大日本農会

歴史上の偉人

中路延年(1823-1892) 幕末の尊攘運動家

- 尊攘運動家としての中路延年 中路延年は、幕末の尊攘運動家である。1823年、美濃国大垣藩に生まれる。諱は慎吾。号は立堂。 延年は、8歳の頃から漢学を学び、15歳の頃には、尊皇攘夷の志を抱いていた。1848年、江戸に遊学し、佐久間象山、頼山陽、横井小楠、梁川星巌など、幕末の志士たちと親交を結んだ。 1853年、ペリーが浦賀に来航すると、延年は、攘夷運動に参加した。1854年、日米和親条約が締結されると、延年は、攘夷運動をさらに激化させ、1858年の安政の大獄では、捕らえられて投獄された。 1859年、延年は、脱獄して脱藩し、長州藩に亡命した。1860年、桜田門外の変に参加し、井伊直弼を暗殺した。1861年、寺田屋事件に参加し、捕らえられて再び投獄された。 1862年、延年は、薩摩藩の支援を受けて釈放されると、薩摩藩に亡命した。1863年、生麦事件に参加し、イギリス人を殺害した。1864年、薩英戦争に参加し、イギリス軍と戦った。 1867年、王政復古が実現すると、延年は、新政府に出仕し、参与となった。1868年、戊辰戦争に参加し、奥羽越列藩同盟軍と戦った。 1869年、延年は、版籍奉還を実現し、大蔵卿となった。1871年、廃藩置県を実現し、内務卿となった。1873年、征韓論に敗れ、下野した。 1892年、延年は、死去した。享年70。
研究者

「田中芳男」

-田中芳男- -明治・大正の博物学者- 田中芳男は、1857年(安政4年)に江戸に生まれた博物学者である。幼少期から動植物に興味を持ち、1877年(明治10年)に東京大学理学部生物学科に入学した。卒業後は、同大学助教授、教授を歴任し、1891年(明治24年)には東京帝国大学理科大学初代学部長に就任した。 田中は、植物学、動物学、古生物学の幅広い分野で研究を行い、多くの業績を残した。植物学の分野では、被子植物の系統分類に関する研究で知られており、1895年(明治28年)に出版した「日本植物誌」は、日本初の近代的な植物誌として高く評価された。動物学の分野では、魚類の分類に関する研究で知られており、1890年(明治23年)に出版した「日本魚類誌」は、日本初の近代的な魚類誌として高く評価された。古生物学の分野では、化石動物の分類に関する研究で知られており、1892年(明治25年)に出版した「日本化石動物誌」は、日本初の近代的な化石動物誌として高く評価された。 田中は、研究活動に加えて、教育活動にも力を注いだ。1881年(明治14年)には、東京大学理学部に動物学教室を設立し、多くの学生を指導した。また、1897年(明治30年)には、日本博物学会を創立し、初代会長に就任した。日本博物学会は、後に日本動物学会、日本植物学会、日本地質学会に分裂したが、田中は、これらの学会の発展に大きな貢献をした。 田中は、1932年(昭和7年)に東京で死去した。享年76歳。
歴史上の偉人

伏見宮貞愛親王→ 明治-大正時代の皇族、軍人

伏見宮貞愛親王の生涯と功績 伏見宮貞愛親王は、1867年8月22日、伏見宮邦家親王の第四皇子として誕生しました。幼名は、良宮(よしのみや)。1877年4月1日、貞愛親王と改名。1883年7月10日、海軍兵学校に入学し、1885年11月15日に卒業しました。1886年12月26日、海軍少尉に任官。1889年12月26日、海軍中尉に昇進。 1890年1月20日、イギリスに留学。1892年7月11日、イギリスから帰国。1893年12月26日、海軍大尉に昇進し、海軍省軍令部に勤務。1895年2月28日、海軍少佐に昇進。1898年1月17日、日清戦争に参戦し、連合艦隊参謀として従軍。1898年12月26日、海軍中佐に昇進。1900年1月27日、義和団の乱に参戦し、海軍陸戦隊司令官として従軍。 1901年12月26日、海軍大佐に昇進。1904年2月10日、日露戦争に参戦し、連合艦隊参謀として従軍。1905年1月27日、旅順攻囲戦に参加し、戦功を挙げた。1905年12月26日、海軍少将に昇進。1907年1月28日、宮内次官に任命。1908年12月26日、海軍中将に昇進。1911年4月20日、海軍大将に昇進。 1912年12月26日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係に任命。1914年8月23日、第一次世界大戦に参戦し、連合艦隊司令長官として出征。1918年11月11日、第一次世界大戦が終結。1919年12月26日、元帥海軍大将に昇進。1922年12月26日、薨去。享年55。 伏見宮貞愛親王は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で活躍した軍人です。また、皇太子裕仁親王の教育係として、昭和天皇の воспитаに尽力しました。
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松平康荘 – 明治-昭和時代前期の華族と農学者

