園城寺長吏

歴史上の偉人

「定尊」(?-? 南北朝時代の僧。花山院長定の子。天台宗。円満院門跡。応安2=正平24年(1369)園城寺長吏となった。)

定尊の生い立ちと経歴 定尊は、南北朝時代の僧で、花山院長定の子として誕生しました。天台宗の僧侶で、円満院門跡を務めました。定尊は、応安2年(正平24年、1369年)に園城寺の長吏となりました。 定尊の生い立ちは、明らかではありませんが、花山院家の出身であったことから、公家としての身分を持っていたと考えられます。また、天台宗の僧侶となったことから、比叡山で修行を積んだと考えられます。 定尊は、円満院門跡を務め、天台宗の教学や儀式を司る重要な役割を果たしました。また、園城寺の長吏を務め、園城寺の僧侶を統括する役割も担いました。 定尊は、天台宗の僧侶として活躍しましたが、その生涯については、あまり知られていません。しかし、定尊は、天台宗の教学や儀式に貢献し、園城寺の僧侶を統括する役割を果たした重要な僧侶でした。
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長助法親王ー鎌倉・南北朝時代の第6皇子

長助法親王の生涯 長助法親王は、鎌倉時代後期から南北朝時代に活躍した天台宗の僧侶。 鎌倉幕府第六代将軍宗尊親王の皇子として生まれ、幼名を「宗助」と称した。 母は右大臣四条隆資の娘である四条貞子。 建治3年(1277年)、長助は出家して長助僧正と称し、天台座主となった。しかし、延慶2年(1309年)に、鎌倉幕府の倒幕に協力した嫌疑をかけられ、越後国に流罪となり、出羽国に幽閉された。 その後、元弘2年(1332年)に、建武の新政が開始されると、京都に戻り、天台座主に再任された。 建武4年(1334年)、長助は、新田義貞の軍に従い、後醍醐天皇の北朝に対抗したが、敗れて捕らえられ、鎌倉に幽閉された。 翌年、延元元年(1336年)、長助は、足利尊氏の計略によって、鎌倉で殺害された。享年59。 長助法親王は、天台宗の僧侶としてだけでなく、政治家としても活躍した。 南北朝動乱の時代において、新田義貞や足利尊氏らと協力し、後醍醐天皇の北朝に対抗した。 しかし、最終的には、尊氏の謀略によって殺害され、悲劇的な最期を遂げた。
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覚忠(1118-1177 平安時代後期)

- 覚忠の生涯 覚忠は、平安時代後期に活躍した天台宗の僧。1118年に生まれ、1177年に亡くなりました。近江国(滋賀県)の人であり、幼名は菊王丸。出家する以前は弓馬の達人として知られ、16歳の時に倶利伽羅峠の戦いで源義朝に従軍しました。 しかし、戦場で多くの命が失われる様を目の当たりにして、出家を志すようになりました。18歳の時に比叡山に登り、天台宗の僧侶となりました。その後、京都の青蓮院や奈良の東大寺で学び、1148年に天台座主となりました。 覚忠は、天台宗の改革に尽力しました。戒律を厳格に守り、学問を奨励して、天台宗の復興を図りました。また、浄土教の思想も積極的に取り入れ、庶民にもわかりやすい説法を行い、多くの人々から敬愛されました。 1177年に59歳で亡くなりました。覚忠の死後、天台宗は衰退していきましたが、その教えは後世の僧侶たちによって受け継がれ、現代に至るまで影響を与え続けています。
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覚円(1):平安時代中期-後期の僧

