公卿

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「藤原資平」

平安時代中期の公卿(くぎょう) 藤原資平は、平安時代中期の公卿(くぎょう)である。藤原北家真夏流の出身であり、藤原良世の子として生まれた。 資平は、若い頃から才能を発揮し、藤原忠平に仕えてその信任を得た。忠平の死後は、村上天皇に仕えて、天慶4年(941年)には権中納言に任ぜられた。 その後、資平は左大臣まで昇進し、村上天皇、冷泉天皇、円融天皇の三代に仕えた。また、彼は権勢を振るい、藤原氏の内紛にも介入した。 資平は、平安時代中期の藤原氏を代表する人物の一人であり、その生涯は藤原氏研究において重要な位置を占めている。 資平が生まれた藤原北家真夏流は、藤原良経が真夏と号したことに始まる。藤原良経は、醍醐天皇の皇后藤原穏子と藤原時平の父である。良経には弟の忠平がおり、藤原氏の中心的人物の一人となった。 資平の父藤原良世は、良経の孫であり、忠平の甥である。良世は、若くして父を亡くし、忠平に育てられた。忠平は、良世を後継者として育て、資平もそれに倣って忠平に仕えた。 資平は、忠平の死後は村上天皇に仕え、権中納言に任ぜられた。その後、左大臣まで昇進し、村上天皇、冷泉天皇、円融天皇の三代に仕えた。 資平は、権勢を振るい、藤原氏の内紛にも介入した。天禄3年(972年)、資平は藤原頼忠と争って敗れ、左大臣を辞任した。しかし、資平はその後も藤原氏の中心人物の一人として活躍を続け、永観2年(984年)に亡くなった。 資平は、平安時代中期の藤原氏を代表する人物の一人であり、その生涯は藤原氏研究において重要な位置を占めている。
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鷹司房平とは?室町時代の公卿について解説

-鷹司房平の生涯- 鷹司房平は、室町時代の公卿で、内大臣、左大臣、右大臣を歴任しました。 正平8年(1353年)に生まれ、応永16年(1409年)に左大臣、翌応永17年(1410年)に右大臣に昇進しました。 応永25年(1418年)に内大臣に任命され、応永30年(1423年)に薨去しました。 鷹司房平は、父である鷹司冬平の死後、鷹司家の家督を継ぎました。 応永6年(1399年)に内大臣に任命され、応永10年(1403年)には左大臣に昇進しました。 応永16年(1409年)には右大臣に任命され、応永25年(1418年)には内大臣に任命されました。 鷹司房平は、室町幕府の将軍である足利義満に仕え、幕府の政務に参与しました。 応永20年(1413年)には、将軍である足利義満の死後、その子の足利義持の補佐役を務めました。 鷹司房平は、応永30年(1423年)に薨去しました。 享年71歳でした。 鷹司房平は、室町時代の公卿として、幕府の政務に参与し、室町幕府の権威を高めることに貢献しました。また、文化人としても知られ、和歌や連歌を好みました。
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紀広浜 – 平安時代前期の公卿について

紀広浜の生誕と家系 紀広浜は、平安時代前期の公卿です。916年(延喜16年)に生まれます。父は右大臣・紀淑人、母は大蔵卿・源光の子である滋野久子です。紀氏は、代々宮中に出仕する家柄で、広浜も若くして朝廷に出仕しました。 広浜は、939年(天慶2年)に権右少弁に任じられ、944年(天慶7年)には権右中弁に昇進します。948年(天暦2年)には参議に任じられ、951年(天暦5年)には権中納言に昇進します。 広浜は、954年(天暦8年)に権大納言に昇進し、958年(康保5年)には大納言に昇進します。960年(康保7年)には右大臣に任じられ、965年(応和5年)には左大臣に任じられます。 広浜は、967年(安和2年)に薨去します。享年52歳でした。広浜は、学問に優れ、和歌にも巧みでした。また、人柄も温和で、人々から愛されました。
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近衛基嗣

