吉川英治文化賞

学術分野の人

杉浦銀治 – 炭化技術のパイオニア

- 杉浦銀治 - 炭化技術のパイオニア - -# 炭化技術の研究と開発 -# 杉浦銀治氏は、炭化技術のパイオニアとして知られる日本の工学者です。1889年に東京に生まれ、東京帝国大学工科大学を卒業後、1916年に三菱造船株式会社に入社しました。三菱造船では、炭化炉の研究開発に従事し、1921年に世界初の連続式炭化炉である「杉浦式炭化炉」を完成させました。 杉浦式炭化炉は、従来の炭化炉よりも効率的に炭化を行うことができ、炭化物の品質も高かったため、すぐに広く普及しました。杉浦氏はその後も炭化技術の研究を続け、1927年には世界初の回転式炭化炉である「杉浦式回転炉」を完成させました。杉浦式回転炉は、杉浦式炭化炉よりもさらに効率的であり、炭化物の品質も高かったため、炭化業界に大きな影響を与えました。 杉浦氏は、炭化技術の研究開発だけでなく、炭化物の利用法の研究にも取り組みました。1929年には、炭化物を燃料として使用する「杉浦式炭化物自動車」を開発しました。杉浦式炭化物自動車は、従来のガソリン自動車よりも燃費が良く、排気ガスも少なかったため、注目を集めました。 杉浦氏は、炭化技術のパイオニアとして、炭化業界の発展に大きく貢献しました。また、炭化物の利用法の研究にも取り組み、炭化物の新たな可能性を拓きました。
学術分野の人

岡野眞治:日本の物理学者で放射線研究の第一人者

-放射線研究における功績- 岡野眞治博士は、放射線研究において多大な功績を残した日本の物理学者です。博士は、放射線の性質、放射線の生体への影響、放射線の医療応用など、幅広い分野において研究を行い、数多くの重要な成果を発表しました。 博士の最も重要な業績の一つは、放射線の性質の解明です。博士は、放射線の波動性と粒子性を示す実験を行い、放射線の正体を明らかにしました。また、放射線のエネルギーを測定する新しい方法を開発し、放射線のスペクトルを測定しました。 放射線の生体への影響については、博士は、放射線が細胞を損傷し、癌を引き起こすことを明らかにしました。また、放射線の被曝量が生物に及ぼす影響を研究し、放射線の安全基準を定めるのに貢献しました。 放射線の医療応用については、博士は、放射線療法の開発に貢献しました。博士は、放射線を照射することで癌細胞を死滅させることができることを示し、放射線療法の有効性を証明しました。また、放射線診断の開発にも貢献し、X線撮影法を改良しました。 博士の研究は、放射線研究の発展に大きく貢献しており、放射線医学の発展にも大きな役割を果たしています。博士の功績は、世界中で高く評価されており、数多くの賞を受賞しています。
その他

松井新二郎 – 視覚障害者の自立支援に尽力した福祉活動家

-戦中の傷病で失明から福祉活動へ- 松井新二郎は、1920年に秋田県で生まれました。彼は、第二次世界大戦中に兵役に就いており、その際に負った傷病により、視力を失いました。松井は、失明後も、社会復帰を目指して努力を続けました。そして、1946年に、視覚障害者向けの自立支援団体である「日本ライトハウス」を設立しました。 日本ライトハウスは、視覚障害者の社会復帰を支援する施設として、職業訓練や生活訓練を提供しています。また、視覚障害者が利用しやすいように、公共施設や公共交通機関のバリアフリー化にも取り組んでいます。 松井は、日本ライトハウスの設立後も、視覚障害者の権利向上のための活動を続けました。彼は、視覚障害者に対する差別をなくすための啓発活動や、視覚障害者向けの福祉政策の制定のためのロビー活動を行いました。 松井の新二郎の活動は、視覚障害者の社会復帰に大きく貢献しました。彼は、視覚障害者の自立支援のための施設や制度を整備し、視覚障害者に対する差別をなくすために尽力しました。松井の活動は、現代の視覚障害者福祉の基礎を築いたと言えます。
その他