覚円の生涯 覚円は、平安時代中期から後期にかけて活躍した僧である。1146年、伊予国(現在の愛媛県)松山にて誕生。俗名は藤原経快。父は藤原重遠、母は藤原弘基の娘。幼少期より仏教に帰依し、14歳で出家。東大寺戒壇院で受戒し、法相宗に入って覚円と改名する。 覚円は、法相宗の大学寮に入学して戒壇院に住する。その後、東大寺戒壇院で受戒し、法相宗に入って覚円と改名する。1170年に東大寺大仏殿の焼失を目の当たりにし、復興を誓う。1176年、東大寺大仏殿の再建に着手するが、資金難に陥る。そこで、各地を巡って勧進活動を行い、多くの人々の協力を取り付ける。1189年、東大寺大仏殿が完成する。覚円は、東大寺大仏殿の完成を見届けた後、1196年に遷化(死去)した。 覚円は、東大寺大仏殿の再建を成し遂げただけでなく、法相宗の学問の発展にも貢献した。覚円は、法相宗の学問を大成し、多くの著作を残した。また、覚円は、僧侶の教育にも力を入れ、僧侶の資質向上に努めた。覚円は、東大寺大仏殿の再建と法相宗の学問の発展に尽力した偉大な僧侶である。
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「道澄」

-「道澄」- -道澄の生涯- 道澄は、平安時代中期の公卿、歌人。藤原北家勧修寺流の祖。参議・藤原兼輔の三男。母は藤原満子。同母兄に伊尹、敦忠。 幼少の頃から聡明で、文章生に補せられる。延喜3年(903年)に18歳で文章生に補され、翌延喜4年(904年)に文章博士に任じられる。延喜6年(906年)には21歳で文章博士を辞任し、翌延喜7年(907年)に侍従に任じられる。延喜9年(909年)には24歳で右近衛権少将に任じられ、延喜11年(911年)には26歳で従五位下に叙せられる。延喜13年(913年)には28歳で右近衛権中将に任じられ、延喜15年(915年)には30歳で正五位下に叙せられる。 延長元年(923年)には38歳で参議に任じられ、翌延長2年(924年)には39歳で正四位下に叙せられる。延長4年(926年)には41歳で従三位に叙せられ、同年には右大臣に任じられる。延長8年(930年)には45歳で正三位に叙せられ、翌延長9年(931年)には46歳で蔵人頭に任じられる。承平元年(931年)には47歳で左大臣に任じられ、承平2年(932年)には48歳で従二位に叙せられる。承平3年(933年)には49歳で正二位に叙せられ、同年に内大臣に任じられる。承平4年(934年)には50歳で右大臣に還任し、天慶2年(939年)には55歳で従一位に叙せられる。天慶4年(941年)には57歳で内大臣に任じられ、天暦3年(949年)には65歳で左大臣に還任する。天徳4年(960年)には76歳で薨去する。 道澄は、温厚篤実な人柄で、学問を好み、歌にも優れていた。藤原氏の一門にあって、その興隆に貢献した。
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道仁法親王 – 鎌倉時代の皇族・僧侶

- 道仁法親王の生涯 道仁法親王は、鎌倉時代の皇族・僧侶です。後嵯峨天皇の第四皇子として、1257年に生まれました。幼名は宗尊。母は、後二条天皇の皇女・宣陽門院倫子。 1269年に、13歳で出家して法親王となり、仁和寺に入寺しました。1275年に、仁和寺の御室となった花山院家の娘・玉子と結婚し、二男三女を儲けました。1286年に、30歳で仁和寺の第31代門跡となりました。 道仁法親王は、学問を好んで、後宇多天皇の信任を得て、1302年に権大僧都に任じられました。1305年には、征夷大将軍・久明親王の病気平癒の祈祷のため、鎌倉に下向しました。 1317年に、61歳で薨去しました。法号は、増誉覚円。道仁法親王は、後醍醐天皇の乳母であり、後醍醐天皇の即位に貢献しました。また、文永8年の役では、鎌倉幕府の軍勢に加わって、元軍と戦いました。 道仁法親王は、鎌倉時代中期に活躍した、皇族・僧侶として、歴史に名を残しています。
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「覚猷」(1053-1140 平安時代後期の僧)

