大永5年

歴史上の人物

上杉憲房(2) – 永禄の世に生きた関東管領

-関東管領としての上杉憲房- 永禄元年(1558年)4月、上杉憲房は19歳で関東管領に任命されます。しかし、関東では古河公方足利義氏と、その子の足利晴氏らの対立が激化しており、憲房はすぐにその争いに巻き込まれます。義氏は晴氏を廃し、その弟の義昭を擁立しましたが、晴氏はこれを認めず、憲房は義氏を支持しました。しかし、憲房は晴氏の勢力に押されて、やがて義氏を支持することを断念します。 永禄2年(1559年)、晴氏と義氏の間で和睦が成立し、憲房は晴氏を支持することになります。しかし、晴氏と義昭の間の争いは続き、憲房は両者の間を調停するのに苦労しました。永禄3年(1560年)、晴氏は義昭を破り、古河公方の地位を確立します。憲房は晴氏を支持しましたが、晴氏の勢力は関東に留まらず、次第に北条氏康の勢力圏に侵食していきました。 永禄4年(1561年)、憲房は晴氏と康氏の間の和睦を仲介します。しかし、和睦は長くは続かず、永禄5年(1562年)、晴氏と康氏は再び争いを始めます。憲房は晴氏を支持しましたが、康氏の勢いは強く、晴氏は敗れてしまいます。憲房は康氏に降伏し、関東管領の地位を辞任します。 関東管領としての上杉憲房は、関東の争乱に巻き込まれ、苦闘を強いられました。しかし、憲房は最後まで関東の平和を願っており、その功績は高く評価されています。
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悦渓宗悟

-悦渓宗悟の生涯- 悦渓宗悟(1125-1190)は、中国宋代の禅僧である。中国禅宗・臨済宗の楊岐派の5祖。俗姓は葉氏。浙江省台州府臨海県の出身。 悦渓宗悟は、18歳の時に出家して、径山の大慧宗杲(だいえそうこう)の門下に入り、その法を嗣いだ。その後、各地を歴住して弘法し、1169年に、悦渓の開元寺に住し、遂にここを以て世を去った。 悦渓宗悟は、禅宗の修行を深く究め、その悟境は高邁であった。彼は、禅の修行は、心性を明らかにして、自己の本来の面目を見出すことであると説き、そのために、坐禅や参禅を重視した。 悦渓宗悟は、また、禅の修行は、日常生活の中で行うべきものであるとし、日常生活の中で、常に自己の心がどこにあるかを意識して、その心を清浄に保つように説いた。 悦渓宗悟の禅思想は、その後の禅宗の発展に大きな影響を与え、特に、日本禅宗の形成に大きな役割を果たした。彼の弟子の中には、日本の禅宗の祖師である道元や栄西らがおり、彼らは、悦渓宗悟の禅思想を日本に伝え、日本の禅宗の発展に大きく貢献した。 悦渓宗悟は、また、優れた詩人として知られ、その詩は、禅の悟境を詠じたものが多い。彼の詩は、多くの禅僧に愛好され、今日でも、多くの禅宗の修行僧が、悦渓宗悟の詩を愛読している。 悦渓宗悟は、中国禅宗史上を代表する禅僧であり、その禅思想は、禅宗の発展に大きな影響を与えた。彼は、また、優れた詩人としても知られ、その詩は、多くの禅僧に愛好されている。
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「松木宗綱」

-# 松木宗綱とは 松木宗綱とは、戦国時代の武将であり、上杉景勝に仕えた家臣です。越後国頸城郡松木城の城代を務め、上杉氏の家臣団の中では有数の実力者でした。 宗綱は、永禄12年(1569年)に上杉謙信の養子として生まれました。幼名は高虎丸で、元服後は宗綱と名乗りました。謙信の死後、上杉景勝の配下となり、頸城郡の松木城を預かっています。 宗綱は、越後国を巡る各地の合戦で活躍しました。天正11年(1583年)には、織田信長の軍勢を相手に御館の乱を戦い、上杉氏の勝利に貢献しました。また、天正13年(1585年)には、豊臣秀吉の軍勢を相手に魚津城の戦いを戦い、ここでも上杉氏の勝利に貢献しました。 宗綱は、上杉氏を支える有能な家臣でしたが、慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の戦いで、上杉軍は徳川家康の軍勢に敗北しました。この戦いで、宗綱は負傷して捕らわれ、その後、処刑されました。 宗綱は、上杉氏に仕えた忠義の武将であり、その功績は多くの人々に讃えられています。