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沢田研二

沢田研二のプロフィール 沢田研二は、1948年6月25日生まれ、京都府京都市出身の歌手、俳優です。愛称は「ジュリー」。 1966年にザ・タイガースのボーカルとしてデビュー。1971年にザ・タイガース解散後、ソロ歌手として活動を開始します。 沢田研二は、その甘いルックスと歌声で一躍人気歌手となります。1972年にリリースしたシングル「君をのせて」は大ヒットを記録し、日本レコード大賞を受賞しました。 沢田研二は、歌手としてだけでなく、俳優としても活躍しています。1973年に公開された映画「傷だらけの天使」で主演を務め、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞しました。 沢田研二は、1975年に杏里との結婚を発表。しかし、1987年に離婚しました。 沢田研二は、1991年に中国人の女性と再婚。2010年に離婚を発表しました。 沢田研二は、現在も歌手、俳優として活動しています。 沢田研二の代表曲 * 君をのせて(1972年) * 勝手にしやがれ(1977年) * TOKIO(1980年) * チャコの海岸物語(1981年) * 渚のラブレター(1985年) * 硝子の少年(1987年) * 太陽の季節(1988年) 沢田研二の代表作 * 傷だらけの天使(1973年) * 仁義なき戦い 代理戦争(1973年) * 唐獅子牡丹(1978年) * ブラック・レイン(1989年) * ゴジラvsキングギドラ(1991年) * 釣りバカ日誌(1996年)
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原田芳雄:昭和後期から平成時代にかけて活躍した俳優の生涯と代表作

- 原田芳雄の生い立ちと俳優座入団 原田芳雄は、1933年1月29日に京都府京都市に生まれました。父親が僧侶の寺に生まれ、父親が住職を務める奈良県五條市で幼少期を過ごしました。原田は幼い頃から映画が好きで、よく映画館に通っていたそうです。 1951年、原田は京都府立京都第一高等学校を卒業した後、俳優座の養成所に入所しました。俳優座は、1954年に俳優座劇場を創設した映画監督・演出家の千田是也が主宰する演劇集団です。原田は俳優座で演技を学び、1956年に俳優座の劇団員となりました。 俳優座での活動中には、映画やテレビドラマにも出演するようになりました。1957年に公開された映画『純情部隊』で映画デビューを果たし、その後も数多くの映画に出演しました。また、テレビドラマでは、1960年に放送された『アトムボーイ』で主演を務め、人気を博しました。 1964年、原田は俳優座を退団し、フリーの俳優として活動するようになります。フリーになってからは、さらに多くの映画に出演するようになり、個性派俳優として活躍しました。1973年に公開された映画『仁義なき戦い』では、やくざの親分を演じ、その演技が高く評価されて、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞しました。 原田は、1980年代以降も、映画やテレビドラマに出演し続けました。1987年に公開された映画『マルサの女2』では、税務署の調査官を演じ、その演技が高く評価されて、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。原田は、1999年に公開された映画『鉄道員(ぽっぽや)』で主演を務め、その演技が高く評価されて、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞しました。 原田は、2011年7月19日に、肺がんのため大阪府内の病院で死去しました。享年78でした。原田は、昭和後期から平成時代にかけて活躍した日本を代表する俳優の1人です。その個性的な演技は、多くの映画ファンに愛されました。
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歌舞伎役者 市川宗三郎 (初代)

-初代市川団十郎門下として- 初代市川宗三郎は、初代市川団十郎の門下として、歌舞伎役者としての道を歩み始めました。団十郎は、当時最も人気のある歌舞伎役者であり、その芸風を宗三郎も受け継ぎました。宗三郎は、団十郎の勧めで、1697年に江戸の歌舞伎座で初舞台を踏み、その芸が評判となりました。その後、宗三郎は、団十郎の座である中村座に移り、次第に頭角を現していきました。1704年には、中村座の座頭となり、歌舞伎界での地位を確立しました。 宗三郎は、歌舞伎役者として、その芸風で評判が高く、また、新作歌舞伎の台本も手がけるなど、歌舞伎界の発展に貢献しました。宗三郎は、1735年に死去しましたが、その芸風は、子息の2代目市川宗三郎や、養子の市川團十郎 (2代目)に受け継がれ、歌舞伎界の発展に貢献しました。 宗三郎は、団十郎の門下として、歌舞伎役者としての道を歩み始め、その芸風で評判を得て、中村座の座頭まで上り詰めました。また、新作歌舞伎の台本も手がけるなど、歌舞伎界の発展に貢献しました。宗三郎の芸風は、子息の2代目市川宗三郎や、養子の市川團十郎 (2代目)に受け継がれ、歌舞伎界の発展に貢献しました。
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有島一郎 – 戦後映画・テレビ界を盛り上げたバイプレイヤー

