加藤曳尾庵

文学分野の人

人名辞典-「曳尾庵」とは?

曳尾庵の生涯 曳尾庵は、江戸時代前期の俳人です。本名は岩田重之進、通称は伊兵衛。京都の生まれで、織物商を営んでいました。号の曳尾庵は、彼の住居の近くの川にちなんでいます。 曳尾庵は、俳諧を松尾芭蕉に学び、蕉門十哲の一人として数えられます。芭蕉が元禄2年(1689年)に亡くなった後、曳尾庵は芭蕉の俳風を継承し、江戸で蕉門の中心的な俳人として活躍しました。貞享2年(1685年)には、芭蕉の代表作である『奥の細道』の序文を執筆しています。 曳尾庵は、蕉門の俳人を指導するかたわら、多くの俳諧作品を残しました。その作品は、芭蕉の俳風を継承しつつも、独自の境地を開拓したものとして高く評価されています。例えば、彼の代表作である「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」は、冬の寂しさを詠んだ俳句ですが、その寂しさの中に、どこか温かみを感じさせるような句となっています。 曳尾庵は、元禄16年(1703年)に江戸で亡くなりました。享年59歳でした。彼の死後、門弟たちは彼の俳風を受け継ぎ、蕉門の俳諧をさらに発展させていきました。 曳尾庵は、芭蕉の俳風を継承し、江戸で蕉門の中心的な俳人として活躍した人物です。彼の作品は、芭蕉の俳風を継承しつつも、独自の境地を開拓したものとして高く評価されています。曳尾庵は、蕉門の俳諧の発展に大きな貢献をした俳人です。
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「加藤曳尾庵」,

-加藤曳尾庵の生涯- 加藤曳尾庵(かとう びいあん、1746年(延享3年) - 1826年10月1日(文政9年8月11日))は、江戸時代中期の俳人である。江戸の人。本姓は加藤、名は友春。号は曳尾庵、一茶軒、無何有(むかゆう)、無何有庵など。別称に加藤又六。 -生い立ちと青年期- 1746年(延享3年)、江戸の日本橋に生まれる。父は加藤又六友晴、母は松尾芭蕉の孫娘・菊。幼名は友春。父は材木商であったが、曳尾庵が幼い頃に亡くなり、母は再婚した。曳尾庵は母方の祖父である松尾芭蕉の俳諧を学び、17歳で俳諧を始める。 -俳諧師としての活躍- 1770年(明和7年)、俳諧師としてデビュー。1772年(安永元年)には『猿蓑』に作品が掲載され、注目を集める。1774年(安永3年)には、初の句集『初玅集』を出版。1777年(安永6年)には、江戸俳諧の重鎮である大淀三千風に師事する。 -晩年と死- 1826年(文政9年)、江戸で死去。享年81。墓所は東京都台東区にある谷中霊園。 -俳風- 曳尾庵の俳風は、芭蕉の俳諧を尊重しながらも、独自の境地を開拓した。写生を重んじ、庶民の生活や自然の美しさなどを詠んだ句が多い。また、ユーモアや風刺の効いた句も得意とした。 曳尾庵は、江戸俳諧の代表的な俳人として知られ、多くの弟子を育てた。彼の句は、現在でも多くの人々に愛されている。