松平康荘の生涯と業績 松平康荘は、1903年(明治36年)2月22日に東京府(現在の東京都)に生まれた。父は旧彦根藩主松平康定、母は実業家・政治家の渋沢栄一の娘・渋沢澄子である。松平家は、江戸時代には越前大野藩主を務めた家柄である。 松平康荘は、幼い頃から植物に興味を持ち、農学校に進学したいと希望していたが、父康定の反対を受け、東京帝国大学法学部に進学した。しかし、大学在学中に父が亡くなり、家督を継ぐことになったため、大学を中退し、1926年(昭和元年)に松平子爵家を襲爵した。 松平康荘は、家督を継いだ後も植物への興味を持ち続け、農学を学ぶためにイギリスに留学した。留学中は、ケンブリッジ大学で遺伝学を学び、1930年(昭和5年)に帰国した。 帰国後、松平康荘は、農林省に入省し、農事試験場(現在の農研機構)に勤務した。農事試験場では、水稲の育種改良に取り組み、1937年(昭和12年)に「農林22号」という品種を開発した。この品種は、当時の最高収量品種であり、日本の稲作に大きな貢献をした。 松平康荘は、農林省を退官した後も、農学の研究を続け、1952年(昭和27年)に「農学博士」の学位を取得した。また、1955年(昭和30年)には、日本農学会の会長に就任した。 松平康荘は、1963年(昭和38年)10月25日に、急性心不全のため死去した。享年60歳。 松平康荘は、日本の農学の発展に大きく貢献した人物である。彼の業績は、現在も日本の農業生産を支えている。
歴史上の偉人

菊池六朔 – 江戸後期から明治時代にかけて活躍した偉大な農政家

-菊池六朔の生い立ちと経歴- 菊池六朔は、1809年(文化6年)3月23日、現在の福島県郡山市に生まれました。父は菊池六三郎、母は川口みの。六朔は幼い頃から頭が良く、読書を好み、書道にも優れていました。12歳の時に郡山藩の藩校である安積学舎に入学し、そこで儒学や兵学を学びました。 1832年(天保3年)、六朔は藩主の命により江戸に遊学して、昌平坂学問所で儒学を学びました。江戸では、佐藤一斎や梁川星巌などの著名な学者に師事し、学問に励みました。1835年(天保6年)に郡山藩に帰国した後、六朔は藩の要職を歴任し、藩政の改革に尽力しました。 1854年(嘉永7年)、六朔は藩主の命により、安政の大獄で処刑された志士たちを慰霊するために、郡山城下に顕彰碑を建立しました。1868年(明治元年)、戊辰戦争が起こると、六朔は郡山藩の軍勢を率いて、新政府軍と戦いました。新政府軍に敗北した後、六朔は郡山藩の降伏を仲介し、戊辰戦争の終結に貢献しました。 戊辰戦争後、六朔は新政府に出仕し、民部省や大蔵省などの要職を歴任しました。1873年(明治6年)には、大蔵卿に就任し、日本の財政改革に取り組みました。六朔は、紙幣の発行や国債の発行など、日本の近代財政制度の確立に尽力しました。 1879年(明治12年)、六朔は病気を理由に大蔵卿を辞任しました。1883年(明治16年)には、子爵に叙せられました。1887年(明治20年)3月27日に死去しました。