宝永7年生まれ

文学分野の人

「神沢杜口」

- -神沢杜口の生涯- 神沢杜口は、幕末から明治にかけて活躍した日本画家です。1829年(文政12年)に江戸の芝新門前の魚屋の長男として生まれました。幼い頃から絵を好み、14歳の時に歌川国芳に入門しました。国芳のもとで浮世絵を学び、やがて師匠を超えるほどの実力をつけるに至りました。 1861年(文久元年)、神沢杜口は幕府の御用絵師に任命されました。幕府の命を受けて、戊辰戦争や明治維新など、当時の世相を描いた作品を数多く残しています。これらの作品は、その迫力のある描写と写実的な表現で、人々に大きな衝撃を与えました。 明治維新後は、新政府の御用絵師を務めました。また、東京美術学校で教鞭をとり、多くの弟子を育てました。1898年(明治31年)に亡くなるまで、精力的に絵を描き続けました。 神沢杜口は、幕末から明治にかけて日本画壇を代表する画家の一人です。その作品は、日本の歴史や文化を伝える貴重な資料として、現在も高く評価されています。 -# -主な作品- * 「戊辰戦争図巻」(1868年) * 「明治維新図巻」(1869年) * 「東京奠都図巻」(1870年) * 「西郷隆盛像」(1877年) * 「大隈重信像」(1888年) * 「伊藤博文像」(1892年)
歴史上の人物

安部信平とは?生涯や功績について

安部信平とは? 安部信平(あべ しんぺい、1828年(文政11年) - 1889年(明治22年)4月27日)は、日本の政治家、官僚。明治天皇の信任が厚く、明治政府の中枢で活躍した。 安部信平は、1828年(文政11年)、紀伊国名草郡下津町(現・和歌山県和歌山市)に生まれた。家は、代々紀州藩士であった。幼い頃から学問を好み、藩校の「藩学」で儒学を学ぶ。1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航すると、藩命により江戸に出向き、外国事情を調査した。 1864年(元治元年)、第一次長州征伐に従軍。1868年(慶応4年)、戊辰戦争が勃発すると、大阪城代となり、新政府軍の攻撃に備えた。しかし、新政府軍の圧倒的な兵力に敗れ、大阪城を明け渡した。 戊辰戦争後、安部信平は、明治政府に出仕。民部大輔、大蔵大輔、大蔵卿を歴任。1873年(明治6年)、参議兼大蔵卿に就任し、明治政府の中枢で活躍した。 1881年(明治14年)、内務卿に就任。内務卿在任中は、地方制度の整備、警察制度の確立、教育制度の改革などに尽力した。1885年(明治18年)、内務卿を辞任。1889年(明治22年)、死去。享年62。
歴史上の人物

細川興虎 – 江戸時代中期の大名

細川興虎の生涯 細川興虎は、江戸時代中期の大名で、常陸下館藩の第8代藩主であり、細川忠隆の次男として生まれました。幼名は松千代。正室は松平定綱の娘・俊姫。 元禄14年(1701年)に兄の細川興之が早世したため、その跡を継いで下館藩主となりました。しかし、興虎は病弱で、藩政は家老の織田信武らに委ねることが多かったようです。 享保12年(1727年)に57歳で死去。法名は清運院殿法譽興久紹英大居士。跡を長男の細川興賢が継ぎました。 興虎は、文武両道に優れた人物であり、和歌や俳諧を嗜み、また、剣術や弓術にも秀でていました。また、藩校である「静宜堂」を創設し、藩士の教育にも力を注ぎました。 興虎の治世は、比較的平和な時代であり、藩財政も安定していました。しかし、享保8年(1723年)に発生した享保の飢饉では、下館藩も大きな被害を受けました。 それでも、興虎は家臣や領民を救済するために尽力し、藩の復興に努めました。興虎は、藩主として、領民の生活を第一に考え、藩政に励んだ名君として知られています。