大谷大学

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– 阿部現亮

阿部現亮 (1876-1948) は、大正-昭和時代の教育家であり、僧侶であった。 1876年、愛知県に生まれる。1891年、東京帝国大学文学部に入学し、国文を専攻する。1895年に卒業し、教師として各地の高等学校に勤務した。 1911年、曹洞宗の僧侶となり、富山県曹洞宗専門学校 (現・曹洞宗大学) の校長に就任する。1918年、東京帝国大学教授となり、国文学を講じた。 1934年、東京帝国大学総長に就任する。総長在職中は、大学制度の改革や、学問の自由の擁護に努めた。 1945年、東京帝国大学総長を退任。1948年に死去した。 阿部現亮は、国文学の研究者として、また、教育者として多くの業績を残した。国文学の研究では、平安時代の文学を中心に、多くの業績を挙げた。また、教育者としては、大学改革や、学問の自由の擁護に努めた。
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– 村上専精

- 村上専精
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柳田聖山

- 柳田聖山 昭和後期から平成時代の中国哲学者。1922年、徳島県生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。中央大学助教授、教授、名誉教授を歴任。専門は中国思想史、老荘思想。 柳田聖山の中国思想史研究は、中国古代思想の根本問題である「有」と「無」の問題を軸に展開されている。柳田は、老荘思想を「有」と「無」の問題を根源的に問うた思想であると位置づけ、老荘思想の核心を「無」の思想であると主張した。 柳田はまた、中国思想史の展開を、「有」の思想が支配する時期と、「無」の思想が支配する時期が交互に現れるという形で捉えた。柳田は、中国古代思想の初期においては「有」の思想が支配していたが、春秋戦国時代になると「無」の思想が台頭し、老荘思想が生まれたと指摘した。そして、秦漢時代以降は再び「有」の思想が支配的となり、魏晋南北朝時代になると再び「無」の思想が台頭し、玄学が生まれたと論じた。 柳田の中国思想史研究は、中国思想史の展開を「有」と「無」の問題を軸に捉えた点で、従来の中国思想史研究とは一線を画している。柳田の研究は、中国思想史研究に新しい視点を提供したとして、高く評価されている。 -# 著書 * 『中国古代思想史研究』(1966年) * 『老荘思想』(1973年) * 『中国思想史講義』(1981年) * 『中国哲学者列伝』(1990年) * 『柳田聖山著作集』(全10巻、1999年) -# 受賞歴 * 中央大学学長賞(1982年) * 日本中国学会賞(1986年) * 読売文学賞(1990年) * 毎日出版文化賞(1999年)
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「清沢満之」-明治時代の僧侶

- 「清沢満之の生涯」 -幼少期と出家- 清沢満之は、1863年(文久3年)3月19日、下総国印旛郡八街村(現在の千葉県八街市)に生まれました。父は清沢貞吉、母はせいです。幼名は清太郎でした。 清太郎は、9歳のときに郷里の弥勒寺で出家し、円融と名乗りました。11歳のときに東京の増上寺に入り、住職の菊池常道を師として得度しました。戒名は清沢満之、号は一誠院と称しました。 -求道と開悟- 清沢満之は、増上寺で修行を重ねましたが、やがて浄土宗の教えに疑問を抱くようになりました。1880年(明治13年)、清沢満之は、浄土宗を離れ、浄土真宗本願寺派の僧侶である島地黙雷のもとで修行を始めました。島地黙雷は、清沢満之に真宗の教えを説き、清沢満之は、真宗の教えに深く帰依しました。 1881年(明治14年)、清沢満之は、島地黙雷の命を受けて、東京の築地本願寺に赴任しました。清沢満之は、築地本願寺で布教活動を行い、多くの信者を獲得しました。1890年(明治23年)には、浄土真宗本願寺派の教学部長に任命され、真宗の教えの普及に努めました。 -晩年と入寂- 清沢満之は、1930年(昭和5年)に浄土真宗本願寺派の管長に就任しました。管長在任中には、真宗の教えの普及に努め、多くの信者を獲得しました。 清沢満之は、1941年(昭和16年)に80歳で入寂しました。清沢満之の遺骨は、東京の増上寺に祀られています。 -清沢満之の思想- 清沢満之は、真宗の教えを深く研究し、独自の思想を展開しました。清沢満之の思想は、真宗の伝統的な教えを継承しながらも、現代社会に合った新しい教えを説いています。 清沢満之の思想の中心は、「絶対他力」の教えです。絶対他力とは、人間は自分の力では救われることはできず、すべては阿弥陀仏の力によって救われるという教えです。清沢満之は、絶対他力の教えを説くことで、人間の弱さと阿弥陀仏の慈悲を説きました。 清沢満之の思想は、多くの仏教徒に影響を与え、現在でも多くの人々に読まれています。
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我が国の偉大な僧・曾我量深とその格言

