従一位

歴史上の偉人

烏丸資任 – 室町時代の公卿

-烏丸資任の経歴- 烏丸資任は、室町時代前期の公卿です。烏丸資光の次男として生まれ、烏丸資継の養子となりました。 1414年(応永21年)に元服し、1418年(応永25年)に侍従に任じられます。その後、参議、権中納言、権大納言を経て、1432年(永享4年)に内大臣に任じられました。 1433年(永享5年)には左大臣に昇進し、1435年(永享7年)には関白に就任しました。関白在任中は、足利義教と協力して室町幕府の権威を高めることに努めました。また、1441年(嘉吉元年)には、嘉吉の乱で足利義教が暗殺された際に、後継者である足利義勝を擁立しました。 1445年(文安2年)に左大臣に再び任じられ、1447年(文安4年)には関白に再任されました。関白在任中は、室町幕府の権力を回復することに努めましたが、1450年(宝徳2年)に失脚して蟄居しました。 1455年(康正元年)に赦されて官職に復帰し、1458年(長禄2年)には権大納言に任じられました。1460年(寛正元年)に内大臣に再任され、1463年(寛正3年)には左大臣に再任されました。 1464年(寛正4年)に薨去しました。享年63。 烏丸資任は、室町時代前期の政局に大きな影響を与えた公卿でした。足利義教と協力して室町幕府の権威を高めることに努め、嘉吉の乱では後継者である足利義勝を擁立しました。また、室町幕府の権力を回復することに努めましたが、1450年(宝徳2年)に失脚して蟄居しました。しかし、1455年(康正元年)に赦されて官職に復帰し、1460年(寛正元年)に内大臣に再任、1463年(寛正3年)には左大臣に再任されました。そして1464年(寛正4年)に薨去しました。
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二条昭実 – 織豊-江戸時代前期の公卿

-二条昭実の生涯- 二条昭実は、織豊時代から江戸時代前期にかけての公卿です。関白・二条晴良の子として生まれ、豊臣秀吉や徳川家康に仕えました。 昭実は、天正12年(1584年)に生まれ、慶長3年(1598年)に叙任されました。その後、豊臣秀吉に仕え、文禄・慶長の役にも参加しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方し、勝利に貢献しました。 家康が江戸幕府を開くと、昭実は幕府に仕え、江戸城の造営や、大名の取り次ぎなどを行いました。また、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、幕府軍の総大将として出陣し、豊臣氏を滅亡させました。 元和9年(1623年)に、昭実は関白に就任しました。関白は、天皇の代理人として政治を行う最高位の役職であり、昭実は幕府と朝廷の間を取り持つ重要な役割を果たしました。 寛永4年(1627年)、昭実は死去しました。享年44歳でした。昭実は、幕府と朝廷の融和に努め、江戸時代の政治体制を確立するのに貢献した公卿でした。
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徳川治宝 – 江戸時代後期の紀伊藩主

-紀伊藩での改革- 徳川治宝は、紀伊藩主として藩政改革を実施しました。その改革の内容は、以下の通りです。 -財政改革- 徳川治宝は、藩の財政を再建するために、倹約令を発布しました。また、新たな税制を導入し、藩の収入を増やしました。 -軍制改革- 徳川治宝は、藩の軍備を強化するために、軍制改革を行いました。具体的には、藩兵を徴兵し、近代的な武器を導入しました。 -教育改革- 徳川治宝は、藩士の教育を充実させるために、教育改革を行いました。具体的には、藩校「学習館」を創設し、藩士の子弟に教育を施しました。 -殖産興業- 徳川治宝は、藩の殖産興業を促進するために、様々な政策を実施しました。具体的には、新田開発を奨励し、工芸品や特産品の生産を支援しました。 -外交政策- 徳川治宝は、藩の外交政策についても積極的に取り組みました。具体的には、外国商人と貿易を行い、藩の財源を確保しました。 徳川治宝の藩政改革は、紀伊藩の近代化に大きく貢献しました。紀伊藩は、明治維新後も日本の近代化を牽引する役割を果たしました。
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– 藤原頼宗