-近衛基嗣の生涯- 近衛基嗣は、平安時代中期の公卿・政治家である。権大納言・藤原顕輔の三男として生まれ、権大納言・近衛基実の養子となった。近衛基嗣は幼少の頃から聡明で学問に優れており、16歳で従五位下左近衛少将に叙任された。その後、右近衛中将、右近衛権少将、左近衛権少将などを歴任し、28歳で蔵人頭に任命された。蔵人頭在任中は、関白・藤原頼通を補佐して政務に尽力し、頼通の信任を得ていた。 32歳で参議に任命され、右兵衛督と権中納言を兼任した。その後、権大納言に昇進し、39歳で左近衛大将に任命された。左近衛大将在任中は、前九年の役の総大将として出陣し、安倍頼時を討ち取って奥州の反乱を鎮圧した。また、後三年の役では、源義綱とともに前線で戦い、源頼義・義家父子の勝利に貢献した。 44歳で内大臣に任命され、50歳で左大臣に昇進した。左大臣在任中は、白河天皇の信頼を得て政務を主導し、治世の繁栄に貢献した。56歳で薨去した。 -近衛基嗣の功績- 近衛基嗣は、平安時代中期の優れた公卿・政治家であり、その功績は大きい。 ・関白・藤原頼通を補佐して政務に尽力し、頼通の信任を得た。 ・前九年の役と後三年の役では、総大将として出陣し、安倍頼時を討ち取って奥州の反乱を鎮圧し、源義綱とともに源頼義・義家父子の勝利に貢献した。 ・白河天皇の信頼を得て政務を主導し、治世の繁栄に貢献した。 近衛基嗣は、平安時代中期の政局を支えた名臣として、その名を残している。
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「松殿忠孝」について

松殿忠孝(まつどの-ただたか)とは 松殿忠孝(1792年2月16日 - 1855年8月28日)は、江戸時代後期の公卿。左大臣。光格天皇の外孫。 松殿忠孝の経歴 松殿忠孝は、1792年2月16日に誕生しました。父は権大納言・松殿定和、母は霊元天皇の孫で光格天皇の姉である欣子内親王です。 1801年に元服し、従五位下に叙されました。その後、右馬頭に任じられ、1803年に侍従となりました。1805年に従四位下に叙され、1808年には従三位に昇叙されました。 1810年に権中納言に任じられ、1812年には正三位に昇叙されました。1814年には権大納言に任じられ、1816年には正二位に昇叙されました。 1818年に内大臣に任じられ、1820年には従一位に昇叙されました。1822年に左大臣に任じられ、1824年には左近衛大将を兼任しました。 1828年に辞職しましたが、1830年に左大臣に再任されました。1832年に辞職し、1834年に薨去しました。 松殿忠孝の業績 松殿忠孝は、公卿として多くの功績を残しました。その中でも、特に顕著なのが、幕末の朝廷の安定化に貢献したことでしょう。 松殿忠孝は、孝明天皇の即位後、皇太后である欣子内親王の摂政として、朝政を主導しました。松殿忠孝は、攘夷論者たちと対立しながらも、幕府との関係を調整し、朝廷の安定を維持することに成功しました。 また、松殿忠孝は、学問と文化にも造詣が深く、多くの著作を残しています。その中でも、特に有名なのが、「松殿忠孝日記」です。「松殿忠孝日記」は、松殿忠孝が幕末の政情や文化について記したもので、当時の世相を知る上で貴重な資料となっています。
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藤原光能 – 平安時代後期の公卿

- 藤原光能の生涯と業績 藤原光能は、平安時代後期の公卿です。藤原道長の長男として生まれ、母は藤原妍子です。官位は従一位太政大臣まで昇りました。 光能は、長和4年(1015年)に生まれました。若い頃から聡明で、公卿たちから将来を嘱望されていました。治安4年(1024年)に右近衛少将に任じられ、その後、左近衛中将、右近衛中将を歴任しました。 永承元年(1046年)、光能は内大臣に任じられました。内大臣在任中は、後冷泉天皇の寵臣として権勢をふるいました。康平6年(1063年)、光能は左大臣に任じられました。左大臣在任中は、後三条天皇の側近として政治を主導しました。 延久2年(1070年)、光能は太政大臣に任じられました。太政大臣在任中は、白河天皇の側近として政治を主導しました。承保3年(1076年)、光能は薨去しました。享年62。 光能は、歌人としても知られていました。彼の歌は、勅撰和歌集に多数入集されています。また、光能は、書家としても知られていました。彼の書は、端正で美しいと評されています。 光能は、平安時代後期の公卿として、政治・文化の両面で活躍しました。
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徳大寺公能 – 平安時代後期の公卿、歌人

