強語

歴史上の偉人

志斐嫗とは?飛鳥時代の女官で万葉集に登場する人物

-# 志斐嫗の生涯と事績 志斐嫗については、万葉集にある二首の歌を除けば、確たる史料はほとんど残されていない。しかし、その歌からうかがえる彼女の生涯と事績は以下の通りである。 志斐嫗は、飛鳥時代の女官・歌人である。氏は不明であるが、多治比氏の出身であったとされている。生没年も不詳だが、推古天皇の時代(592年 - 628年)に宮仕えをしていたと推定されている。 志斐嫗は、衛門督を務め、宮中の警護や治安維持に当たっていた。また、歌人としても活躍し、万葉集には彼女の歌が二首収められている。そのうちの一首は、次のようなものである。 > -麻続の為に越ゆるせわがれば おのが大君の御牧かぞえて- この歌は、麻続(まつか)という若者が越の国(現在の福井県)に赴く際に、志斐嫗が贈った歌である。歌の中では、麻続が旅の安全を祈るとともに、大君の御牧(みまき)を数えながら行ってほしいと願っている。 志斐嫗は、聡明で働き者であり、宮中で重んじられていたと伝えられている。また、歌人としても優れた才能を持ち、万葉集に収められている彼女の歌は、後世の人々に愛されてきた。
研究者

常磐井厳戈と幕末の開国進取思想

常磐井厳戈の生涯と系譜 常磐井厳戈は、1816年に京都で生まれた志士である。幼名は金弥、字は仲容、号は厳戈・玄調・竹浦。常磐井家は、代々公家の家柄であり、厳戈の祖父である常磐井信益は、文政10年(1827年)に正二位権中納言まで昇進した。厳戈は、幼少の頃から読書を好み、16歳の頃には、高野長英の「海外新聞」を読み、西洋の事情に詳しくなった。 嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航した。この時、厳戈は28歳であった。厳戈は、ペリーの来航を機に、西洋の事情をさらに詳しく研究するようになった。そして、日本が西洋列強に立ち向かうためには、開国進取が必要であると考えるようになった。 安政元年(1854年)、厳戈は、肥後藩の儒者である横井小楠の門下生となった。横井小楠は、日本が西洋列強に立ち向かうためには、富国強兵が必要であると主張していた。厳戈は、横井小楠の思想に感化され、富国強兵を目指して活動するようになった。 安政5年(1858年)、厳戈は、幕府の蕃書調所に入った。蕃書調所は、西洋の書籍を翻訳する機関であり、厳戈は、ここで西洋の学問を研究した。また、厳戈は、蕃書調所での勤務中に、勝海舟や福沢諭吉といった志士たちと交流を持った。 文久元年(1861年)、厳戈は、蕃書調所を辞職し、私塾「南菁塾」を開いた。南菁塾は、西洋の学問を教える私塾であり、多くの志士たちがここで学んだ。また、厳戈は、南菁塾での勤務中に、坂本龍馬や中岡慎太郎といった志士たちと交流を持った。 元治元年(1864年)、禁門の変が勃発した。禁門の変は、長州藩が京都御所に攻め込んだ事件である。厳戈は、禁門の変に際して、長州藩を支持した。しかし、長州藩は幕府軍に敗北し、厳戈は京都から逃亡した。 厳戈は、京都から逃亡した後、薩摩藩に身を寄せた。薩摩藩は、倒幕運動の中心勢力であり、厳戈は薩摩藩で倒幕運動に加わった。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発した。戊辰戦争は、幕府軍と薩摩藩・長州藩を中心とする倒幕軍の戦争である。厳戈は、戊辰戦争で活躍し、明治元年(1868年)に明治維新が成立した。 明治維新後、厳戈は、明治政府に出仕した。厳戈は、明治政府で様々な要職を歴任し、日本の近代化に貢献した。明治24年(1891年)、厳戈は76歳で死去した。