藤原頼宗の生涯 藤原頼宗は、平安時代末期の公卿。頼長の子。初名は頼房。 平安時代末期の公卿。藤原北家御子左家の出身。藤原頼長の子。官位は正三位・参議。 保元元年(1156年)、父・頼長の挙兵に加わるが、平清盛の軍に敗れる。頼長が捕らえられた後、頼宗は出家して名を宗円と改める。 平治元年(1159年)、平治の乱で源義朝が敗れた後、頼宗は還俗して政界に復帰する。平清盛に接近してその寵愛を受け、左近衛中将・参議に任じられる。 しかし、保元元年(1156年)に父・頼長が平清盛に謀反を起こして敗れ、頼宗も連座して出家させられた。後に還俗して政界に復帰し、平清盛に重用されたが、やがて平氏に反発するようになり、源氏方に寝返った。 治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵すると、頼宗はこれに呼応して平氏に反旗を翻す。しかし、平清盛の軍に敗れて捕らえられ、処刑された。 頼宗の生涯は、平安時代末期の政情の激動を映し出すものであり、その生涯は悲劇的なものと言われている。
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一条内経 – 鎌倉時代の名歌人

一条内経の生涯と経歴 一条内経は、鎌倉時代前期の歌人です。 1218年、一条家当主の一条実経の娘として生まれました。名字は藤原氏、法名は慈文院。父の実経は、優れた政治家であり、歌人でもあったことから、内経も幼い頃から和歌を学びました。 内経は、13歳で従三位に叙せられ、内侍所に出仕しました。そして、20歳で中宮大進に任命されました。内経は、中宮大進として、天皇や皇后の側近として仕えました。 内経は、歌人としても活躍しました。1241年、内経は、藤原定家の主催した「賀茂別雷社歌合」に参加しました。この歌合で、内経は、入道前関白藤原良経や、藤原光俊らと対戦し、見事な和歌を詠みました。 1246年、内経は、従一位に叙せられ、准三宮に昇進しました。内経は、鎌倉幕府からも重んじられ、1257年には、幕府の命により、春日若宮社に奉納する和歌を詠みました。 内経は、1272年に55歳で亡くなりました。内経の歌は、『新古今和歌集』、『続古今和歌集』、『続拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に多く入集しています。また、内経は、私家集『一条内経集』も残しています。 内経の和歌は、優美で繊細な表現が特徴です。また、内経は、恋の歌だけでなく、自然を詠んだ歌も数多く残しています。 内経は、鎌倉時代前期を代表する歌人であり、その和歌は、現在でも多くの人々に愛されています。
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鷹司信尚 – 江戸時代前期の公卿

鷹司信尚の生涯 鷹司信尚は、江戸時代前期の公卿です。関白・鷹司信房の子として生まれ、1625年に元服しました。その後、侍従や左近衛少将などの官職を歴任し、1632年に権大納言に就任しました。1635年に内大臣に昇進し、1638年に右大臣に就任しました。1642年に左大臣に就任し、1645年に関白に就任しました。1648年に辞任しましたが、1653年に再び関白に就任しました。1657年に辞任し、1668年に薨去しました。 鷹司信尚は、徳川家光の信任を得て権勢を振るいました。また、書道や和歌に優れ、文化人としても知られています。鷹司信尚は、江戸時代前期の公卿として重要な役割を果たした人物です。 鷹司信尚は、1632年に権大納言に就任して以来、内大臣、右大臣、左大臣、関白などの要職を歴任しました。また、江戸幕府との交渉役も務め、幕府と朝廷の関係を円滑にすることに貢献しました。 鷹司信尚は、1642年に左大臣に就任した後に、1645年に徳川家光から関白の宣下を受けました。関白は、朝廷の最高職であり、鷹司信尚は江戸時代前期の公卿として最高位に上り詰めました。 鷹司信尚は、関白として朝政を統括し、幕府との交渉にも当たりました。また、書道や和歌に優れ、文化人としても知られています。鷹司信尚は、江戸時代前期の公卿として重要な役割を果たした人物です。
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『大炊御門信量』〜室町時代の公卿〜