– 百瀬ヤエ子

人名辞典 百瀬ヤエ子は、日本の小説家、脚本家、俳人です。1889年(明治22年)に広島県に生まれ、1983年(昭和58年)に死去しました。 本名は百瀬弥栄子です。幼い頃から文学に興味を持ち、1911年(明治44年)に「広島新聞」に小説を発表してデビューしました。その後、上京して小説家として活動する傍ら、脚本家としても活躍しました。 百瀬ヤエ子の作品は、女性や弱者の視点から社会問題を扱ったものが多く、高い評価を得ています。代表作には、小説『にごりえ』『星ひとつ』『晩春』、脚本『青い山脈』『二十四の瞳』『母と子』などがあります。 百瀬ヤエ子は、その作品を通して、女性や弱者の権利向上に貢献しました。また、俳人としても活躍し、句集『はかなきもの』『この道』『百瀬ヤエ子句集』などがあります。 百瀬ヤエ子は、日本の近代文学を代表する作家のひとりです。その作品は、今もなお多くの読者から愛されています。 以下、百瀬ヤエ子に関連する人物の辞典です。 ・百瀬弥栄子百瀬ヤエ子の本名。 ・広島新聞百瀬ヤエ子が小説を発表してデビューした新聞社。 ・上京百瀬ヤエ子が広島から東京に引っ越したこと。 ・小説家百瀬ヤエ子の職業のひとつ。 ・脚本家百瀬ヤエ子の職業のひとつ。 ・俳人百瀬ヤエ子の職業のひとつ。 ・にごりえ百瀬ヤエ子の代表作のひとつである小説。 ・星ひとつ百瀬ヤエ子の代表作のひとつである小説。 ・晩春百瀬ヤエ子の代表作のひとつである小説。 ・青い山脈百瀬ヤエ子の脚本作品のひとつ。 ・二十四の瞳百瀬ヤエ子の脚本作品のひとつ。 ・母と子百瀬ヤエ子の脚本作品のひとつ。 ・はかなきもの百瀬ヤエ子の句集のひとつ。 ・この道百瀬ヤエ子の句集のひとつ。 ・百瀬ヤエ子句集百瀬ヤエ子の句集のひとつ。
美術分野の人

笹本恒子:人生と功績

-日本初の女性報道写真家- 笹本恒子は、1909年に東京で生まれ、日本初の女性報道写真家として知られています。1931年に東京朝日新聞に入社し、同年9月18日に発生した柳条湖事件を取材したことで、その名が全国に知られるようになりました。柳条湖事件は、満洲事変の引き金となった事件であり、笹本は戦地の最前線で取材を行った唯一の女性記者でした。 笹本は、その後も数々の戦争を取材し、その写真は戦時中の日本国民に大きな影響を与えました。また、笹本は戦後も報道写真家として活躍し、1960年には藍綬褒章を受章しています。 笹本は、日本の報道写真界に大きな足跡を残した人物であり、その功績は今もなお称賛されています。 -笹本の功績- 笹本は、日本の報道写真界における先駆者であり、その功績は多岐にわたります。 * -日本初の女性報道写真家- 笹本は、日本初の女性報道写真家として、男性中心の報道写真界に風穴を開けました。 * -戦時中の取材- 笹本は、日中戦争や太平洋戦争などの数々の戦争を取材し、その写真は戦時中の日本国民に大きな影響を与えました。 * -戦後の活躍- 笹本は、戦後も報道写真家として活躍し、1960年には藍綬褒章を受章しています。 笹本の功績は、日本の報道写真界の発展に大きく貢献しており、その功績は今もなお称賛されています。
その他

浅田隆子 – 昭和-平成時代の福祉活動家

明治45年5月19日生まれ 浅田隆子は、明治45年5月19日に東京府東京市赤坂区青山南町三丁目(現・東京都港区南青山)に生まれた。父親は、浅田常三郎、母親は、浅田ミツ。常三郎は、東京帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省し、主計局長、税務局長などを歴任した。ミツは、旧幕臣の娘で、女子学習院を卒業した。隆子は、常三郎とミツの間に生まれた長女で、弟が2人いた。 隆子は、幼い頃から聡明で、活発な少女であった。女子学習院幼稚園、女子学習院小学部、女子学習院高等科と進学し、成績は常に優秀であった。高等科卒業後は、東京帝国大学に進学し、法学部で学んだ。大学卒業後は、大蔵省に入省し、主計局に配属された。 隆子は、大蔵省で働きながら、社会問題にも関心を持ち、積極的に社会活動に参加した。昭和10年に入省し、主計局に配属された。昭和15年には、厚生省に移り、社会局に配属された。昭和18年には、戦時社会事業部を設置し、戦時中の社会事業を統括した。昭和19年には、日本社会事業協会を設立し、社会事業の普及に努めた。 戦後、隆子は、社会事業の再建に尽力した。昭和21年には、日本社会事業連盟を設立し、会長に就任した。昭和22年には、社会事業法が制定され、社会事業の基盤が確立された。隆子は、社会事業法の制定に尽力した功績を称えられ、昭和23年に藍綬褒章を受章した。 隆子は、昭和53年に社会事業連盟会長を退任し、名誉会長に就任した。昭和55年には、勲三等宝冠章を受章した。昭和58年に死去した。
学術分野の人