- 「覚猷」(1053-1140 平安時代後期の僧) -# 覚猷の生涯 覚猷は、1053年、越後国(現在の新潟県)で生まれました。俗名は藤原親基。父は藤原親経、母は藤原道綱の娘です。覚猷は幼い頃から聡明で、10歳の時に京都の比叡山延暦寺に入門しました。比叡山では、恵心僧都源信に師事し、天台宗の教えを学びました。 1072年、覚猷は比叡山を下山し、諸国を遊行しました。その間、覚猷は各地の寺院や山岳で修行を重ね、多くの霊験を得ました。1087年、覚猷は比叡山に戻り、天台宗の僧として活動しました。 1103年、覚猷は延暦寺の長者(住職)に就任しました。長者在任中は、比叡山の復興と発展に尽力しました。また、覚猷は、仏教の教えを民衆に広めるために、説法や著述を行いました。 覚猷は、1140年に延暦寺で亡くなりました。享年88。覚猷は、天台宗の復興に貢献しただけでなく、仏教の教えを民衆に広めるために尽力した偉大な僧侶でした。 覚猷は、仏教の教えを民衆に広めるために、説法や著述を行いました。覚猷の説法は、わかりやすく、ユーモアに富んでおり、多くの人々に親しまれました。また、覚猷は、多くの書物を著しました。覚猷の書物は、仏教の教えを解説したものや、覚猷自身の修行体験を記したものなどがあります。覚猷の書物は、後世の僧侶や仏教徒に大きな影響を与えました。
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「増誉」

「増誉」 藤原経輔の子 「増誉」の号は父祖伝来のものであり、人々は彼のことを「蔵人頭増誉」あるいは「少納言増誉」と呼んでいました。増誉は、父経輔が前太政大臣、内大臣を務めたことにちなんで、蔵人頭や少納言に任命されたと考えられています。 増誉は、藤原道長の娘、中宮彰子に仕えました。彰子は、一条天皇の皇后であり、道長の権力の象徴的存在でした。増誉は、彰子の寵愛を受け、彰子の親族や側近たちと緊密な関係を築いていきました。 増誉は、藤原頼通が摂政、関白を務めた時代にも、彰子や道長の支援を受けながら、朝廷で活躍を続けました。また、一条天皇の皇子、敦成親王の教育係を務め、敦成親王の信頼を得ていました。 しかし、応徳3年(1086年)に、増誉は謀反の疑いで捕らえられ、出家させられました。これは、増誉と敦成親王の関係が、藤原頼通やその子たちを警戒させたためと考えられています。増誉は、出家後も、敦成親王やその子孫との関係を保ち続け、長元4年(1031年)に亡くなるまで、朝廷に影響力を持ち続けました。 増誉は、父経輔同様に歌人としても知られ、和歌集『増誉集』を残しています。『増誉集』には、増誉の愛情あふれる歌や、朝廷での生活を詠んだ歌などが含まれており、平安時代の宮廷文化を知る上で貴重な資料となっています。
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義海(3) – 江戸時代後期の僧侶

-義海の生涯と業績- 義海は、江戸時代後期の浄土真宗の僧侶であり、仏教の教えをわかりやすく説き広めたことで知られています。文化4年(1807年)、摂津国川辺郡(現在の兵庫県川西市)の浄土真宗大谷派の寺に生まれ、幼名は亀次郎と名付けられました。亀次郎は、幼い頃から仏教に親しみ、早くから出家して僧侶になることを志していました。 文化13年(1816年)、亀次郎は10歳の時に得度して仏門に入り、仏教の教えを学び始めました。亀次郎は、仏教の教えに深く帰依し、熱心に修行を重ねました。そして、文化15年(1818年)には、わずか12歳で得度を受けて僧侶となりました。僧侶となってからの亀次郎は、本願寺で修行を重ね、浄土真宗の教えを学びました。そして、弘化3年(1846年)には、得度して30年を機に、義海と号しました。 義海は、浄土真宗の教えをわかりやすく説き広めるために、各地を巡回して布教活動を行いました。義海は、仏教の教えを説く際には、難しい言葉は使わず、誰にでもわかりやすいように、平易な言葉を用いていました。また、義海は、仏教の教えを説く際には、説教だけでなく、実際に仏教の教えを実践して見せることもありました。義海の布教活動は、人々の間に大きな反響を呼び、多くの信者が集まりました。 義海は、浄土真宗の教えを説くだけでなく、社会事業にも力を入れました。義海は、貧しい人々や病気の人々を救済するために、救貧施設や病院を設立しました。また、義海は、教育にも力を入れ、寺子屋を開いて子供たちに仏教の教えを教えました。義海の社会事業は、人々の間に大きな感謝を集め、義海は、人々から尊敬されるようになりました。 義海は、安政7年(1860年)に54歳で亡くなりました。義海の死は、浄土真宗の信者たちに大きな悲しみを与えましたが、義海の教えは、現在でも多くの人々に親しまれています。
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「道増」(1508-1571)