-大炊御門信量の人物像- 大炊御門信量は、室町時代の公卿であり、内大臣や右大臣を歴任した。また、歌人としても知られ、家集『信量朝臣集』を残している。 信量は、1317年に大炊御門家当主である大炊御門冬信の長男として生まれた。母は、日野資朝の娘である。信量は、幼い頃から聡明で、14歳で元服すると、すぐに朝廷に出仕した。信量は、早くから頭角を現し、16歳で従五位下、17歳で正五位下、18歳で従四位下と、破格の昇進を遂げた。 信量は、21歳で左中将に任じられ、23歳で参議に任じられた。参議になると、すぐに権中納言に任じられ、26歳で権大納言に任じられた。信量は、30歳で内大臣に任じられ、32歳で右大臣に任じられた。信量は、右大臣を10年間務め、42歳で薨去した。 信量は、政治家としては、足利義満に仕えて、幕府との関係を円滑に保つことに努めた。また、信量は、歌人としても知られ、家集『信量朝臣集』を残している。『信量朝臣集』には、200首余りの和歌が収められており、その多くは、恋や自然を詠んだものとなっている。 信量は、政治家として、歌人として、室町時代の文化に大きく貢献した。信量は、42歳という若さで薨去したが、その功績は、今日でも語り継がれている。
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洞院実世 – 南北朝時代の公卿

-延慶元年生まれの洞院実世- 洞院実世は、延慶元年(1308年)に生まれました。洞院公賢の子であり、母は従三位藤原定基の娘です。洞院家は、藤原北家勧修寺流の公卿家で、実世は家柄と教養に恵まれていました。 実世は、若い頃から公務に就き、嘉暦元年(1326年)には従五位下侍従に任命されました。その後、蔵人頭、右近衛権少将、左近衛権少将を歴任し、正平11年(1356年)には従一位左大臣に昇進しました。 実世は、内大臣として後光厳天皇と足利尊氏を補佐し、南北朝時代の動乱を収拾しようとする努力を続けました。しかし、正平23年(1368年)に尊氏が死去すると、実世は政治の実権を失い、翌年に出家しました。 実世は、出家後も朝廷に仕え、正平24年(1369年)には大納言に任命されました。しかし、応安元年(1368年)に死去しました。 実世は、洞院家の家格と教養を活かして、公務に励み、南北朝時代の動乱を収拾しようとする努力を続けました。しかし、尊氏の死去によって政治の実権を失い、出家しました。
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大炊御門冬信-鎌倉・南北朝時代の公卿

大炊御門冬信の生い立ちと経歴 大炊御門冬信は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期にかけての公卿。権大納言・大炊御門良宗の子。官位は従一位・内大臣。冬信は、1292年(正応5年)に生まれました。父は権大納言・大炊御門良宗、母は四条隆親の娘です。冬信は、幼い頃から聡明で、和歌や漢詩に秀でていました。14歳の時、従五位下侍従に任じられ、以後、順調に昇進を重ねていきます。 1313年(正和2年)、22歳の時、参議に任じられて公卿の仲間入りを果たします。その後、権中納言、権大納言を歴任し、1336年(建武3年)、内大臣に任じられます。冬信は、内大臣在任中に、北朝から南朝に帰順し、南朝政権の中枢として活躍しました。 1339年(延元4年)、冬信は、尊氏に捕らえられ、伊豆国に流されました。しかし、翌年、足利直義の仲介によって赦免され、京都に戻りました。冬信は、その後も南朝政権に仕え、1369年(正平24年)に78歳で亡くなりました。 冬信は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期にかけて活躍した公卿です。冬信は、聡明で和歌や漢詩に秀でており、順調に出世を重ねていきました。冬信は、内大臣在任中に、北朝から南朝に帰順し、南朝政権の中枢として活躍しました。冬信は、1369年(正平24年)に78歳で亡くなりました。
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「松木宗綱」