生い立ちとデビュー 有島一郎は、1921年(大正10年)1月1日に東京市日本橋区本石町(現在の東京都中央区日本橋本石町)で生まれた。父は有島武郎、母は波多野秋子。有島武郎は、小説家として知られるが、有島一郎が生まれる前に亡くなっている。 有島一郎は、幼い頃から映画に興味を持ち、映画館によく通っていた。中学卒業後、日本映画俳優学校に入学し、演技を学ぶ。卒業後、松竹映画に入社し、1941年(昭和16年)に『母と娘』で映画デビューを果たした。 映画デビュー後、有島一郎は主に脇役として活躍した。戦後、テレビ放送が始まると、テレビドラマにも出演するようになった。テレビドラマでは、『私は貝になりたい』(1958年)、『三匹の侍』(1963年)、『大河ドラマ 竜馬がゆく』(1968年)などに出演し、人気を博した。 有島一郎は、1995年(平成7年)に亡くなった。享年74歳。有島一郎は、戦後映画・テレビ界を盛り上げたバイプレイヤーとして、多くの人々に愛された。
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「高田実」- 明治-大正時代の舞台俳優

- 新派の団十郎と呼ばれた俳優- 高田実 高田実は、明治-大正時代に活躍した舞台俳優です。新派の団十郎と呼ばれ、その演技は高く評価されました。 高田実は、1878年(明治11年)に東京で生まれました。幼い頃から芝居に興味があり、16歳の時に劇団に入団しました。その後、新派の劇団である「松竹新派」に入団し、頭角を現しました。 高田実の演技は、リアリティーがあり、情感豊かでした。特に、悲劇の役を演じさせると右に出る者がいないと評されました。また、舞踊にも優れており、その華麗な舞いは多くの人を魅了しました。 高田実は、1923年(大正12年)に関東大震災に遭い、一時的に舞台を離れます。しかし、その後も活動を再開し、晩年まで第一線で活躍しました。 高田実は、1955年(昭和30年)に77歳で亡くなりました。その死は、日本の演劇界に大きな衝撃を与えました。高田実は、日本を代表する舞台俳優であり、その功績は今も語り継がれています。 以下は、高田実の代表的な舞台作品です。 * 「勧進帳」(1914年) * 「仮名手本忠臣蔵」(1915年) * 「椿姫」(1919年) * 「マクベス」(1922年) * 「ハムレット」(1925年) * 「オイディプス王」(1928年) * 「羅生門」(1931年) * 「桜の園」(1933年) * 「海辺の殺人」(1948年) * 「どですかでん」(1951年) これらの作品は、いずれも高田実の演技の素晴らしさを示しています。高田実は、日本の演劇界に大きな足跡を残した偉大な俳優でした。
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藤木孝:舞台と歌と映画で活躍した日本の俳優

藤木孝の生い立ちと初期の経歴 藤木孝は、1930年2月27日に東京で生まれました。幼少期から芸能界への憧れが強く、1949年に東映に入社しました。当初は俳優として活躍していましたが、1954年に東映を退社し、フリーランスとして活動を開始します。 フリーランスとして活動を開始した藤木孝は、映画、舞台、テレビドラマなど様々な作品に出演しました。映画では、黒澤明監督の「羅生門」(1950年)や「七人の侍」(1954年)、小津安二郎監督の「晩春」(1949年)や「東京物語」(1953年)などに出演しています。舞台では、シェイクスピアの「ハムレット」や「マクベス」、ギリシャ悲劇の「オイディプス王」などに出演しています。テレビドラマでは、NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」(1964年)や「勝海舟」(1974年)、フジテレビの「三匹の侍」(1963年)や「大岡越前」(1970年)などに出演しています。 藤木孝は、俳優としてだけでなく、歌手としても活躍しました。1956年に「赤い夕陽の丘」でデビューし、その後も「青い山脈」や「星の流れに」などのヒット曲をリリースしています。1960年には、NHKの紅白歌合戦に初出場を果たしています。 藤木孝は、舞台、歌、映画で活躍した日本の俳優です。その演技力と歌唱力は高く評価され、多くの賞を受賞しています。1997年に亡くなりましたが、その功績は今もなお語り継がれています。
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津川雅彦:昭和後期-平成時代の俳優

