大久保備後守の子

歴史上の偉人

大久保忠宣-幕末の武士

-大久保忠宣- -大久保忠宣の生涯- 大久保忠宣は、幕末の武士、政治家です。薩摩藩の重臣を務め、維新後には新政府で要職を歴任しました。 忠宣は、1830年(文政13年)に薩摩藩士・大久保利通の三男として生まれました。幼名は利世(としなる)といい、後に忠宣と改名しました。利通は、薩摩藩の重臣であり、維新後に初代内務卿を務めました。 忠宣は、幼い頃から聡明で、学問を好みました。藩校・造士館で学び、頭角を現しました。1853年(嘉永6年)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航すると、忠宣は藩命により江戸に向かい、ペリーの動向を探りました。 1860年(万延元年)、忠宣は、薩摩藩の江戸詰家老となりました。江戸詰家老とは、藩主の代理人として江戸に駐在する役職です。忠宣は、江戸詰家老として、幕府との交渉や諸外国との外交を担当しました。 1868年(慶応4年)、戊辰戦争が勃発すると、忠宣は、薩摩藩の主力部隊である精忠組を率いて、東北地方に出征しました。奥羽越列藩同盟との戦いでは、忠宣が指揮する精忠組が、奥羽越列藩同盟軍を破って、東北地方を平定しました。 戊辰戦争後、忠宣は、新政府に出仕しました。1869年(明治2年)に徴士となり、1871年(明治4年)に参議に任命されました。参議とは、新政府の最高幹部であり、忠宣は、新政府の中枢で活躍しました。 1873年(明治6年)、忠宣は、特命全権公使として、アメリカとヨーロッパ諸国を歴訪しました。忠宣は、欧米の最新技術や政治制度を視察し、日本の近代化に役立てることを目指しました。 1875年(明治8年)、忠宣は、内務卿に任命されました。内務卿とは、内政を担当する役職であり、忠宣は、日本の近代化を推進しました。1876年(明治9年)に起こった西南戦争では、忠宣は、政府軍を率いて、薩摩藩の反乱軍を鎮圧しました。 1878年(明治11年)、忠宣は、参議を辞任しました。忠宣は、その後、病気療養を続けましたが、1883年(明治16年)に死去しました。享年54歳でした。 忠宣は、幕末から明治にかけて、日本の近代化に尽力した人物です。忠宣の功績は、今日でも高く評価されています。