「深海正治」

-「深海正治」- -胃カメラ開発の歴史- 胃カメラは、胃の内部を観察するための医療機器です。胃カメラは、19世紀半ばにドイツの医師、アドルフ・クスマウルによって開発されました。クスマウルは、胃の内部を直接観察するために、食道から胃に管を挿入しました。この管は、胃の内部の画像を映し出すために、蝋燭の光を使用していました。 19世紀後半には、電気照明が開発され、胃カメラの性能が向上しました。1920年代には、アメリカ合衆国の医師、ウォルター・アルウィン・バウアーによって、軟性胃カメラが開発されました。軟性胃カメラは、胃の内部をより詳細に観察することができるようになりました。 1950年代には、日本人の医師、竹内吉蔵によって、ファイバースコープが開発されました。ファイバースコープは、光ファイバーを用いて胃の内部の画像を映し出すため、より鮮明な画像を得ることができました。 1960年代には、日本人の医師、大山峻によって、電子胃カメラが開発されました。電子胃カメラは、CCDカメラを用いて胃の内部の画像を映し出すため、より高精細な画像を得ることができました。 現代では、胃カメラは胃の内部を検査するための不可欠な医療機器となっています。胃カメラは、胃炎、胃潰瘍、胃がんなどの胃の疾患を早期発見するために使用されています。 -胃カメラ開発の歴史は、医療技術の進歩の歴史でもあります。胃カメラの開発により、胃の疾患を早期発見することができるようになり、胃がんによる死亡率を減らすことに貢献しています。-
歴史上の人物

村山常雄:シベリア抑留中死亡者データベースの作成者

シベリア抑留中死亡者のデータベース作成 村山常雄氏は、1945年にシベリア抑留となり、1950年に帰国した元日本兵である。 村山氏は、帰国後、シベリア抑留中死亡者データベースの作成に取り組み始めた。 村山氏は、シベリア抑留中死亡者データベースの作成にあたり、シベリア抑留者やその遺族への聞き取り調査を実施した。 また、ソ連側の記録を調査したり、シベリア抑留に関する文献を収集したりした。 村山氏は、1995年にシベリア抑留中死亡者データベースの第1版を完成させた。 このデータベースには、シベリア抑留中に死亡した日本人の氏名、生年月日、死亡年月日、死亡地、死亡原因などが記録されている。 村山氏はその後も、データベースの更新を続け、2005年に第2版を完成させた。 第2版には、シベリア抑留中に死亡した65,000人以上の日本人の情報が記録されている。 村山氏のシベリア抑留中死亡者データベースは、シベリア抑留の悲劇を明らかにし、シベリア抑留者の名誉を回復するために重要な役割を果たした。 また、このデータベースは、シベリア抑留に関する研究や教育にも活用されている。 村山氏は、シベリア抑留中死亡者データベースの作成をきっかけに、シベリア抑留者の支援活動にも取り組むようになった。 2004年には、村山氏の発案で、シベリア抑留中死亡者データベースを基にした冊子「シベリア抑留中死亡者名簿」が発行された。 これは、シベリア抑留中に死亡した日本人の遺族が、故人の情報を簡単に検索できるようになった画期的なものであった。 村山氏は、2014年に93歳で死去したが、シベリア抑留中死亡者データベースの作成とシベリア抑留者の支援活動は、現在でも続けられている。 村山氏が残したシベリア抑留中死亡者データベースは、シベリア抑留の悲劇を後世に伝える貴重な資料であり、シベリア抑留者とその遺族にとってかけがえのないものである。
政治分野の人

小南みよ子:昭和後期から平成時代にかけて活躍した社会事業家

小見出し「激動の時代を生きた社会事業家」 小南みよ子は、昭和後期から平成時代にかけて活躍した社会事業家です。激動の時代を生き抜き、社会福祉の発展に大きく貢献しました。 小南は、1928年に和歌山県に生まれました。幼い頃から社会問題に興味を持ち、1946年に大阪社会事業短期大学に入学しました。卒業後は、児童福祉の分野で働き始めました。 1960年代には、大阪市児童相談所の所長を務めました。そこで、児童虐待やネグレクトなどの問題に直面しました。小南は、これらの問題に取り組むため、1968年に児童虐待防止全国ネットワークを設立しました。 児童虐待防止全国ネットワークは、児童虐待の問題を社会に広く知らしめ、児童虐待の防止と被害者の支援に尽力しました。小南の活動は高く評価され、1977年には内閣総理大臣表彰を受賞しました。 1980年代には、社会福祉協議会の会長を務めました。社会福祉協議会の会長としては、社会福祉の充実と発展に努めました。また、高齢者福祉や障害者福祉の分野でも活躍しました。 小南は、2017年に亡くなりましたが、彼女の社会福祉に対する貢献は今もなお語り継がれています。小南は、激動の時代を生き抜き、社会福祉の発展に大きく貢献した偉大な社会事業家でした。
学術分野の人