役者一家に生まれた津川雅彦 津川雅彦は、1934年に京都市で生まれた俳優である。父は俳優の津川四郎、母は女優の北林谷栄であり、姉の津川敏子も女優である。幼い頃から映画や演劇に親しみ、1952年に松竹に入社して俳優デビューを果たした。 津川雅彦は、端正な顔立ちと演技力の高さで人気を集め、映画やテレビドラマ、舞台で活躍した。特に、1960年代から1970年代にかけては、ATG映画や新劇で活躍し、その演技は高く評価された。また、1980年代にはテレビドラマ「西遊記」で孫悟空役を演じ、国民的人気を獲得した。 津川雅彦は、その生涯で数多くの映画やテレビドラマ、舞台に出演し、多くの賞を受賞した。また、後進の俳優の育成にも力を入れ、演技指導を行うなど、日本の演劇界の発展に貢献した。2018年、84歳で亡くなった。 津川雅彦は、昭和後期から平成時代にかけて活躍した俳優であり、その演技は多くの人々に愛された。その死は、日本の演劇界にとって大きな損失となった。
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「山内明」(1921-1993)-昭和-平成時代の俳優

-山内明の生涯- 山内明は、1921年3月15日に東京府東京市浅草区浅草公園六区(現在の東京都台東区浅草)に生まれた。父は東宝の映画監督である山内英一、母は女優の橘公子。 1938年、山内は松竹映画に入社し、翌1939年に『君を忘れない』でデビューした。その後、東宝、大映、日活など各社の映画に出演し、1950年代には『ゴジラシリーズ』の主人公である芹沢大助博士役を演じて人気を博した。 1960年代以降は、テレビドラマや舞台を中心に活躍した。 テレビドラマでは、『天皇の料理番』、『遠山の金さん』、『水戸黄門』、『大岡越前』などの人気作に出演し、『太陽にほえろ!』では、第1話から第327話までボスこと島公之を演じた。 映画でも、1970年に公開された『日本沈没』で、主人公の田所博士役を演じ、1980年には『復活の日』で、主人公の佐山隼人役を演じた。 山内は、1993年7月2日に東京都杉並区の自宅で死去した。享年72歳。 山内は、その渋い演技力と、温厚な人柄で、多くのファンから愛された俳優であった。
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泉谷しげる-昭和後期から平成を代表するシンガーソングライター

泉谷しげるの生涯 泉谷しげるは、1948年7月11日に広島県広島市で生まれた。父親は会社員、母親は専業主婦で、2歳上の兄と4歳上の姉がいる。泉谷は、子供の頃から音楽に興味を持ち、中学時代にはギターを始めた。高校卒業後は、広島にある広島電機大学に進学したが、1年で中退して、音楽の道を志した。 1967年、泉谷は上京し、音楽活動を開始した。最初は、フォークシンガーとして活動していたが、1971年にロックバンド「泉谷しげるグループ」を結成し、ロックミュージシャンとしてデビューした。泉谷しげるグループは、1972年に「春夏秋冬」という曲でブレイクし、一躍人気バンドとなった。 泉谷しげるグループは、1975年に解散し、泉谷はソロシンガーとして活動を開始した。泉谷は、ソロシンガーとして数多くのヒット曲をリリースし、人気シンガーソングライターとなった。泉谷の曲は、社会問題や政治問題を題材にしたものが多く、メッセージ性の強い曲として知られている。 泉谷は、音楽活動だけでなく、俳優としても活躍している。泉谷は、1976年に映画「仁義なき戦い」でデビューし、その後も多くの映画に出演している。泉谷は、俳優としても高い評価を受けており、数々の賞を受賞している。 泉谷は、2000年に脳梗塞を発症し、一時的に音楽活動を休止した。しかし、泉谷は2002年に音楽活動を再開し、現在も精力的に活動している。泉谷は、2014年に紫綬褒章を受章し、2018年には旭日小綬章を受章した。 泉谷は、昭和後期から平成を代表するシンガーソングライターであり、俳優である。泉谷の曲は、社会問題や政治問題を題材にしたものが多く、メッセージ性の強い曲として知られている。泉谷は、音楽活動だけでなく、俳優としても活躍しており、俳優としても高い評価を受けている。
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飯沼慧の経歴と主な作品