-# 徳大寺公能の生涯と業績 徳大寺公能(とくだいじきんよし)は、平安時代後期の公卿、歌人です。権大納言・徳大寺実能の子として誕生し、金吾権佐、蔵人、左少将、右少将を歴任しました。その後、正三位、右中将、権中納言、正二位、権大納言に昇進し、治承3年(1179年)には従一位に叙されました。 公能は、歌人としても知られており、『金葉和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』に和歌が収められています。また、公能は『梁塵秘抄』『風葉和歌集』の撰者としても知られています。 建久4年(1193年)、公能は75歳で亡くなりました。公能の死後、その歌は多くの歌人に影響を与え、和歌の発展に貢献しました。 公能の業績は、歌人としてだけでなく、政治家としても顕著です。公能は、平清盛の側近として活躍し、清盛の政権を支えました。また、公能は、源頼朝と平清盛の和睦にも尽力しました。 公能は、平安時代後期の公卿、歌人として、政治、文化の両面で活躍した人物です。公能の業績は、今日でも高く評価されています。
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「坊門隆清」

-人名辞典坊門隆清とは- 坊門隆清(ぼうもん たかきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿・歌人。藤原北家閑院流、藤原兼輔の孫、藤原定輔の子。官位は正二位・権中納言。 -生涯- 久安元年(1145年)、藤原定輔の子として誕生。 嘉応2年(1170年)、河内守に任ぜられる。建久2年(1191年)、32歳の時に参議に任命され公卿となり、それ以降は権中納言・権大納言を歴任した。 建保2年(1214年)に亡くなった。 -和歌- 隆清は藤原定家の歌壇で活躍し、「和歌十名家」の一人に数えられている。 隆清の和歌は、藤原俊成の「古今和歌六帖」に採録されている。 また、隆清は『隆清集』という歌集を撰進している。 -人物- 隆清は、容姿端麗で、歌才にも恵まれていた。 また、隆清は藤原定家の歌壇で活躍し、歌人としても著名であった。
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大炊御門冬信-鎌倉・南北朝時代の公卿

大炊御門冬信の生い立ちと経歴 大炊御門冬信は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期にかけての公卿。権大納言・大炊御門良宗の子。官位は従一位・内大臣。冬信は、1292年(正応5年)に生まれました。父は権大納言・大炊御門良宗、母は四条隆親の娘です。冬信は、幼い頃から聡明で、和歌や漢詩に秀でていました。14歳の時、従五位下侍従に任じられ、以後、順調に昇進を重ねていきます。 1313年(正和2年)、22歳の時、参議に任じられて公卿の仲間入りを果たします。その後、権中納言、権大納言を歴任し、1336年(建武3年)、内大臣に任じられます。冬信は、内大臣在任中に、北朝から南朝に帰順し、南朝政権の中枢として活躍しました。 1339年(延元4年)、冬信は、尊氏に捕らえられ、伊豆国に流されました。しかし、翌年、足利直義の仲介によって赦免され、京都に戻りました。冬信は、その後も南朝政権に仕え、1369年(正平24年)に78歳で亡くなりました。 冬信は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期にかけて活躍した公卿です。冬信は、聡明で和歌や漢詩に秀でており、順調に出世を重ねていきました。冬信は、内大臣在任中に、北朝から南朝に帰順し、南朝政権の中枢として活躍しました。冬信は、1369年(正平24年)に78歳で亡くなりました。
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公卿・高階成忠の生涯と功績