「三戸サツヱ」野生ザル研究のパイオニア

-小見出し 野生ザルの観察を生涯にわたって続けた女性- 大阪府鳳町で生まれた三戸サツヱは、幼い頃から自然に親しんで育ち、特に動物が大好きでした。そのため、大学では動物学を専攻し、卒業後は、文部省の奨学金を受けて、動物行動学の研究のため、米国に留学しました。 米国では、ペンシルベニア州立大学で、野生ザルの研究を世界で初めて行った動物行動学者、C・R・カーペンター博士のもとで、研究を行いました。三戸は、カーペンター博士から、野生ザルの観察方法を学び、また、野生ザルの生態についての知識を深めました。 三戸は、米国での研究を終えて、1964年に日本に帰国しました。帰国後、三戸は、京都大学霊長類研究所に勤務し、野生ザルの研究を続けました。三戸は、日本の霊長類学の草分け的存在であり、野生ザルに関する多くの研究成果を発表しました。 三戸は、野生ザルの観察を生涯にわたって続け、多くの功績を残しました。三戸は、1999年に亡くなりましたが、その研究成果は、現在でも、多くの研究者や学生によって引用されています。 三戸は、野生ザルの研究に生涯を捧げた女性であり、日本の霊長類学の草分け的存在です。三戸の研究成果は、現在でも、多くの研究者や学生によって引用されており、三戸の業績は、今後も長く語り継がれることでしょう。
学術分野の人

野村達次

-野村達次の生涯- 野村達次は、1940年(昭和15年)2月22日、東京都に生まれた。 1963年(昭和38年)に東京大学工学部を卒業後、新日鉄に入社。1973年(昭和48年)にアメリカ合衆国に留学し、マサチューセッツ工科大学(MIT)で経営学修士号を取得。 1975年(昭和50年)に新日鉄に帰国し、製鉄所長や企画部長などを歴任。1995年(平成7年)に新日鉄の社長に就任。2002年(平成14年)に新日鉄の会長に就任し、2005年(平成17年)に退任。 2006年(平成18年)に財界総理大臣賞を受賞。2007年(平成19年)に旭日大綬章を受章。 2010年(平成22年)1月1日、急性心不全のため東京都内の病院で死去。享年70。 野村達次は、日本の産業界を代表する経営者の一人であった。新日鉄を世界最大の鉄鋼メーカーに育て上げた功績は、日本経済の発展に大きく貢献したと言える。
学術分野の人

燦めきの天空へ -木辺宣慈の軌跡-

真宗木辺派錦織寺の門主  真宗木辺派錦織寺は、京都市左京区にある浄土真宗の寺院である。木辺宣慈氏は、この寺院の第16代門主である。  木辺宣慈氏は、1936年、京都市に生まれる。1959年、京都大学文学部仏教学科を卒業し、1962年、同大学の大学院文学研究科博士課程を修了する。その後、錦織寺の住職となり、1995年に門主を継承する。  木辺宣慈氏は、真宗木辺派の門主として、世界の平和と人類の幸福のために尽力している。また、京都大学の教授として、浄土真宗の研究と教育にも努めている。  木辺宣慈氏の著書には、以下のようなものがある。  『浄土真宗の思想』  『親鸞聖人の生涯と思想』  『真宗木辺派の歩み』  木辺宣慈氏は、真宗木辺派の門主として、世界の平和と人類の幸福のために尽力している。また、京都大学の教授として、浄土真宗の研究と教育にも努めている。その功績は大きく、真宗木辺派のみならず、浄土真宗全体の発展に貢献している。
美術分野の人

明珍宗恭 – 甲冑の伝統を守り続けた日本の芸術家

-甲冑師明珍宗恭の歩み- 明珍宗恭は、日本の甲冑師で、宗家八代目の江戸中期に生まれました。藩政下において、後藤家、明珍家、黒川家が、甲冑制作の御用を務めていました。御用勤めは徳川幕府より命ぜられたもので、尾張藩より召され、名古屋に移住しました。同地の鍛冶町に居を構え、甲冑制作に専念することになります。 明珍宗恭は、幼い頃から甲冑制作の技術を学び、20代で甲冑師として独立しました。その後、江戸に出て、幕府の御用を務めるようになりました。明珍宗恭は、甲冑の制作に独自の工夫を凝らし、その技術は高く評価されました。また、明珍宗恭は、甲冑の研究にも熱心で、多くの甲冑に関する文献を残しました。 明珍宗恭は、江戸時代中期を代表する甲冑師であり、その技術は今日まで受け継がれています。明珍宗恭の甲冑は、国内外の博物館や美術館に収蔵されており、その美しさは多くの人々を魅了しています。 明珍宗恭の甲冑制作の技術は、現在もその子孫によって受け継がれています。九代目は宗恭の三男、明珍宗光で、明珍家は、文久3年(1863年)、勤皇志士の護身具を制作したことにより、幕府の御用を廃止され、庶民向けの鎧兜の製作に当たっていました。 明治時代に入り、第八代、明珍宗恒まで、甲冑製作を続けた後、宗恭の孫にあたる明珍宗孝(宗光の三男)が、明治33年(1900年)に東京・浅草区にある橋場町に、明珍商店を設立し、鎧兜、古甲冑の製作や販売を行うようになりました。戦後も、甲冑製作や展覧会出展など、家業を継続し、現在、十代目の明珍宗裕が、130年以上続く甲冑屋の伝統を守り続けています。
その他

