子徴

歴史上の偉人

華岡鹿城(1779-1827)

-生涯- 華岡鹿城は、1779年(安永8年)11月に江戸で生まれました。本名は華岡建基、通称は庄太郎、号は鹿城・石渓・石谿・百軒・無師。父は華岡青洲(本名華岡玄朔)で、5人兄弟の末っ子でした。 鹿城は幼い頃から絵に興味を持ち、10歳の時、叔父である平賀玄堂に師事して絵画を学び始めました。玄堂は、狩野派の絵師で、鹿城に狩野派の画法を伝授しました。 玄堂に学んだ後、鹿城は石川源心、尾形光琳、俵屋宗達、土佐派などの絵師の作品を研究し、独自の画風を確立していきました。特に、狩野派の画法に中国の画法を取り入れた「南画」という画風を得意とし、中国の画人である呉昌碩や楊柳青などの影響を受けました。 1804年(文化元年)に、鹿城は江戸に自分の画塾である「洞雲閣」を開き、絵画を教え始めました。洞雲閣は多くの門人を輩出し、鹿城は江戸の絵画界で活躍するようになりました。 1809年(文化6年)には、鹿城は越後国長岡藩の藩主である牧野忠精に招かれ、長岡藩の絵師となりました。長岡藩では、鹿城は藩主や藩士の肖像画や、長岡藩の風景画などを描きました。 1814年(文化11年)に、鹿城は江戸に戻り、再び洞雲閣で絵画を教え始めました。また、この頃から鹿城は、南画の理論や技法を研究し、南画に関する著作を執筆するようになりました。 1827年(文政10年)に、鹿城は江戸で亡くなりました。享年49歳でした。鹿城の墓は、東京都文京区の護国寺にあります。 鹿城は、江戸時代後期の代表的な南画の画家の一人で、その画風は多くの人々に影響を与えました。鹿城の作品は、現在でも美術館や博物館などに所蔵されており、人々に愛されています。