-公卿・高階成忠の生涯と功績- -公卿・高階成忠の生涯と功績- 高階成忠は、平安時代前期に活躍した公卿です。清和天皇の第二皇子で、安貞親王の兄にあたります。貞観18年(876年)に誕生し、元慶3年(879年)に親王宣下を受けました。幼少期には父である清和天皇の寵愛を受け、皇位を継ぐものと期待されていましたが、平安朝の「摂関政治」の台頭により、臣下の藤原基経が権力を握り、成忠の皇位継承は叶いませんでした。 成忠は、宇多天皇の御代には左大臣を務め、寛平元年(889年)に東宮傅となり、同2年(890年)に右大臣となりました。宇多天皇が譲位した後、醍醐天皇が即位すると、成忠は摂政となり、事実上の国家最高権力者となりました。 成忠は、摂政在任中に多くの功績を残しました。まず、醍醐天皇の即位を支え、国政の安定に貢献しました。また、学問を奨励し、昌泰4年(901年)に延喜式(905年制定)の編纂を命じました。延喜式は、政治、経済、文化など、平安時代のあらゆる分野に関する法令を網羅した大法典で、後の時代にも大きな影響を与えました。 さらに、成忠は、醍醐天皇の命を受けて、寛平6年(894年)に遣唐使を派遣しました。この遣唐使は、唐朝の衰退により中止されていましたが、成忠は日唐交流の復活を目指して派遣したのです。遣唐使は、唐に滞在すること3年、唐朝の文物や制度を学び、日本に持ち帰りました。 成忠は、摂政在任中の延長8年(930年)に薨去しました。享年55歳でした。成忠は、その生涯を通じて、皇室と藤原氏の調和を図り、平安時代の政治と文化の発展に貢献した人物でした。
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錦織従久 – 江戸時代中期の公卿

錦織従久の生涯 錦織従久は、江戸時代中期の公卿です。字は子貞、号は松窓。従三位参議、左近衛権中将、権中納言、中納言、権大納言、大納言、太政大臣を務めました。 錦織従久は、1673年(寛文13年)に京都で生まれました。父は錦織頼兼、母は烏丸光広の娘です。錦織家は、藤原北家閑院流の流れを汲む公家であり、従久は、幼少の頃から優れた才能を示しました。 従久は、1686年(貞享3年)に14歳で元服し、従五位下に叙せられました。その後、累進して1698年(元禄11年)に参議に任じられました。1703年(元禄16年)に左近衛権中将に任じられ、1706年(宝永3年)に権中納言に任じられました。 1710年(宝永7年)に中納言に任じられ、1715年(正徳5年)に権大納言に任じられました。1718年(享保3年)に大納言に任じられ、1726年(享保11年)に太政大臣に任じられました。 錦織従久は、在任中に多くの功績を挙げました。1716年(正徳6年)には、享保の改革を断行した徳川吉宗を補佐し、1720年(享保5年)には、幕府の財政を立て直すために新税を導入しました。また、1721年(享保6年)には、京都の街を整備し、1725年(享保10年)には、全国の寺社を調査して寺社奉行の権限を強化しました。 錦織従久は、1737年(元文2年)に65歳で薨去しました。従一位太政大臣を追贈されました。
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藤原雅隆 – 鎌倉時代の公卿

藤原雅隆の生涯 藤原雅隆は、鎌倉時代の公卿。権大納言・藤原教定の次男。母は参議・清原朝頼の娘。官位は従一位・権大納言。 正元元年(1259年)、父・教定が後嵯峨上皇の訴えにより配流になった際に22歳という若さで家督を継ぐ。 建治元年(1275年)には父・教定の官位を継いだ。弘安5年(1282年)に権大納言に昇進。正応5年(1292年)に辞任するまで10年間務めた。 正応6年(1293年)には従一位に叙せられ、正安2年(1300年)に薨去するまで公卿として活躍した。 藤原雅隆は、和歌にも優れており、『続拾遺和歌集』や『続古今和歌集』に和歌が収められている。また、『雅隆卿記』という日記も残している。 『雅隆卿記』は、嘉元3年(1305年)から正安2年(1300年)までの間の公家社会の様子や朝廷の動きを記録したもので、貴重な史料となっている。 藤原雅隆は、鎌倉時代の公卿として、和歌にも優れ、日記も残した人物である。
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– 花山院師信

-# 花山院師信の生涯 花山院師信(かさんのいんもろただ) 本家流を継いで花山院流宗家を相続する。 歌合わせ、蹴鞠の開催、優美な詩文で知られ、文治3年(1187) 蔵人、建久8年(1197) 権中納言、建保元年(1199) 権大納言、建保3年(1201) 内大臣まで昇った。 師信は、院政を巡って一時失脚したが、建保4年(1202) 従一位に昇り、建保6年(1204) 春宮権大夫に任じられた。 しかし建永元年(1206) 落飾し、まもなく亡くなったと言われている。 師信は、歌人としても知られており、『新古今和歌集』に18首が入首している。 『新千載和歌集』に3首が入集している。 師信は、公卿としてだけではなく、歌人としても活躍した人物である。
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九条光経