-戦国時代の僧侶「道増」- 道増は、戦国時代の僧侶です。1508年、京都に生まれました。11歳のときに出家し、比叡山で修業を積みました。 20歳のとき、比叡山を降りて各地を遊行するようになりました。そして、1541年に美濃の斎藤道三に仕官しました。斎藤道三は、戦国大名として知られており、道増は斎藤道三の軍師として活躍しました。 1556年に斎藤道三が亡くなると、道増は織田信長に仕官しました。織田信長は、戦国大名として知られており、道増は織田信長の軍師として活躍しました。 1571年、道増は亡くなりました。享年64歳でした。道増は、戦国時代に活躍した僧侶として知られており、今でも多くの人々に敬われています。 -道増の功績- 道増は、戦国時代に活躍した僧侶として、多くの功績を残しました。その功績は以下の通りです。 * 斎藤道三の軍師として活躍し、斎藤道三の勝利に貢献した。 * 織田信長の軍師として活躍し、織田信長の勝利に貢献した。 * 戦国時代の仏教界に大きな影響を与えた。 * 多くの著作を残し、戦国時代の歴史を伝えるのに貢献した。 -道増の人物像- 道増は、戦国時代に活躍した僧侶として、非常に優れた人物でした。道増は、学識があり、武芸にも秀でていました。また、道増は、非常に優れた戦略家であり、戦において多くの勝利を収めました。 道増は、戦国時代に活躍した僧侶として、非常に優れた人物でした。道増は、学識があり、武芸にも秀でていました。また、道増は、非常に優れた戦略家であり、戦において多くの勝利を収めました。 道増は、戦国時代の仏教界に大きな影響を与えた人物です。道増は、多くの著作を残しており、その著作は戦国時代の仏教界を知る上で貴重な資料となっています。
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道寛入道親王について

-道寛入道親王の生涯- 道寛入道親王(みちひろにゅうどうしんのう、1204年 - 1272年)は、鎌倉時代の皇族、天台僧。後鳥羽天皇の皇子。母は弁内侍。 -幼少期から出家まで- 道寛入道親王は、建仁4年(1204年)、後鳥羽天皇の第三皇子として生まれる。母は弁内侍。幼名は頼助(よりもすけ)。後鳥羽上皇の養育を受けて成長し、12歳の時に仁和寺に入り、智海法親王を師として得度、法名を道寛と改めた。その後、山門の学頭を務め、19歳で新院宣の下で大僧都に任じられた。 -承久の乱と配流- 承久3年(1221年)、承久の乱が起こると、道寛入道親王は鎌倉幕府に与し、後鳥羽上皇の討伐軍を率いて上洛した。しかし、乱は幕府軍の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐に配流され、道寛入道親王もまた、土佐に配流された。 -配流先での生活- 土佐に配流された道寛入道親王は、土佐国司の細川頼重の庇護を受け、土佐国分寺に住した。土佐国分寺では、学問に励み、また、多くの歌を詠んだ。特に、土佐の風物を詠んだ歌は、土佐の歌人として知られるようになった。 -赦免と帰京- 寛喜2年(1230年)、道寛入道親王は赦免されて帰京を許された。帰京後は、仁和寺に入り、僧として過ごした。その後、正嘉2年(1258年)に仁和寺門跡となり、弘安5年(1282年)に天台座主となった。 -晩年- 弘安5年(1282年)、道寛入道親王は天台座主に就任した。天台座主として、天台宗の復興に努め、また、多くの著作を残した。弘安10年(1287年)、64歳で入寂した。
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道昭(2) – 鎌倉・南北朝時代の僧