具志堅隆松:沖縄の戦没者遺骨収集に捧げた人生

-遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の設立- 具志堅隆松氏が最も重要な活動の一つは、遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の設立です。ガマフヤーとは、沖縄の方言で「洞穴を探す人」という意味で、具志堅氏が中心となって1975年に設立されたボランティア団体です。ガマフヤーは、沖縄戦で亡くなった人々の遺骨を収集し、遺族に返還することを目的としており、設立以来、これまで約3万柱の遺骨を収集してきました。 具志堅氏が生前、ガマフヤーの活動に力を注いだ理由の一つは、自身の戦争体験にあります。具志堅氏は、沖縄戦当時、わずか11歳でしたが、米軍の攻撃で家族や友人など多くの大切な人を失いました。また、具志堅氏自身も米軍の銃撃を受けて負傷し、死線をさまよいました。 このような戦争体験から、具志堅氏は沖縄戦で亡くなった人々の遺骨を収集し、遺族に返還することが、戦争の悲劇を風化させず、平和の大切さを伝えるために必要なことであると強く感じていました。具志堅氏は、ガマフヤーの活動を通じて、沖縄戦の悲劇を後世に伝え、平和の大切さを訴え続けてきました。 ガマフヤーの活動は、遺族にとってかけがえのないものです。遺骨が返還されることで、遺族はようやく故人を弔うことができ、戦争の悲惨さを実感することができます。また、ガマフヤーの活動は、戦争の悲劇を風化させず、平和の大切さを伝えるためにも重要な役割を果たしています。 ガマフヤーの活動は、具志堅氏をはじめとするボランティアの尽力によって支えられています。ボランティアたちは、危険を顧みず、ガマや壕などの危険な場所に入り、遺骨を収集しています。ガマフヤーの活動は、遺族や沖縄県民だけでなく、日本国民全体にとってかけがえのないものです。
学術分野の人

「馬塚丈司」(1951- 昭和後期-平成時代の自然保護運動家)

-「馬塚丈司」(1951- 昭和後期-平成時代の自然保護運動家)- -昭和54年から浜松市馬込川河口でのツバメ生息地の保護にとりくむ- 馬塚丈司は、1951年、静岡県浜松市で生まれた。1972年、静岡県立磐田南高等学校を卒業後、浜松市役所に入庁。1978年、浜松市環境部自然保護課に配属され、自然保護活動に携わることとなった。 馬塚は、浜松市馬込川河口に営巣するツバメの生息地を守る活動に力を注いだ。馬込川河口は、古くからツバメが営巣する場所として知られていたが、1970年代以降、河口の開発が進み、ツバメの生息地が減少していた。 馬塚は、1978年に馬込川河口にツバメの巣箱を設置するプロジェクトを開始した。このプロジェクトには、地元の住民や企業も協力し、10年かけて1000個以上の巣箱が設置された。その結果、馬込川河口に生息するツバメの数は大幅に増加し、ツバメの生息地として再生することができた。 馬塚は、ツバメの生息地を守る活動の他にも、浜松市の自然保護活動に尽力した。浜松市の自然保護条例の制定や、湿地保全のための取り組みなどに携わり、浜松市の自然保護に貢献した。 馬塚は、2016年に浜松市役所を退職した後も、自然保護活動に携わり続けている。2017年には、NPO法人「浜松市自然保護協会」を設立し、理事長に就任した。 馬塚は、自然保護活動を通じて、次世代に豊かな自然を残すことの大切さを訴え続けている。
学術分野の人