- 曾我量深の生涯と功績 曾我量深(そが・りょうじん、1875年~1951年)は、日本の僧侶であり、仏教思想家である。浄土真宗本願寺派の僧侶として、日本の仏教界に大きな影響を与えた。 曾我量深は、1875年に新潟県に生まれる。1898年に東京帝国大学哲学科に入学し、1902年に卒業する。卒業後は、本願寺派の僧侶となり、1905年に本願寺派の教学部長に就任する。 曾我量深は、本願寺派の教学部長として、日本の仏教界に大きな影響を与えた。1922年に、本願寺派の機関紙である「浄土真宗」を創刊し、日本の仏教界の論壇をリードした。また、1923年に、本願寺派の僧侶のための学校である「本願寺派僧侶養成所」を創設し、日本の仏教界の発展に貢献した。 曾我量深は、日本の仏教界に大きな影響を与えただけでなく、日本の社会にも大きな影響を与えた。1945年の終戦後、曾我量深は、日本の社会の復興に尽力した。1946年に、日本国憲法の制定に参加し、1947年に、日本国憲法の公布に尽力した。 曾我量深は、日本の仏教界に大きな影響を与えた僧侶であり、日本の社会にも大きな影響を与えた思想家である。その功績は、今もなお語り継がれている。
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高神覚昇 –

-# 生涯と経歴 高神覚昇(たかのかみ かくしょう、1934年(昭和9年)2月20日 - 2021年(令和3年)10月15日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(13期)。 1934年(昭和9年)2月20日、岐阜県安八郡安八村(現・安八町)に生まれる。岐阜県立岐阜高等学校、東京大学法学部政治学科卒業。1963年(昭和38年)、父・高神貞一の後継で岐阜県会議員に初当選。1967年(昭和42年)、岐阜県議会議長に就任。 1969年(昭和44年)12月、第32回衆議院議員総選挙に岐阜1区から立候補し、初当選。以後、衆議院議員に13回連続当選。1983年(昭和58年)12月、中曽根内閣で文部政務次官に任命される。1987年(昭和62年)11月、竹下内閣で文部大臣に任命される。 1993年(平成5年)8月、村山内閣で総務庁長官に任命される。1994年(平成6年)4月、細川内閣で総務庁長官に再任される。1998年(平成10年)7月、小渕内閣で通商産業大臣に任命される。1999年(平成11年)10月、小渕内閣で内閣官房長官に任命される。 2000年(平成12年)7月、森内閣で内閣官房長官に再任される。2001年(平成13年)4月、小泉内閣で内閣官房長官に再任される。2005年(平成17年)9月、郵政民営化法案の採決を巡って自由民主党を離党し、国民新党を結成。2009年(平成21年)8月、国民新党を解党し、民主党に入党。 2021年(令和3年)10月15日、岐阜県岐阜市の病院で死去。87歳没。
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国語学者 亀田次郎の人となりと業績