飯沼慧の生い立ちと経歴 飯沼慧は、1964年に北海道苫小牧市に生まれました。幼い頃から絵を描くことに興味を持ち、高校卒業後は東京藝術大学美術学部に進学しました。大学卒業後は、フリーランスのイラストレーターとして活躍し、雑誌や書籍の挿絵、広告のイラストなどを多数手がけました。 1990年代後半から、飯沼慧は絵本作家としても活動を始め、2002年に発表した絵本「はじめてのこい」が大ヒットしました。その後も、「ぐるんぱのようちえん」「貝がらの中」(共に福音館書店)など、多くの絵本を発表しています。 飯沼慧の絵は、淡い色調と温かみのあるタッチが特徴的です。また、ユーモアのあるストーリー展開や、心の機微を繊細に描いた作風で人気を集めています。飯沼慧の絵本は、国内外で高く評価されており、数々の賞を受賞しています。 飯沼慧は、絵本作家としてだけでなく、挿絵画家、画家としても活躍しています。2016年には、第26回講談社出版文化賞さしえ賞を受賞しました。飯沼慧の活動は、幅広い世代に愛されており、今後の活躍が期待されています。
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初代沢村宗十郎 – 江戸時代の歌舞伎役者

-初代沢村宗十郎の生涯- 歌舞伎役者・初代沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)は、1650年に京都で生まれました。12歳の頃、江戸へ出て中村勘三郎の門下となり、中村勘五郎と名乗りました。17歳で若衆役に出世し、19歳で立役に転じました。 初代沢村宗十郎は、歌舞伎の新しい演目を開拓し、歌舞伎の新しい表現方法を創造しました。また、歌舞伎の役者としてだけでなく、脚本家としても活躍しました。特に、世話物の脚本を多く執筆し、歌舞伎の新しいジャンルを確立しました。 初代沢村宗十郎は、1717年に68歳で亡くなりました。しかし、彼の歌舞伎に対する功績は、今もなお受け継がれています。彼の演目や表現方法は、現代の歌舞伎にも大きな影響を与えています。 初代沢村宗十郎の生涯を簡単にまとめると以下の通りです。 * 1650年、京都で生まれる。 * 1662年、江戸へ出て中村勘三郎の門下となる。 * 1669年、若衆役に出世。 * 1671年、立役に転じる。 * 1673年、初代沢村宗十郎を襲名。 * 1717年、68歳で亡くなる。 初代沢村宗十郎は、江戸時代の歌舞伎を代表する役者の一人です。彼の功績は、今もなお受け継がれています。
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伊丹十三 – 日本映画界の巨匠

- 伊丹十三の生い立ちと経歴 伊丹十三は、1933年8月16日に京都市で生まれました。父は映画監督の伊丹万作、母は女優の春川ふじこです。1952年に京都大学に入学し、経済学部を卒業しました。卒業後は松竹に入社し、助監督として働き始めました。1962年に監督デビュー作「おとなのけんか」を発表し、その後も「にごりえ」「お葬式」「タンポポ」「マルサの女」など、数々のヒット作を世に送り出しました。1997年に食道がんで亡くなるまで、映画監督として活躍を続けました。 伊丹十三は、その斬新な映画作りで日本映画界に大きな影響を与えた監督です。彼の作品は、社会問題や人間の本質を鋭く描いたものが多いのが特徴です。また、伊丹十三は、ユーモアセンスにも優れており、彼の作品には笑いと感動が入り混じっています。 伊丹十三の作品は、国内外で高い評価を受けており、数々の賞を受賞しています。1985年に映画「お葬式」でキネマ旬報ベスト・テン第1位を受賞し、1987年に映画「タンポポ」でカンヌ国際映画祭パルムドールにノミネートされました。また、1993年には映画「マルサの女」で日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞しました。 伊丹十三は、その才能とユーモアセンスで、日本映画界に大きな足跡を残した監督です。彼の作品は、今もなお多くの人々に愛され続けています。
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人物列伝-米倉斉加年