– 「アクショノフ」

亡命ロシア貴族とドイツ人の間に生まれる アクショノフは1932年、亡命ロシア貴族の父とドイツ人の母との間に、旧ソ連のモスクワで生まれた。父はロシア革命後にドイツに亡命しており、母はドイツ人の音楽家だった。アクショノフは幼少期をドイツで過ごし、その後フランスに移住した。パリではソルボンヌ大学で哲学や文学を学び、卒業後はジャーナリストとして働き始めた。 アクショノフは1950年代に小説家としてデビューし、短編小説集『星のない夜』で注目を集めた。その後も、『冬の森の道』、『モスクワ・サガ』など多くの作品を発表し、ソ連の社会や政治を鋭く批判した。1972年にソ連を追放され、アメリカ合衆国に亡命した。 アクショノフはアメリカの大学で教鞭をとりながら執筆を続け、1980年に『ドクター・ジバゴ』でノーベル文学賞を受賞した。その後も、『ペレストロイカ』、『グラスノスチ』など多くの作品を発表し、ソ連崩壊後のロシアの社会情勢を鋭く批判した。2009年にスイスのモントルーで死去した。享年77歳。 アクショノフの作品は、ソ連の社会や政治を鋭く批判したものであり、 ソ連国民に大きな影響を与えた。また、亡命作家としてソ連の体制を批判し、ソ連崩壊に貢献した。
芸能分野の人

宮城文:教育者、郷土史家ー八重山の歴史を守り伝えた女性

宮城文の生涯と功績  宮城文(みやぎ・あや、1879~1963年)は、沖縄県八重山諸島の石垣島で生まれ育った教育者であり、郷土史家でもあります。八重山の歴史と文化の研究と保存に尽力し、その功績は今もなお語り継がれています。  宮城文は、1879年(明治12年)に石垣島で生まれました。幼い頃から読書好きで、八重山の歴史や文化に興味を持っていました。1898年(明治31年)に石垣島で小学校の教員となり、その後、石垣島内のいくつかの小学校で教鞭を執りました。  宮城文が八重山の歴史と文化の研究を始めたのは、1910年(明治43年)頃のことです。八重山諸島の各地を巡り、古文書や民謡、伝説などを収集しました。また、八重山の歴史や文化に関する講演会や執筆活動も行いました。  宮城文の功績は、八重山の歴史と文化の保存に尽力したこと以外にもあります。石垣島では、多くの学校で宮城文が作詞した校歌が歌われています。また、宮城文は八重山諸島に図書館の設置にも尽力しました。  1963年(昭和38年)に宮城文は亡くなりましたが、その功績は今もなお語り継がれています。石垣島には、宮城文の功績を称える記念碑が建立されており、毎年、宮城文の命日には慰霊祭が行われています。  宮城文は、八重山の歴史と文化の保存に尽力した偉大な女性です。彼女の功績は、今もなお八重山諸島の人々の心に生き続けています。
その他

ドミニカ移住問題の中心人物-嶽釜徹

-# ドミニカ移住問題とは ドミニカ移住問題とは、2010年代後半に発覚した、日本人移住支援会社「ドミニカ・シチズンシップ・エージェンシー(DCSA)」による不当勧誘や詐欺まがいの移住斡旋事件のことである。この事件では、DCSAがドミニカ国への移住を希望する日本人に対して、虚偽の説明や誇大広告を行い、多額の費用を徴収した上、入国後の生活支援を怠るなど、多くのトラブルが起きている。 DCSAは、2015年に東京都港区に設立された会社で、ドミニカ国政府の公認を受けて移住斡旋事業を行っていた。同社は、ドミニカ国への移住を希望する日本人に対して、以下のような宣伝文句を用いて勧誘を行っていた。 ・ドミニカ国は、美しい自然と穏やかな気候に恵まれた、理想的な移住先である。 ・ドミニカ国の国籍を取得すれば、世界130カ国以上へのビザなし渡航が可能になる。 ・ドミニカ国は、世界で最も低税率の国の一つであり、企業経営にも適している。 ・ドミニカ国は、英語圏の国であり、生活やビジネスに不便がない。 これらの宣伝文句に惹かれた多くの日本人が、DCSAに多額の費用を支払ってドミニカ国への移住を決意した。しかし、移住後には、以下のようなトラブルが続出した。 ・DCSAが約束していた入国後の生活支援が全く行われなかった。 ・ドミニカ国の実態は、DCSAが宣传したような楽園とは程遠く、治安や衛生状態が悪かった。 ・ドミニカ国の経済状況は思っていたよりも悪く、仕事を見つけることができなかった。 ・ドミニカ国の教育制度は不十分で、子供達の教育に不安があった。 これらのトラブルに遭った移住者たちは、DCSAに対して返金を要求したり、損害賠償を求めたりするなど、訴訟を起こしている。また、ドミニカ国政府に対しても、DCSAの不当な勧誘を規制するよう求めている。 ドミニカ移住問題は、日本人の海外移住に対する意識に大きな影響を与えている。これまで、日本人は海外移住に対して比較的消極的だったが、ドミニカ移住問題の発覚により、海外移住のリスクを強く認識するようになった。また、海外移住を検討する際には、移住先の情報を事前に十分に収集し、信頼できる移住支援会社を選ぶことが重要であるという認識が広まっている。
その他

