を深めることに貢献した。貞連は、室町時代前期を代表する官僚であり、その功績は、今日でも高く評価されている。
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「邦康親王」室町時代の皇族

- 邦康親王の生涯 邦康親王は、1347年に光厳天皇の第一皇子として京都で誕生しました。母は、西園寺公重の娘である西園寺寧子(高倉三位)です。 邦康親王は、幼少期から聡明で学問に優れていました。1359年に元服し、すぐに皇太子となりました。しかし、1362年に父である光厳天皇が廃位され、弟の崇光天皇が即位したため、邦康親王も皇太子を辞任しました。 その後、邦康親王は、世を忍んで隠棲生活を送りました。しかし、1368年に崇光天皇が廃位され、父である光厳天皇が再び即位したため、邦康親王も皇太子に復しました。 1371年、光厳天皇が崩御し、邦康親王が践祚して後光厳天皇となりました。後光厳天皇は、在位中に南北朝合一を実現し、日本の統一を成し遂げました。 1382年、後光厳天皇は譲位して息子の後小松天皇に譲りました。後光厳天皇は、1393年に崩御するまで、上皇として政治に影響力を持ち続けました。 後光厳天皇は、学問を愛し、和歌に優れていました。また、蹴鞠の名手でもありました。後光厳天皇は、日本の文化の発展に大きく貢献した天皇でした。
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「小田朝久」

小田朝久の生涯 小田朝久は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、守護大名です。通称は三郎、法名は道覚です。 小田朝久は、鎌倉時代の終わり頃、越後国頸城郡小田城(現在の新潟県上越市)に生まれました。父は小田朝光、母は不明です。朝久は、幼い頃から武芸に優れており、13歳で元服しました。 朝久は、1331年に勃発した元弘の乱に参加し、鎌倉幕府を打倒しました。その後、建武の新政に参加しましたが、足利尊氏が建武の新政を倒した後は、尊氏に従いました。 尊氏が室町幕府を開いた後は、朝久は越後国の守護に任命されました。朝久は、越後国を治め、尊氏に忠誠を尽くしました。 1352年、朝久は尊氏に従って九州に遠征しました。九州で尊氏が病死した後、朝久は尊氏の弟である足利直義に従いました。しかし、直義と尊氏の嫡男である足利義詮が対立した際、朝久は義詮に従いました。 1358年、直義は義詮に敗れて自害しました。朝久は、直義の死後も越後国を治めましたが、1369年に亡くなりました。 朝久は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。朝久は、武芸に優れており、越後国を治める守護大名として活躍しました。
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二条持通:室町時代の公卿とその生涯

二条持通とは? 二条持通は、室町時代の公卿。二条良基の子、二条持基の弟。通称は三郎。官位は正二位権大納言。 父・二条良基の死後、兄・持基とともに室町幕府と対立。しかし、後に和解し、幕府に出仕した。 文正元年(1466年)、応仁の乱が勃発すると、二条持通は東軍に属して、西軍と戦った。乱後、権大納言に昇進し、幕府の政務を担った。 文明4年(1472年)、二条持通は病のため、出家して了賢と号した。文明12年(1480年)、死去。享年50。
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上杉房顕-室町時代の武将

-上杉房顕の生涯- 上杉房顕は、室町時代の武将です。越後国守護であり、上杉憲顕の長男として誕生しました。 房顕は、若い頃から武芸に優れており、父憲顕の片腕として活躍しました。永享10年(1438年)、憲顕が亡くなると、家督を継いで越後国守護となりました。 房顕は、越後国守護として、領内の治安維持に努めました。また、関東地方にも出陣し、鎌倉公方足利持氏と戦いました。 享徳3年(1454年)、房顕は、鎌倉公方足利成氏と和睦し、関東地方から撤退しました。その後、房顕は、越後国守護として、領内の統治に専念しました。 寛正6年(1465年)、房顕は、61歳で亡くなりました。 房顕は、越後国守護として、領内の治安維持に努め、関東地方にも出陣して鎌倉公方と戦いました。また、領内の統治に専念し、越後国を発展させました。 房顕は、室町時代の武将として、重要な役割を果たした人物です。
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– 「梵勝」

-梵勝とは- 梵勝とは、仏教の法会において、読経や声明の終わりに唱える言葉です。梵語で「サルヴァ・マンガラ・マハー・マンガラ(すべての吉祥、偉大な吉祥)」を意味し、吉祥、幸福、安泰を祈願する意味があります。 梵勝は、法会の最後に唱えることが多く、読経や声明の終わりに「南無妙法蓮華経」と唱えた後に、梵勝を唱えます。また、仏像や仏塔を参拝した際にも、梵勝を唱えて祈願することがあります。 梵勝は、その音の響きが美しく、吉祥、幸福、安泰を祈願する意味があることから、仏教の法会や参拝において、広く用いられています。 梵勝には、さまざまな種類があり、その内容もさまざまです。代表的な梵勝としては、以下のようなものがあります。 * 南無妙法蓮華経 * 南無阿弥陀仏 * 南無観世音菩薩 * 南無地蔵菩薩 * 南無釈迦牟尼仏 梵勝は、仏教の信仰者であれば、誰でも唱えることができます。また、仏教の法会や参拝に参加する際には、梵勝を唱えて祈願することが、礼儀正しいとされています。