国語調査委員会嘱託として音韻と口語法を調査 国語調査委員会で音韻と口語法の調査に取り組む亀田次郎氏。 亀田次郎氏は、国語調査委員会の嘱託として、音韻と口語法の調査を担当しました。音韻調査では、日本語の音声を精密に分析し、その結果を「日本音韻史資料」として発表しました。この研究は、日本語の音韻体系を明らかにする上で重要な成果となりました。また、口語法調査では、東京を中心とした日常会話の音声や文法を調査し、その結果を「口語法調査報告書」として発表しました。この報告書は、現代日本語の口語法を体系的にまとめたものとして、その後の日本語研究に大きな影響を与えました。 亀田次郎氏の音韻と口語法の調査は、日本語の音声と文法を科学的に分析し、その体系を明らかにしたという点で、大きな意義があります。また、その研究成果は、日本語教育や日本語辞書の作成など、さまざまな分野で活用されています。 亀田次郎氏の国語調査委員会嘱託としての研究の主な成果は以下の通りです。 *「日本音韻史資料」日本語の音声を精密に分析し、その結果をまとめた報告書。 *「口語法調査報告書」東京を中心とした日常会話の音声や文法を調査し、その結果をまとめた報告書。 *「日本文法新論」日本語の文法を体系的にまとめた著作。 亀田次郎氏の研究は、日本語学の発展に大きな貢献を果たしました。氏の研究成果は、現在でも日本語研究の重要な基礎資料として高く評価されています。
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江部鴨村 不屈の仏教者

-生涯と歩み- 江部鴨村は、1599年に高野山に生まれました。幼いころから仏教に親しみ、16歳で出家しました。高野山で修行を重ね、25歳で得度しました。その後、京都に出て、仏教の教えを学びました。 30歳になると、鴨村は江戸に出て、布教を始めました。鴨村の説法はわかりやすく、人々を惹きつけました。また、鴨村は、念仏を唱えることによって、人々を救うことができると説きました。 鴨村の念仏の教えは、庶民の間で人気を集めました。しかし、一部の僧侶たちは、鴨村の教えを異端視しました。鴨村は、幕府から弾圧され、何度か投獄されました。 しかし、鴨村はめげずに布教を続けました。鴨村の念仏の教えは、人々に希望を与え、生きる力を与えました。鴨村は、1674年に75歳で亡くなりましたが、その教えは現在も受け継がれています。 鴨村の生涯と歩みは、私たちに、不屈の精神と、人々を救うための努力の大切さを教えてくれます。鴨村の教えは、現在も人々に希望を与え、生きる力を与えています。
学術分野の人

– 「本多主馬」

明治-昭和時代前期の仏教学者 本多主馬は、明治-昭和時代前期に活躍した日本の仏教学者です。1872年(明治5年)に京都府に生まれ、1897年(明治30年)に東京帝国大学文学部哲学科を卒業しました。卒業後は、東京帝国大学助教授として勤務しながら、仏教の研究に没頭しました。1910年(明治43年)には、東京帝国大学教授に昇進し、その後、文学部長や総長を歴任しました。 本多主馬の研究は、主に天台宗と真言宗を対象としており、その著書には、「天台宗史論」(1907年)、「真言宗史論」(1912年)、「仏教史概説」(1917年)などがあります。また、彼は、仏教の普及にも努め、1922年(大正11年)には、日本仏教青年会を設立しました。 本多主馬は、1945年(昭和20年)に死去しましたが、彼の研究は、現在でも仏教学の分野で高く評価されています。 本多主馬の仏教学研究の特徴は、以下の通りです。 1. 実証的な研究方法を重視する 本多主馬は、仏教の研究において、実証的な研究方法を重視しました。彼は、仏教の経典や文献を丹念に調べ、その内容を分析することで、仏教の思想や歴史を明らかにしようとしたのです。 2. 仏教の歴史を重視する 本多主馬は、仏教の歴史を重視しました。彼は、仏教の思想や歴史を理解するためには、その歴史を研究することが不可欠であると考えていたのです。本多主馬は、仏教の歴史に関する著書を数多く著し、仏教の歴史の研究に大きく貢献しました。 3. 仏教の思想を重視する 本多主馬は、仏教の思想を重視しました。彼は、仏教の思想は、人間の苦しみを救うための教えであると考えていたのです。本多主馬は、仏教の思想に関する著書を数多く著し、仏教の思想の研究に大きく貢献しました。 本多主馬の仏教学研究は、現在でも仏教学の分野で高く評価されています。彼の研究は、仏教の思想や歴史を明らかにする上で大きな貢献を果たしており、仏教を学ぶ上で欠かせないものとなっています。
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稲葉昌丸-激動の時代を生きた真宗大谷派の僧侶