-俳優、演出家としての功績- 米倉斉加年は、俳優として数多くの映画、テレビドラマ、舞台に出演し、高い評価を得てきた。また、演出家として、舞台、テレビドラマ、映画を手がけ、その手腕を遺憾なく発揮している。 -俳優としての功績- 米倉斉加年は、1960年に俳優としてデビューし、以後、数多くの映画、テレビドラマ、舞台に出演してきた。映画では、『砂の器』(1974年)、『八甲田山』(1978年)、『蒲田行進曲』(1982年)、『男はつらいよ』(1989年)、『釣りバカ日誌』(1991年)などに出演し、その存在感を示した。テレビドラマでは、『白い巨塔』(1969年)、『大河ドラマ・龍馬伝』(2010年)、『半沢直樹』(2013年)などに出演し、国民的な人気俳優となった。舞台では、『マクベス』(1971年)、『セールスマンの死』(1978年)、『ハムレット』(1985年)、『リア王』(1992年)などに出演し、その演技力の高さを証明した。 -演出家としての功績- 米倉斉加年は、1980年代から演出家として活動を開始し、舞台、テレビドラマ、映画を手がけてきた。舞台では、『夏の夜の夢』(1982年)、『ヴェニスの商人』(1985年)、『ロミオとジュリエット』(1988年)、『マクベス』(1991年)など演出を担当し、その演出力の高さを評価された。テレビドラマでは、『大河ドラマ・龍馬伝』(2010年)、『半沢直樹』(2013年)など演出を担当し、その演出手腕を遺憾なく発揮した。映画では、『釣りバカ日誌』(1991年)、『釣りバカ日誌2』(1992年)、『釣りバカ日誌3』(1993年)など演出を担当し、その演出力の高さを証明した。 米倉斉加年は、俳優としても演出家としても、数多くの功績を残してきた。その功績は、これからも長く語り継がれることだろう。
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小沢栄太郎:昭和の舞台演劇界を代表する俳優・演出家

-早稲田小劇場に端を発する新劇の発展を支えた俳優・演出家- 小沢栄太郎は、昭和の舞台演劇界を代表する俳優・演出家です。1902年(明治35年)に東京で生まれ、1921年(大正10年)に早稲田大学に入学します。在学中に演劇部に所属し、そこで演劇の基礎を学びました。 1924年(大正13年)に早稲田大学を卒業後、小山内薫が主宰する築地小劇場に入団します。築地小劇場は、日本の新劇運動の中心的な存在であり、小沢栄太郎はそこで多くの舞台に出演しました。1928年(昭和3年)には、築地小劇場の解散に伴い、早稲田小劇場を設立します。 早稲田小劇場は、新劇運動の新たな拠点となり、小沢栄太郎はそこで多くの作品を上演しました。また、早稲田小劇場は、多くの俳優や演出家を輩出し、日本の新劇の発展に大きな貢献をしました。 戦後、小沢栄太郎は、映画やテレビドラマにも出演するようになります。1959年(昭和34年)には、文化功労者に選ばれ、1974年(昭和49年)には、紫綬褒章を受章しました。1984年(昭和59年)に死去しました。 小沢栄太郎は、日本の新劇の発展に大きな貢献をした俳優・演出家です。早稲田小劇場を設立し、多くの作品を上演した功績は、高く評価されています。また、映画やテレビドラマにも出演し、多くの国民に親しまれました。
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芳村伊十郎(初代)と芳村伊三郎(2代)

初代芳村伊十郎の生涯 初代芳村伊十郎は、1828年に江戸に生まれた歌舞伎役者です。本名は芳村伊三郎といい、屋号は佐野屋。父は歌舞伎役者の芳村伊三郎(2代目)、母は歌舞伎役者の芳村染五郎(2代目)です。 伊十郎は幼い頃から歌舞伎の稽古を始め、1838年に初舞台を踏みました。1847年に父が没すると、2代目芳村伊十郎を襲名します。 伊十郎は、気品のある容姿と優れた演技力で人気を集め、江戸歌舞伎の第一人者として活躍しました。特に、勧進帳の弁慶や、義経千本桜の忠信などの役柄を得意とし、多くの名舞台を残しました。 1872年、伊十郎は東京に移住し、新富座の座頭となります。新富座は、伊十郎の尽力によって、歌舞伎の重要な劇場として発展しました。 伊十郎は、1893年に亡くなりました。享年66。伊十郎の死は、歌舞伎界に大きな衝撃を与え、多くの追悼の演目が上演されました。 伊十郎は、歌舞伎の発展に大きな功績を残した名優でした。その演技は、今日でも多くの歌舞伎役者の手本とされています。
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三国一朗の生涯と功績