-九条光経の生涯- -平安時代後期の公卿- 九条光経(くじょう みつつね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、摂政・九条兼実の四男。官位は従一位・内大臣。正四位下権中納言であった祖父・藤原光房の猶子となる。 -院政期前半の主要人物- 光経は、保元の乱で崇徳院側に加わり、敗北後は配流されるが、父・兼実の尽力により赦免される。その後、平治の乱では平清盛に味方し、平氏政権下で官職を歴任。治承4年(1180年)に発生した平氏政権打倒を目的とした以仁王の挙兵では、光経は平氏側に立って以仁王を討伐した。 -平氏の没落と源氏の勃興- しかし、治承・寿永の乱では、源頼朝に接近して平氏と距離を置き、寿永2年(1183年)に平家が滅亡すると、光経は源頼朝に接近して鎌倉幕府の成立に協力した。頼朝の死後は、その子・源頼家に仕え、建久3年(1192年)には内大臣に任じられた。 -承久の乱と死- 光経は、承久元年(1219年)に承久の乱が起こると、幕府側に立って後鳥羽上皇の軍と戦い、乱の平定に貢献した。承久3年(1221年)には従一位に叙せられるが、翌年に死去した。
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石上宅嗣-奈良時代の公卿

- 石上宅嗣-奈良時代の公卿 - -# 奈良時代の公卿-石上宅嗣 -# 石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)は、奈良時代の公卿で、左大臣を務めた。石上麻呂の子として生まれ、天平年間には従五位下・右少弁に任じられ、その後右大弁、丹波守、大宰少弐を歴任した。天平九年(737年)に、大納言に任じられ、翌年、左大臣となった。 石上宅嗣は、墾田永年私財法を制定し、墾田を私有財産とすることを認めるなど、積極的に政策を推進した。また、蝦夷との戦にも功績を挙げ、蝦夷の首領である大野東人を降伏させた。 天平十五年(743年)、石上宅嗣は、藤原仲麻呂の謀反によって殺害された。享年五十三。 石上宅嗣は、奈良時代の公卿として、政治、軍事、外交の分野で活躍した。その功績は大きく、後の世にも語り継がれている。 -# 石上宅嗣の生涯 -# 石上宅嗣は、690年に、石上麻呂の子として生まれた。父の影響で、政治の道を目指し、早くから政治に関わるようになった。 天平元年(729年)、従五位下・右少弁に任じられ、その後、右大弁、丹波守、大宰少弐を歴任した。 天平九年(737年)、大納言に任じられ、翌年、左大臣となった。左大臣として、墾田永年私財法を制定し、蝦夷との戦にも功績を挙げた。 しかし、天平十五年(743年)、藤原仲麻呂の謀反によって殺害された。享年五十三。 -# 石上宅嗣の業績 -# 石上宅嗣は、奈良時代の公卿として、政治、軍事、外交の分野で活躍した。その功績は大きく、後の世にも語り継がれている。 政治の分野では、墾田永年私財法を制定し、墾田を私有財産とすることを認めた。これは、農業生産の拡大と税収の増加に貢献した。 軍事の分野では、蝦夷との戦で功績を挙げ、蝦夷の首領である大野東人を降伏させた。これは、蝦夷との関係を安定させ、東北地方の開発を促進した。 外交の分野では、唐との関係を強化し、日本の文化や技術の伝播に貢献した。また、新羅との国交を樹立し、朝鮮半島との関係を深めた。 石上宅嗣は、奈良時代の公卿として、政治、軍事、外交の分野で活躍した。その功績は大きく、後の世にも語り継がれている。
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公卿、平基親について