-真宗大谷派の僧侶稲葉昌丸の人生- 稲葉昌丸は、1531年(天文2年)に近江国(滋賀県)で生まれた真宗大谷派の僧侶です。本名は稲葉昌之丞といい、法名は昌丸です。昌丸は、戦国時代の激動の時代にあって、真宗大谷派の教義を広め、人々を救済するために尽力しました。 昌丸は、幼い頃から真宗大谷派の教えに親しみ、15歳で得度して僧侶となりました。その後、京都の東本願寺で学び、真宗大谷派の教義を深く理解しました。1562年(永禄5年)には、近江国に戻り、真宗大谷派の布教に努めました。 昌丸は、真宗大谷派の教義をわかりやすく説き、人々から慕われました。また、戦乱で苦しむ人々を救済するため、炊き出しや施薬院を開設するなど、精力的に活動しました。 昌丸の活動は、織田信長や豊臣秀吉からも注目されました。信長は、昌丸に真宗大谷派の教義を説かせ、秀吉は、昌丸に真宗大谷派の寺院の建立を認めました。 1596年(慶長元年)、昌丸は66歳で亡くなりました。昌丸の死後も、真宗大谷派は発展を続け、現在でも日本を代表する仏教宗派の一つとなっています。 昌丸は、戦国時代の激動の時代にあって、真宗大谷派の教義を広め、人々を救済するために尽力した偉大な僧侶でした。昌丸の功績は、現在も真宗大谷派の信徒によって語り継がれています。
学術分野の人

– 長野静恵

-長野静恵の生涯と功績- 長野静恵(1886年 - 1968年)は、日本の看護師、教育者、政治家です。日本の看護教育の近代化に尽力し、日本赤十字社看護婦学校第5代校長を務めました。また、衆議院議員として社会福祉の充実や女性の地位向上に貢献しました。 長野静恵は、1886年に長野県北佐久郡に生まれました。幼い頃から看護師を志し、1906年に東京府立第一高等女学校を卒業後、1908年に日本赤十字社看護婦学校に入学しました。1910年に同校を卒業後、東京府立第二高等女学校や日本赤十字社中央病院などで看護師として勤務しました。 1919年に、長野静恵は日本赤十字社看護婦学校第5代校長に就任しました。校長就任後、長野静恵は看護教育の近代化に尽力し、看護婦の専門性を高めるためのカリキュラムの充実や、看護婦の社会的地位の向上を目指した活動を行いました。 1932年に、長野静恵は衆議院議員に当選し、4期にわたって議員を務めました。衆議院議員としては、社会福祉の充実や女性の地位向上に貢献しました。また、1946年には厚生省の看護婦養成所長に就任し、看護教育の向上に努めました。 1968年に、長野静恵は81歳で死去しました。長野静恵は、日本の看護教育の近代化に尽力し、社会福祉の充実や女性の地位向上に貢献した功績で知られています。 -長野静恵の功績- * 日本の看護教育の近代化に尽力し、看護婦の専門性を高めるためのカリキュラムの充実や、看護婦の社会的地位の向上を目指した活動を行いました。 * 衆議院議員として、社会福祉の充実や女性の地位向上に貢献しました。 * 1946年には厚生省の看護婦養成所長に就任し、看護教育の向上に努めました。
学術分野の人