- 昭和の司会者の草分け 三国一朗は、昭和の司会者の草分けであり、日本テレビ放送網 (NTV) の黎明期を支えた人物である。1928年東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、1954年にNTVに入社。1956年に「お笑い招待席」の司会を務め、一躍全国区のスターとなった。その後、「ザ・ヒットパレード」「三波伸介の凸凹大学校」「ズバリ言うわよ!」など、数多くの人気番組の司会を務めた。また、ラジオ番組「オールナイトニッポン」の初代パーソナリティも務めた。 三国の司会の特徴は、軽妙なトークと巧みな進行である。常に笑顔を絶やさず、視聴者を飽きさせないトークで番組を盛り上げた。また、共演者との掛け合いも見事であり、番組に活気を与えていた。 三国は、1980年にNTVを退社。その後も、フリーアナウンサーとして活躍し、数多くの番組に出演した。2011年に83歳で死去。 三国の死後、NTVは「三国一朗メモリアル基金」を設立。この基金は、放送業界の発展に貢献した人材を育成することを目的としている。 三国の功績は、日本の放送業界の発展に大きく貢献したことで、その功績は高く評価されている。
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尾上松助(4代):幕末から昭和にかけて活躍した名脇役

4代尾上松助の生涯と経歴 4代尾上松助は、1871年(明治4年)10月29日に、東京市日本橋区の米重に生まれた。本名は尾濱喜代蔵。父は初代尾上松助、母は三代目尾上松助の娘である尾上藤福。幼い頃から芝居好きで、5歳の時に初代尾上松助の養子となり、尾上松助を襲名した。 1882年(明治15年)に、東京座で初舞台を踏んだ。1900年(明治33年)には、新橋演舞場で旗揚げした川上音二郎一座に参加し、1902年(明治35年)には、帝国劇場の旗揚げに参加した。1903年(明治36年)には、森田座で『清水次郎長』を上演し、大ヒットさせた。 1911年(明治44年)には、松竹合名会社を設立し、映画俳優としても活躍した。1913年(大正2年)には、第1回文部省映画普及会賞を受賞した。その後も、映画や舞台で活躍を続け、1959年(昭和34年)には、文化功労者に選ばれた。 1963年(昭和38年)1月11日、東京都港区の自宅で死去した。享年91。 4代尾上松助は、幕末から昭和にかけて活躍した名脇役として知られる。その演技は、リアリティがあり、庶民の生活をリアルに表現した。また、映画や舞台で活躍し、日本の演劇史に大きな足跡を残した。
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清水将夫 – 昭和の俳優

- 清水将夫 - 昭和の俳優 清水将夫は、1922年に大阪府大阪市で生まれた日本の俳優です。1948年に劇団民芸に入団し、1951年に映画デビューしました。映画、テレビドラマ、舞台などに出演し、幅広い活躍を見せました。 - 帝国劇場での活躍 清水将夫は、1960年に帝国劇場の専属俳優となりました。帝国劇場は、東京にある日本の劇場で、歌舞伎やミュージカルなど、さまざまな演目が上演されます。清水将夫は、帝国劇場で数多くの演目に主演し、その演技力と歌唱力で人気を集めました。 清水将夫の帝国劇場での代表作の一つが、1962年に上演されたミュージカル「マイ・フェア・レディ」です。清水将夫は、この作品で主人公のヒギンズ教授を演じました。ヒギンズ教授は、ロンドンに住む言語学の教授で、貧しい花屋の娘であるイライザを淑女に仕立て上げようとします。清水将夫は、この作品でヒギンズ教授の傲慢さとユーモアを巧みに演じ、観客から喝采を浴びました。 帝国劇場での活躍によって、清水将夫は日本のトップ俳優の一人になりました。1976年には、紫綬褒章を受章しました。清水将夫は、2011年に89歳で亡くなるまで、俳優として活躍を続けました。 清水将夫は、日本の演劇界に大きな功績を残した俳優です。その功績は、帝国劇場での活躍によって特に顕著に現れています。清水将夫の演技は、多くの観客に感動を与え、今もなお語り継がれています。
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俳優・長門勇について

長門勇の生い立ちと経歴 1914年1月8日、秋田県横手市で生まれ、6歳の時に父親が亡くなり、母親と姉と3人で苦労しながら育つ。幼少期から映画が大好きで、よく映画館に通っていた。1934年、17歳の時に新劇の劇団「築地座」に入団し、俳優としての道を歩み始める。1942年に東宝映画に入社し、本格的に映画俳優として活躍するようになる。 1943年、映画『姿三四郎』で主演を務め、一躍人気俳優となる。その後も『血煙高田の馬場』『宮本武蔵』などの時代劇映画で活躍し、時代劇スターとして不動の地位を築く。1951年に東宝を退社した後、フリー俳優として活動し、映画、テレビドラマ、舞台など幅広く活躍した。 長門勇は、時代劇映画のスターとして活躍した俳優です。その豪快な演技と存在感は、多くの映画ファンを魅了しました。1979年4月21日に65歳で亡くなりましたが、その作品は今もなお多くの人々に愛され続けています。
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「河原崎権十郎(初代)」(⇒市川団十郎(9代))について