平基親とは 平基親(たいらの もとちか)は、平安時代中期の公卿。平貞盛の六男。母は不明。官位は従二位・権大納言。 平基親は、幼少期から学問に優れ、和歌にも堪能であった。長じて左衛門尉、左近衛少将を歴任。平将門の乱では、平貞盛の命により常陸国に出陣し、乱の鎮圧に貢献した。 その後、平基親は蔵人、左近衛権中将、参議、権中納言と順調に昇進。藤原道頼の没後は、藤原道長の側近として活躍し、従二位・権大納言まで昇り詰めた。 平基親は、藤原道長に仕えながらも、藤原実資とも親しく交際していた。藤原実資の日記「小右記」には、平基親に関する記述が数多く残されており、平基親の人物像を知ることができる。 平基親は、藤原道長の死後、藤原頼通に仕えたが、藤原頼通の側近である藤原頼宗と対立し、失脚した。平基親は、晩年は出家し、寛仁5年(1021年)に59歳で卒去した。 平基親は、平清盛の曽祖父にあたる人物であり、平氏一門の繁栄の礎を築いた重要な人物である。
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近衛尚嗣 – 江戸時代前期の公卿

-近衛尚嗣の生涯- 近衛尚嗣(このえ なおつぐ)は、江戸時代前期の公卿。右大臣・近衛信尹の長男。母は醍醐冬基の娘・智光院(智光院局)。初名は尚卿(なおかた)で、後に尚嗣と改名。官位は従一位・右大臣。 寛永11年(1634年)に生まれる。正保元年(1644年)に元服し、尚嗣と改名。慶安元年(1648年)に参議に任じられ、公卿に列する。その後、権中納言、権大納言を歴任し、万治2年(1659年)に右大臣に昇進。寛文3年(1663年)に辞任するが、寛文7年(1667年)に再び右大臣に任じられ、延宝元年(1673年)まで務めた。 近衛尚嗣は、寛文年間(1661年 - 1673年)に起こった寛文事件に関与した。寛文事件は、幕府の老中・酒井忠清が、江戸城内で刃傷沙汰を起こした事件である。近衛尚嗣は、事件の責任を問われて右大臣を辞任し、蟄居を命じられた。しかし、事件の後に赦免され、公卿に復帰した。 近衛尚嗣は、延宝元年(1673年)に薨去。享年40。 近衛尚嗣は、和歌や書道を嗜み、また、公家衆の筆頭として幕府との交渉にもあたった。寛文事件には関与したが、その後は赦免され、再び公卿に復帰した。近衛尚嗣は、江戸時代前期の公卿として活躍した人物である。
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平安・鎌倉時代の神職、大中臣能隆の生涯

-大中臣能隆の経歴と生涯- 中納言大中臣雅俊の子として京都に生まれる。4歳の頃に父が亡くなったため大中臣家の家督を継いでいる。10歳で元服を行い、従五位下に叙せられ若くして朝廷に仕えた。その後、侍従から左兵衛佐、右近衛少将、左近衛少将を歴任し、従四位下への昇叙を受けた。 治承4年1180年)に起きた平清盛のクーデターの際には、清盛の命を受けた平業盛から「皇位を譲り渡せ」と迫られた高倉天皇に「君命に逆らうことはできないが、天皇の権威を保ちたい」と説得し、平氏に屈することなく退位を拒否させた。この功績により左近衛権中将に任ぜられ、正四位下に昇叙され、侍従頭も兼任した。 寿永3年(1183年)に治承・寿永の乱が勃発すると、後白河法皇に随従して福原へ逃れ、平氏政権に抵抗した。しかし、平氏が福原を焼き払って都に迫ると、法皇は土佐国へ逃れ、能隆は法皇に従わずに都に留まって平氏に降伏した。 乱が終結した後、能隆は朝廷に復帰し、右大臣平清盛に接近してその寵愛を受けた。建久9年(1198年)に平氏政権が滅亡すると、鎌倉幕府の庇護を受けて朝廷に留まった。 建久10年(1199年)に法皇が崩御すると、能隆は出家して法名を浄秀と称した。その後、法皇の菩提を弔うために東大寺に大仏殿を建立し、自身も奈良に移り住んで仏道に専念した。 承元4年(1210年)に東大寺大仏殿の落慶供養が行われ、法皇の菩提を弔った能隆は、その功績により従一位に叙せられた。嘉禄元年(1225年)に奈良で死去した。享年86。 能隆は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した神職、政治家で、平氏政権に抵抗して朝廷の権威を守った功績で知られている。また、東大寺大仏殿の建立にも尽力し、仏教の発展に貢献した。
歴史上の人物