五来重:仏教民俗学のパイオニア

-高野山大学教授から大谷大学教授へ- 五来重氏は、1981年に高野山大学の教授に就任しました。彼は、仏教民俗学の研究を続け、1985年に『仏教民俗学入門』を出版しました。この本は、仏教民俗学の研究に大きな影響を与え、多くの研究者から賞賛を受けました。 1987年、五来氏は高野山大学を退職し、大谷大学教授に就任しました。彼は、大谷大学で仏教民俗学の研究を続け、1990年に『仏教民俗学の展開』を出版しました。この本は、仏教民俗学の研究の発展をまとめたもので、仏教民俗学の研究者にとって貴重な資料となっています。 五来氏は、仏教民俗学の研究に大きな功績を残した人物です。彼は、仏教民俗学の研究を体系化し、多くの研究者を育成しました。また、仏教民俗学の研究を世間に広め、仏教民俗学への関心を高めました。 五来氏の仏教民俗学の研究は、現代の仏教研究に大きな影響を与えています。彼の研究は、仏教の信仰と実践をより深く理解するのに役立っています。また、仏教民俗学の研究は、現代社会の宗教文化を理解するのに役立っています。
文学分野の人

津村記久子 – 平成時代の小説家

津村記久子 - 平成時代の小説家 津村記久子の生い立ちと経歴 津村記久子は、1964年1月31日に東京都世田谷区で生まれた。父親は作家でジャーナリストの津村喬、母親は文筆家の津村節子である。幼い頃から読書に親しみ、大学時代には文学部に在籍した。 大学卒業後は、出版社に就職するが、すぐに退職して執筆活動に専念する。1995年に『光の領分』で小説すばる新人賞を受賞し、デビューを果たした。1999年には『カエルの楽園』で芥川賞を受賞し、一躍注目を集めた。2003年には『虎の娘』で直木賞を受賞し、平成生まれで初めての直木賞作家となった。 津村記久子は、平成時代の代表的な小説家の一人として知られている。彼女の作品は、繊細な心理描写と巧みな言葉づかいが特徴であり、多くの読者に支持されている。また、社会問題やジェンダー問題を扱った作品も多く、社会的な話題を呼んでいる。 津村記久子は、2021年現在も精力的に執筆活動を続けており、多くの読者を魅了し続けている。 津村記久子の代表作 * 光の領分(1995年) * カエルの楽園(1999年) * 虎の娘(2003年) * ポイズン(2007年) * むかしむかしあるところに、死体がありました。(2011年) * きいろいゾウ(2015年) * この世にたやすい仕事はない(2019年) 津村記久子の受賞歴 * 1995年 - 小説すばる新人賞(『光の領分』) * 1999年 - 芥川賞(『カエルの楽園』) * 2003年 - 直木賞(『虎の娘』) * 2007年 - 泉鏡花文学賞(『ポイズン』) * 2011年 - 野間文芸賞(『むかしむかしあるところに、死体がありました。』) * 2015年 - 谷崎潤一郎賞(『きいろいゾウ』) * 2019年 - 川端康成文学賞(『この世にたやすい仕事はない』)
学術分野の人