「近藤えい子」- 昭和時代の福祉活動家

-「近藤えい子」- 昭和時代の福祉活動家- -人々のために人生を捧げた女性- 近藤えい子は、昭和時代に活躍した福祉活動家です。1909年に東京に生まれ、幼少期から社会問題に関心を持ち、社会福祉の道に進みました。 近藤は、特に障害者の福祉に力を注ぎました。1937年には、障害児のための学校である「東京盲ろう学校」を設立し、障害児の教育と社会参加に尽力しました。また、1948年には、障害者のための職業訓練施設である「全国身体障害者職業訓練センター」を設立し、障害者の自立を支援しました。 近藤の福祉活動は、障害者の社会参加と自立を促進し、日本の福祉制度の向上に大きく貢献しました。1981年には、その功績が認められて勲四等瑞宝章を受章しました。 近藤は、1991年に82歳で亡くなりましたが、その福祉活動は今もなお多くの人々に影響を与えています。近藤の福祉活動は、障害者の社会参加と自立を促進し、日本の福祉制度の向上に大きく貢献しました。近藤は、真に人々のために人生を捧げた女性でした。 近藤の福祉活動の原点は、幼少期の体験にあります。近藤は、5歳の時に事故で左足を失いました。この経験から、障害者は社会の中で差別され、生きづらさを感じていることを知りました。近藤は、障害者のために何かしたいと思うようになり、社会福祉の道に進みました。 近藤は、障害児のための学校である「東京盲ろう学校」を設立しただけでなく、障害者のための職業訓練施設である「全国身体障害者職業訓練センター」も設立しました。また、障害者の社会参加を促進するための啓発活動にも取り組みました。近藤の福祉活動は、障害者の社会参加と自立を促進し、日本の福祉制度の向上に大きく貢献しました。 近藤は、1981年に勲四等瑞宝章を受章しました。これは、近藤の福祉活動が国の発展に貢献したことを評価したものです。近藤は、1991年に82歳で亡くなりましたが、その福祉活動は今もなお多くの人々に影響を与えています。
学術分野の人

石井謙治:海事史研究の第一人者

- 生涯と功績 石井謙治は、1926年に長崎県五島列島中通島で生まれました。1945年に長崎県立五島高等学校を卒業し、1949年に海運会社に入社しました。1953年には日本大学経済学部に入学し、1957年に卒業しました。 卒業後は、海運会社に勤務しながら、海事史の研究を始めました。1965年に「日本の海運と造船」を出版し、これが海事史研究の第一人者として認められるきっかけとなりました。1968年に海運造船史学会を設立し、1971年に同学会の会長に就任しました。 1973年に日本大学経済学部教授に就任し、1991年に定年退職しました。退職後は、東京海洋大学教授、海事博物館館長などを歴任しました。2012年に86歳で亡くなりました。 石井謙治の功績は、海事史の研究を体系化し、日本の海運と造船の歴史を明らかにしたことだと言えます。また、海運造船史学会を設立し、海事史の研究を促進したことも功績の一つです。 石井謙治が遺した研究成果は、日本の海運と造船の歴史を知る上で欠かせないものとなっています。石井謙治の功績は、今後も長く語り継がれることでしょう。
その他

「中城イマ」-昭和-平成時代の福祉活動家

戦災にあった母子を収容・保護する網代母子寮を東京都五日市町に開設 昭和20年。太平洋戦争の終結により、日本は大きな被害を受け、多くの国民が生活困窮に陥りました。特に、戦災によって親を亡くした子供たちは、行き場を失い、帰る家もありませんでした。 そんな中、中城イマさんは、東京都五日市町に「網代母子寮」を開設しました。網代母子寮は、戦災にあった母子を収容・保護する施設で、母子家庭や孤児を支援するための活動を行いました。 中城イマさんは、網代母子寮の開設にあたり、多くの困難に直面しました。まず、施設の建設資金を集める必要がありましたが、戦後の混乱期で資金集めは容易ではありませんでした。 また、施設の運営には職員が必要でしたが、戦後の日本では人手不足が深刻でした。中城イマさんは、職員を集めるために、奔走しました。 さらに、網代母子寮には、多くの子供たちが入所しました。子供たちは、戦災によって親を亡くし、心に深い傷を負っていました。中城イマさんは、子供たちの心のケアを行い、自立を支援しました。 網代母子寮は、戦災にあった母子にとって、なくてはならない施設でした。中城イマさんは、網代母子寮の開設と運営を通じて、戦災被害者を支援し、社会福祉の発展に貢献しました。 戦後、中城イマさんは、網代母子寮のほかにも、児童養護施設や老人ホームなどを開設し、社会福祉の分野で活躍しました。そして、昭和50年に、社会福祉法人「中城会」を設立し、福祉事業を拡大しました。 中城イマさんは、社会福祉の分野で数々の功績を残し、昭和62年には、勲四等瑞宝章を受章しました。そして、平成12年に、94歳で亡くなりました。
歴史上の人物