中御門宣俊 – 室町時代の公卿

-中御門宣俊の生涯- 中御門宣俊(1344~1412)は、室町時代の公卿です。父は従二位権中納言中御門宣光、母は北畠貞親の女。室は従三位大蔵卿四条隆直の女。子は従三位権中納言中御門宣胤、従三位権中納言中御門宗宣、従二位権中納言中御門宣澄、従三位権中納言中御門宣秀。 宣俊は1344年に生まれ、1355年に従五位下に叙爵されます。1358年に左近衛少将に任じられ、1359年には従五位上に叙されます。1362年には左近衛中将に任じられ、1363年には正五位下に叙されます。1364年には権右中将に任じられ、1367年には正五位上に叙されます。1368年には左中将に任じられ、1369年には従四位下に叙されます。 1370年に宣俊は参議に任じられ、公卿に列します。1371年には右兵衛督を兼任し、1372年には従四位上に叙されます。1373年には左兵衛督に任じられ、1374年には正四位下に叙されます。1375年には権中納言に任じられ、1376年には正四位上に叙されます。1377年には右京大夫を兼任し、1378年には左京大夫に任じられます。1379年には従三位に叙され、1380年には権大納言に任じられます。 1381年に宣俊は左近衛大将に任じられます。1382年には正三位に叙され、1383年には権大納言に任じられます。1384年に宣俊は右馬寮御監を兼任し、1385年には左馬寮御監に任じられます。1386年に宣俊は正二位に叙され、1387年には大納言に任じられます。1388年に宣俊は右近衛大将を兼任し、1389年には従一位に叙されます。 1390年に宣俊は内大臣に任じられます。1391年に宣俊は左大臣に任じられ、1392年には右大臣に任じられます。1393年に宣俊は再び内大臣に任じられ、1394年に左大臣に任じられます。1395年に宣俊は再び右大臣に任じられ、1396年に内大臣に任じられます。1397年に宣俊は再び左大臣に任じられ、1398年に右大臣に任じられます。1399年に宣俊は再び内大臣に任じられ、1400年に左大臣に任じられます。 1401年に宣俊は再び右大臣に任じられ、1402年に内大臣に任じられます。1403年に宣俊は左大臣に任じられ、1404年に右大臣に任じられます。1405年に宣俊は再び内大臣に任じられ、1406年に左大臣に任じられます。1407年に宣俊は再び右大臣に任じられ、1408年に内大臣に任じられます。1409年に宣俊は左大臣に任じられ、1410年に右大臣に任じられます。1411年に宣俊は再び内大臣に任じられ、1412年に左大臣に任じられます。 宣俊は1412年に薨去します。享年69。
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「山科持言」

- 山科持言の生涯 山科持言は、日本の公卿で、南北朝時代の代表的な武将の一人です。1301年に生まれ、1355年に亡くなりました。 持言は、山科家の嫡男として生まれ、幼い頃から学問に優れていました。1319年に従五位下に叙せられ、1324年に弾正少弼に任じられました。その後、左近衛権少将、右近衛権中将、左近衛権中将、右近衛権大将を歴任し、1339年には参議に任じられました。 1336年に起こった南北朝の内乱では、持言は北朝方に属して戦いました。1338年に越後国に下向して、南朝方の武将である新田義貞と戦いました。1340年に義貞が討たれると、持言は越後国を平定し、越後国守護に任じられました。 1343年に持言は上洛して、幕府の執権である高師直と対立しました。師直は持言を討伐するために軍勢を派遣しましたが、持言はこれを撃退しました。1348年に師直が討たれると、持言は幕府の実権を握りました。 1352年に持言は太政大臣に任じられ、公卿の最高位に上り詰めました。しかし、1355年に持言は病にかかり、55歳で亡くなりました。 持言は、南北朝の内乱を戦い抜いた武将であり、幕府の実権を握った政治家でもありました。また、持言は学問に優れており、多くの和歌を残しています。
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人物事典-一条兼定(1543~1585)