哲学者 蟹江義丸:東洋思想と孔子の研究に生涯を捧げた哲学研究者

-明治から大正に活躍した哲学者- 哲学者である蟹江義丸は、明治から大正にかけて活躍しました。1867年、佐賀県に生まれ、1892年に東京帝国大学哲学科を卒業しました。その後、京都帝国大学、東京高等師範学校、東北帝国大学などで教鞭をとり、1928年に東京帝国大学教授に就任しました。1934年に退職するまで、30年あまりにわたって東洋思想と孔子の研究に生涯を捧げました。 蟹江義丸の研究は、中国思想の全体像を明らかにすることを目的としていました。彼は、中国思想が、儒教、道教、仏教の三つの大きな流れから成り立っていると考え、それぞれの思想の特質を明らかにしようとしていました。また、彼は、孔子の思想が、中国思想の中で最も重要な思想であると考え、孔子の思想の全体像を明らかにしようとしていました。 蟹江義丸の研究は、中国思想の理解に大きな貢献をしました。彼は、中国思想の全体像を明らかにし、孔子の思想の重要性を明らかにしました。また、彼は、中国思想を日本の思想と比較することによって、日本の思想の特質を明らかにしました。蟹江義丸の研究は、日本の思想史研究に大きな影響を与えました。 蟹江義丸は、1937年に70歳で亡くなりました。しかし、彼の研究は、現在でも高く評価されており、多くの研究者に影響を与え続けています。
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柴山全慶 – 昭和時代の仏教学者

- 幼少期と出家 柴山全慶は、1907年(明治40年)1月1日、石川県金沢市に生まれた。父は柴山全応、母は柴山喜代である。全慶は、幼少の頃から仏教に親しみ、出家して仏道を歩むことを志していた。 全慶が6歳の時、父が永平寺で得度を受けた。全慶もまた、父の跡を継いで仏門に入りたいと願い、12歳の時に永平寺に入山した。永平寺では、厳しい修行に励み、18歳の時に得度した。 得度後は、永平寺で修行を続け、25歳の時に、僧堂の首座となった。首座とは、僧堂の責任者であり、修行僧の指導にあたる役職である。全慶は、首座として、修行僧の指導にあたり、また、仏教の教えを説いた。 30歳の時、全慶は、永平寺を離れ、東京大学に入学した。東京大学では、仏教を専攻し、1936年(昭和11年)に卒業した。卒業後は、東京大学で教鞭をとり、仏教の教えを研究した。 1941年(昭和16年)、全慶は、永平寺の貫主となった。貫主とは、永平寺の最高責任者であり、全慶は、永平寺の再興に尽力した。全慶は、貫主として、永平寺の改革を行い、また、仏教の教えを広めた。 全慶は、1974年(昭和49年)、77歳で永眠した。全慶は、昭和時代の仏教学者として、仏教の教えを研究し、また、仏教の教えを説いた。全慶の功績は、今日でも高く評価されている。
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西谷啓治とその思想

-京都学派の中心人物西谷啓治- 西谷啓治は、京都大学教授、哲学者、京都学派の中心人物として活躍した人物です。1900年、兵庫県に生まれ、京都大学哲学科を卒業後、同大学の講師、助教授を歴任しました。1936年に教授に就任し、1963年に定年退官するまで、京都大学で哲学を講義しました。 西谷啓治の思想は、西田幾多郎の思想を継承したもので、実存主義と、禅の影響を受けています。西谷啓治は、人間の根源的な存在を「死」であると考え、死を直視することを通じて、真の自由を得ることができるという考え方を提唱しました。 また、西谷啓治は、禅の思想を哲学的に解釈し、禅の無の思想を、実存の根源的なあり方であると考えました。そして、無の思想を基盤として、新しい哲学を構築することを目指しました。 西谷啓治の思想は、日本の哲学界に大きな影響を与えました。西谷啓治の弟子の中には、梅原猛、中井正一、柄谷行人など、著名な哲学者を多く輩出しました。西谷啓治の思想は、現在でも、日本の哲学界で重要な役割を果たしています。 -西谷啓治の主な著作- * 『死の哲学』(1937年) * 『哲学史序説』(1939年) * 『哲学の根本問題』(1940年) * 『無の構造』(1941年) * 『宗教と哲学』(1943年) * 『西田幾多郎』(1946年) * 『哲学五講』(1949年) * 『宗教の本質と構造』(1951年) * 『哲学原論』(1956年) * 『哲学の歩み』(1963年)