平賀練吉:アマゾン開拓と胡椒栽培のパイオニア

-アマゾンでの開拓と胡椒栽培の功績- 平賀練吉は、1878年に日本を離れブラジルのアマゾン川流域に渡り、アマゾンでの開拓と胡椒栽培のパイオニアとして活躍した人物です。 練吉は、1877年に来欧し、1878年にブラジルに渡った。アマゾン川流域のパラ州に到着すると、荒れ地を耕して胡椒を栽培し始めた。胡椒は、ブラジルに初めて導入された作物の一つであり、練吉は胡椒栽培のパイオニアであった。 練吉は、胡椒栽培のために多くの苦労を味わった。アマゾン川流域は、熱帯雨林に覆われており、開拓は容易ではなかった。また、胡椒は、病気や害虫に弱く、栽培は困難であった。しかし、練吉は、粘り強く胡椒栽培に取り組み、ついに成功を収めた。 練吉は、アマゾンでの胡椒栽培に成功しただけでなく、アマゾン川流域の開拓にも貢献した。練吉は、胡椒の栽培のために多くの労働者を雇用し、アマゾン川流域の開発を促進した。また、練吉は、アマゾン川流域のインディアンと友好な関係を築き、インディアンの生活を改善するために努力した。 練吉は、アマゾンでの開拓と胡椒栽培のパイオニアであり、アマゾン川流域の発展に貢献した人物である。練吉の功績は、現在でもアマゾン川流域の人々に敬意を持って語り継がれている。
歴史上の人物

– 望月カズ

-望月カズ- -満州で孤児に- 望月カズは、1927年に満州で生まれた。父は日本の軍人、母は満州人だった。父はカズが生まれる前に亡くなり、母はカズを連れて再婚した。再婚相手は中国人だったが、カズは中国人であることを隠して生活しなければならなかった。 カズは7歳のときに母を亡くし、孤児となった。カズはその後、満州各地を転々とし、物乞いをして生活した。12歳のときに日本軍に保護され、日本に送られた。 日本に到着したカズは、孤児院に収容された。カズは孤児院で日本語を学び、日本の文化を学んだ。18歳のときにカズは孤児院を退院し、働き始めた。カズは工場で働きながら、夜間学校に通った。 20歳のときにカズは結婚し、2人の子供を授かった。カズは家族を養うために一生懸命働いた。カズは工場で働きながら、夜間学校に通い続けた。30歳のときにカズは大学を卒業し、教師となった。 カズは教師として働きながら、満州で孤児となった子供たちのために支援活動を行った。カズは孤児院を設立し、孤児たちを支援した。カズはまた、満州で孤児となった子供たちのことを世界に発信した。 カズは満州で孤児となった子供たちのために一生懸命働いた。カズの活動は多くの人々に影響を与えた。カズは満州で孤児となった子供たちのために尽くした偉大な女性である。
学術分野の人

藤岡博昭:農作業や陶芸を通して知的障害者の自立をサポートした教育者

昭和の時代に、養護学級の担任として体で学ぶ教育を実践 藤岡博昭氏は、1945年に静岡県に生まれました。小学校卒業後、静岡県立農業高等学校に進学しましたが、1963年に同校を中退しました。その後、静岡県立瀬戸谷養護学校に入学し、1967年に卒業しました。 卒業後は、静岡県立清水養護学校に勤務し、養護学級の担任として知的障害児の教育に携わりました。藤岡氏は、知的障害児は、通常学級の児童とは異なる教育方法が必要であると考え、体で学ぶ教育を実践しました。 体で学ぶ教育とは、知的障害児が、実際に身体を動かしたり、物に触ったりして学ぶ方法です。藤岡氏は、知的障害児は、言葉で説明されても理解できないことが多く、実際に体験して学ぶことが重要であると考えました。 藤岡氏は、農作業や陶芸などの実習を積極的に取り入れ、知的障害児が、実際に体験して学ぶ機会を提供しました。また、知的障害児が、自分の手で何かを作り上げることで、自信と生きがいを持てるようにしました。 藤岡氏の教育方法は、知的障害児の自立を促進するために有効であると評価され、全国の養護学校で実践されるようになりました。藤岡氏は、知的障害児の教育に大きな貢献をしたとして、1997年に勲五等双光旭日章を受章しました。 藤岡博昭氏は、2012年に死去しましたが、その教育方法は、今でも多くの養護学校で実践されています。藤岡氏の教育方法は、知的障害児の自立を促進するために有効であると評価されており、知的障害児教育の発展に大きく貢献しました。