初代河原崎権十郎の功績 * -歌舞伎の革新- 河原崎権十郎(初代)は、歌舞伎を革新する上で重要な役割を果たしました。彼は、それまでの歌舞伎の様式にとらわれず、新しい演技方法を導入しました。また、歌舞伎の演目を大幅に増やし、歌舞伎をより大衆的な演劇にしました。 * -江戸歌舞伎の確立- 河原崎権十郎(初代)は、江戸歌舞伎の確立に貢献しました。彼は、江戸に歌舞伎専用の劇場を建設し、歌舞伎を江戸の庶民に広めました。また、江戸歌舞伎独自の演目や演技方法を開発し、江戸歌舞伎を全国に広めました。 * -歌舞伎の国際化- 河原崎権十郎(初代)は、歌舞伎の国際化にも貢献しました。彼は、歌舞伎を海外に紹介し、歌舞伎を世界的に有名な演劇にしました。また、海外から歌舞伎の俳優や演出家を招聘し、歌舞伎の新しい可能性を探りました。 * -歌舞伎の発展への貢献- 河原崎権十郎(初代)は、歌舞伎の発展に大きく貢献しました。彼は、歌舞伎を革新し、江戸歌舞伎を確立し、歌舞伎を国際化しました。また、歌舞伎の演目を大幅に増やし、歌舞伎をより大衆的な演劇にしました。初代河原崎権十郎は、歌舞伎の歴史上、最も重要な人物の一人です。
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加藤嘉 – 昭和を代表する俳優とその生涯

-早稲田大学卒業後の俳優デビュー- 加藤嘉は、早稲田大学演劇科を卒業後、1933年に新劇協会の創立に参加し、俳優としての活動を本格的に開始しました。新劇協会は、日本における新劇運動の重要な組織であり、加藤嘉は、その中心的人物として活躍しました。 新劇協会では、加藤嘉は、数多くの舞台作品に出演し、その卓越した演技力で高い評価を得ました。特に、1936年に上演された「どん底」での演技は、絶賛されました。加藤嘉は、この作品で、貧困と犯罪に苦しむ男を演じ、その人物の内面をリアルに表現しました。この演技は、彼の代表作の一つとして知られています。 1940年、加藤嘉は、新劇協会を脱退し、自由劇場を結成しました。自由劇場は、新劇運動をより大衆に広めることを目的とした劇団であり、加藤嘉は、その芸術監督として活躍しました。自由劇場は、数多くの舞台作品を上演し、大きな人気を集めました。 1945年、第二次世界大戦が終結すると、加藤嘉は、映画界に進出しました。彼は、数多くの映画に出演し、その独特の演技スタイルで人気を博しました。特に、1952年に公開された「生きものの記録」での演技は、高い評価を受けました。加藤嘉は、この作品で、戦争に翻弄される男を演じ、その心情を繊細に表現しました。この演技は、彼の代表作の一つとして知られています。 加藤嘉は、その後も、多くの映画に出演し、その活躍を続けました。彼は、1985年に亡くなるまで、俳優として活躍し、多くの名作を残しました。加藤嘉は、昭和を代表する俳優の一人であり、その演技力は現在でも高い評価を得ています。
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山本仁太夫

-山本仁太夫の生涯- 山本仁太夫は、1944年5月11日に北海道の室蘭市に生まれた。彼は、1967年に慶應義塾大学を卒業し、その後、三井物産に入社した。三井物産では、鉄鋼や石油の取引を担当し、1999年に取締役、2004年に常務取締役に就任した。 2009年、山本仁太夫は三井物産の社長に就任した。社長就任後は、三井物産の経営改革に取り組み、同社の業績回復に貢献した。また、彼は、海外企業との提携を積極的に進め、三井物産のグローバル化を図った。 2017年、山本仁太夫は三井物産の社長を退任し、相談役に就任した。相談役退任後は、公益財団法人三井文庫の理事長を務めている。 山本仁太夫は、経団連の副会長や日本貿易会の会長も務めた。また、彼は、内閣府の経済財政諮問会議の委員や政府税制調査会の委員も務めており、日本の経済政策に大きな影響を与えている。 山本仁太夫は、日本の経済界を代表する経営者の一人であり、多くの企業や団体で重要な役割を果たしている。彼の功績は、日本の経済の発展に大きく貢献している。
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名優・汐見洋の足跡をたどる