一条家の公家であり武将である人物 一条兼定は、一条家の公家で、戦国時代に活躍した武将です。1543年、一条房通の次男として生まれ、幼名は幸千代。1562年、兄の一条兼冬が死去したため、家督を継ぎます。1564年、織田信長に従って上洛し、近江国坂本城の戦いで初陣を飾りました。その後、信長の命を受けて、越前国の朝倉氏や近江国の浅井氏との戦いに参戦します。1570年には、信長の妹婿である柴田勝家の与力となり、姉川の戦いで活躍しました。 1571年、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした際、兼定は信長に従って延暦寺を攻撃し、多くの僧兵を殺害しました。この功績により、信長から近江国犬上郡を与えられました。その後、兼定は信長の命を受けて、九州の島津氏や中国地方の毛利氏との戦いに参戦します。1582年、本能寺の変が勃発し、信長が死去すると、兼定は羽柴秀吉に従いました。1583年、賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利すると、兼定は近江国高島郡を与えられました。 1585年、秀吉の九州征伐に従軍し、島津氏と戦いました。しかし、肥後国八代の戦いで島津軍に敗れ、戦死しました。享年43。兼定は武勇に優れ、信長や秀吉に重用された武将でした。また、一条家の家督を継ぎ、公家としても活躍しました。
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西園寺季衡:鎌倉-南北朝時代の高貴な公卿

西園寺季衡の生涯 西園寺季衡(にしぞのじ すえひら)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。西園寺実衡の子。藤原北家閑院流。官位は従一位・太政大臣。幼名は金厳。 正和4年(1315年)、西園寺実衡の長男として生まれる。幼少より学問を好み、15歳で文章博士となる。元応2年(1320年)に左中将に任じられ、その後も順調に出世を重ねる。 建武3年(1336年)、光厳天皇の践祚に伴い、内大臣に任じられる。同年、光厳天皇が京都を追われて吉野に逃れると、季衡は鎌倉幕府に協力し、後醍醐天皇の軍と戦う。しかし、同年12月に幕府軍が敗北すると、季衡は光厳天皇を追って吉野に逃れる。 吉野では、光厳天皇を奉じて朝廷を再建し、幕府に対抗する。しかし、正平5年(1350年)に幕府軍が吉野を占領すると、季衡は北朝に降伏する。 北朝では、左大臣に任じられ、朝廷の中枢で活躍する。正平11年(1356年)に太政大臣に任じられ、翌年に薨去する。享年42。 季衡は、学問を好み、和歌や音楽にも通じた文人であった。また、武勇にも優れ、光厳天皇の践祚に際しては、幕府軍を相手に奮戦した。季衡は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、朝廷の中枢で活躍した名臣である。
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万里小路宣房→ 室町時代の公卿であり、後醍醐天皇の側近

万里小路宣房の生涯 万里小路宣房は、室町時代の公卿であり、後醍醐天皇の側近でした。1309年に生まれ、1391年に亡くなりました。父は万里小路宣光、母は西園寺公宗の娘でした。 宣房は、若い頃から聡明で学問に優れており、19歳のときに文章博士に任じられました。その後、累進して参議、権中納言、権大納言を歴任し、1347年に左大臣に任じられました。 宣房は、後醍醐天皇の側近として、建武の新政の実施や、南北朝の争いの終結に尽力しました。1336年に、後醍醐天皇が隠岐に流された際には、宣房も隠岐に随行し、天皇を支えました。 南北朝の争いが終結した後、宣房は再び朝廷に仕え、左大臣に任じられました。1391年に亡くなるまで、朝廷の重臣として活躍しました。 宣房は、和歌や連歌にも優れており、多くの作品が残されています。また、歴史書『愚管抄』の作者としても知られています。
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戦国時代の関白・二条尹房

-二条尹房の生涯- 二条尹房は、室町時代後期に活躍した公卿・歌人・連歌師です。1475年、権大納言・二条政房の嫡男として生まれました。1495年に右近衛権少将に任じられ、その後、右近衛権中将、左近衛権少将、左近衛権中将を歴任しました。 1505年、関白に任じられ、1508年までその職に就きました。関白在任中は、細川政元と対立し、政元を討ち取ろうとしましたが、失敗しました。その後、政元の後を継いだ細川澄元と和睦し、1511年に辞官しました。 1514年、後柏原天皇の譲位に伴い、関白に再任されました。再任後は、1516年までその職に就き、1522年に薨去しました。 二条尹房は、和歌と連歌に優れ、「新古今和歌集」の撰者の一人としても知られています。また、日記「尹房公記」を残しており、戦国時代の公家社会の様子を知る上で貴重な史料となっています。 二条尹房の生涯は、戦国時代の公家社会の変動を映し出しており、その生涯を通して、戦国時代の公家社会のあり方を考える上で重要な人物です。