-道昭の生涯と足跡- 道昭は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した僧侶です。 1290年(正応3年)に鎌倉で生まれ、幼い頃から仏教に親しみました。 18歳で出家した後、京都の建仁寺で著名な無学祖元から教えを受け、厳しい修行に励みました。 その卓越した才能を見込まれ、31歳の時に南禅寺を開山し、臨済宗の祖師として仰がれるようになりました。 道昭は禅の教えを広めるために、各地を巡って説法を行いました。 その説法は明快かつ力強く、多くの人々を魅了しました。 また、道昭は書の達人としても知られていて、その書は「道昭筆」として人々に珍重されました。 1333年(元弘3年)には、後醍醐天皇の元に参上し、天皇の側近として仕えました。 天皇は道昭を重用し、様々な相談事を持ちかけました。 また、道昭も天皇を支えるために、尽力しました。 1336年(建武3年)、後醍醐天皇は足利尊氏によって京都を追われ、吉野に逃れました。 この時、道昭も天皇に同行して吉野に赴き、天皇を支え続けました。 1339年(建武6年)、天皇が崩御した後は、その子である後村上天皇を支えました。 道昭は、1362年(正平17年)に73歳で亡くなりました。 その生涯を通じて、禅の教えを広め、後醍醐天皇や後村上天皇を支え、日本の歴史に大きな影響を与えました。
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盈仁入道親王 – 江戸時代中期から後期に生きた公卿

盈仁入道親王の生涯 盈仁入道親王(1750年 - 1823年)は、江戸時代中期から後期にかけて生きた公卿。有栖川宮織仁親王の第四王子。母は参議清閑寺秀標の女。官位は正二位内大臣。号は年老院。清閑寺家第14代当主。 盈仁入道親王は、1750年に江戸城西の丸で誕生しました。幼名は千代丸。1762年に元服し、名を盈仁と改めました。1763年に有栖川宮から清閑寺家に養子に入り、同年正四位下に叙せられました。 1764年に従三位に昇叙され、1767年に侍従に任じられました。1769年に権中納言に任じられ、1771年に正三位に昇叙されました。1772年に権大納言に任じられ、1775年に正二位に昇叙されました。1777年に内大臣に任じられました。 盈仁入道親王は、1823年に江戸城西の丸で薨去しました。享年74。法名は年老院。墓所は東京都港区の青山霊園にあります。 盈仁入道親王は、書画や和歌に優れた才能を発揮し、多くの作品を残しました。また、音楽にも造詣が深く、笙や箏を演奏しました。公卿として、朝政に参画して活躍しました。
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「治部卿局(2)」(?-? 鎌倉時代の女官)

- 「治部卿局(2)」の生涯 「治部卿局(2)」の生涯については、史料が乏しく、詳細は不明な点が多い。しかし、彼女が13世紀後半に鎌倉幕府の女官として仕えていたことは、史料によって確認されている。 「治部卿局(2)」は、藤原北家摂関家の一族である九条家の一門である。九条家は、鎌倉幕府の有力御家人の一つであり、数多くの女官を鎌倉幕府に出仕させている。治部卿局(2)も、九条家の女官として鎌倉幕府に出仕し、女房として仕えていたと思われる。鎌倉時代における「治部卿局」という役職は、治部省を所管する官職で、女官の最高位に位置する。治部卿局(2)も、女房として仕える傍ら、治部卿局の役職を代行していた可能性がある。 治部卿局(2)は、鎌倉幕府の女官として仕える傍ら、13世紀後半に鎌倉幕府の将軍である執権・北条時頼に仕えた。北条時頼は、鎌倉幕府の第7代執権であり、13世紀後半に活躍した人物である。治部卿局(2)は、北条時頼の側室となり、1275年に北条時頼の娘である竹御所を出産した。竹御所は、後に北条時頼の養女となり、鎌倉幕府の第9代将軍である北条貞時に嫁いだ。 治部卿局(2)は、北条時頼の死後、鎌倉幕府の女官として仕え続け、13世紀後半に亡くなったと思われる。