-劇団研究座より築地小劇場まで- 汐見洋氏の演劇における活動は、劇団研究座の創設から始まり、築地小劇場での活躍で頂点を迎えることになります。 劇団研究座は、1922年に、築地小劇場の前身である「築地新喜劇」の創設者である小山内薫氏、築地小劇場の代表である土方与志氏、汐見氏らによって設立されました。研究座は、日本の新劇運動の中心的な存在として、イプセン、チェーホフ、ストリンドベリなど、海外の優れた戯曲を上演し、日本の演劇界に新しい風を吹き込みました。 汐見氏は、研究座の創設メンバーとして、劇団の運営や公演活動に積極的に参加しました。特に、1924年に研究座が上演した「ハムレット」では、ハムレット役を演じ、高い評価を受けました。 1924年、研究座は、築地小劇場を設立しました。築地小劇場は、日本の新劇運動の中心地として、数多くの優れた戯曲を上演し、多くの俳優を輩出しました。汐見氏は、築地小劇場の代表として、劇団の運営や公演活動に尽力しました。 汐見氏は、築地小劇場で、数多くの優れた舞台に立ちました。特に、1926年に上演された「マクベス」では、マクベス役を演じ、その演技は絶賛されました。また、1927年に上演された「リア王」では、リア王役を演じ、その演技もまた高く評価されました。 汐見氏は、1930年に築地小劇場を退団しましたが、その後も、俳優として活躍し続けました。1931年に上演された「椿姫」では、アルマン役を演じ、その演技は絶賛されました。また、1932年に上演された「羅生門」では、下人役を演じ、その演技もまた高く評価されました。 汐見氏は、1933年に死去しましたが、その功績は日本の演劇界に永く語り継がれています。汐見氏は、日本の新劇運動を牽引し、数多くの優れた舞台に立ち、日本の演劇界に多大な貢献をした偉大な俳優でした。
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「市川高麗蔵(4代)」(⇒中山富三郎(なかやま-とみさぶろう)(2代))について

-市川高麗蔵(4代)の略歴- 市川高麗蔵(4代)は、歌舞伎役者。市川高麗蔵の名跡を襲名した4代目。本名は中山富三郎(2代)。 1894年(明治27年)12月16日、東京市日本橋区馬喰町(現在の東京都中央区日本橋馬喰町)に生まれる。父は市川高麗蔵(3代)、母は元松竹の女優であった喜代子。 1903年(明治36年)1月、歌舞伎座で初舞台を踏み、市川高麗蔵(4代)を襲名する。 1911年(明治44年)4月、早稲田大学に入学する。 1918年(大正7年)3月、早稲田大学を卒業する。 1921年(大正10年)10月、帝国劇場で「忠臣蔵」に出演する。 1922年(大正11年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1923年(大正12年)9月、関東大震災が発生する。高麗蔵は、震災で被災し、一時的に舞台活動を休止する。 1924年(大正13年)4月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1925年(大正14年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1926年(昭和元年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1927年(昭和2年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1928年(昭和3年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1929年(昭和4年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1930年(昭和5年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1931年(昭和6年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1932年(昭和7年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1933年(昭和8年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1934年(昭和9年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1935年(昭和10年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1936年(昭和11年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1937年(昭和12年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1938年(昭和13年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1939年(昭和14年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1940年(昭和15年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1941年(昭和16年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1942年(昭和17年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1943年(昭和18年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1944年(昭和19年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1945年(昭和20年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1946年(昭和21年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1947年(昭和22年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1948年(昭和23年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1949年(昭和24年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1950年(昭和25年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1951年(昭和26年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1952年(昭和27年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1953年(昭和28年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1954年(昭和29年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1955年(昭和30年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1956年(昭和31年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1957年(昭和32年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1958年(昭和33年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1959年(昭和34年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1960年(昭和35年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1961年(昭和36年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1962年(昭和37年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1963年(昭和38年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1964年(昭和39年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1965年(昭和40年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1966年(昭和41年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1967年(昭和42年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1968年(昭和43年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1969年(昭和44年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1970年(昭和45年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1971年(昭和46年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1972年(昭和47年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1973年(昭和48年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1974年(昭和49年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1975年(昭和50年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1976年(昭和51年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1977年(昭和52年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1978年(昭和53年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1979年(昭和54年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1980年(昭和55年)1月、歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」に出演する。 1981年(昭和56年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜」に出演する。 1982年(昭和57年)1月、歌舞伎座で「勧進帳」に出演する。 1983年(昭和58年)10月、帝国劇場で「助六由縁江戸桜