-# 松木宗綱とは 松木宗綱とは、戦国時代の武将であり、上杉景勝に仕えた家臣です。越後国頸城郡松木城の城代を務め、上杉氏の家臣団の中では有数の実力者でした。 宗綱は、永禄12年(1569年)に上杉謙信の養子として生まれました。幼名は高虎丸で、元服後は宗綱と名乗りました。謙信の死後、上杉景勝の配下となり、頸城郡の松木城を預かっています。 宗綱は、越後国を巡る各地の合戦で活躍しました。天正11年(1583年)には、織田信長の軍勢を相手に御館の乱を戦い、上杉氏の勝利に貢献しました。また、天正13年(1585年)には、豊臣秀吉の軍勢を相手に魚津城の戦いを戦い、ここでも上杉氏の勝利に貢献しました。 宗綱は、上杉氏を支える有能な家臣でしたが、慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の戦いで、上杉軍は徳川家康の軍勢に敗北しました。この戦いで、宗綱は負傷して捕らわれ、その後、処刑されました。 宗綱は、上杉氏に仕えた忠義の武将であり、その功績は多くの人々に讃えられています。
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中山忠能 – 公卿であり明治天皇の外祖父

中山忠能の生涯 中山忠能は、1809年(文化6年)に公卿・中山愛親の三男として生まれました。母は、正室の海野本光院(しげこ、海野俊通の娘)です。10歳のときに中納言・中山忠英の養子となり、1829年(文政12年)に元服して従五位上に叙され、侍従となります。翌1830年(天保元年)に左近衛少将、1833年(天保4年)に左近衛中将となります。1838年(天保9年)には参議に任命され、1841年(天保12年)には権中納言に昇進します。 1854年(嘉永7年)に、黒船来航によってペリーが浦賀に来航します。忠能は、幕府の要請を受けて、江戸に下向し、ペリーと交渉にあたります。交渉は難航しましたが、忠能は粘り強く交渉を続け、最終的には、日米和親条約を締結することに成功しました。 1858年(安政5年)には、孝明天皇の崩御に伴い、皇太子・睦仁親王の摂政に就任します。睦仁親王は、1860年(万延元年)に明治天皇として即位します。忠能は、引き続き摂政として、明治天皇を補佐し、幕末の動乱期を乗り切ることができます。 1868年(慶応4年)、明治天皇が親政を開始すると、忠能は摂政を辞任します。その後、太政大臣に任命され、明治政府の最高責任者となります。忠能は、明治政府の近代化政策を推し進め、日本を近代国家へと導きます。 1888年(明治21年)に忠能は死去しました。享年80歳でした。忠能は、明治天皇の外祖父であり、明治政府の最高責任者として、日本の近代化に大きく貢献しました。
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– 鷹司基忠

鷹司基忠の生涯 鷹司基忠は、安政5年(1858年)1月18日、京都の公卿である鷹司政通の次男として生まれた。幼名は昭子丸。 元治元年(1864年)、17歳で従五位下に叙され、侍従となる。慶応2年(1866年)には、従四位下に昇叙され、右近衛権少将に任官された。 慶応3年(1867年)、徳川慶喜が政権を朝廷に返上すると、基忠は参与に任命され、新政府の樹立に貢献した。明治2年(1869年)には、従三位に昇叙され、左近衛権中将に任官された。 明治6年(1873年)、基忠は、岩倉使節団の一員として欧米諸国を歴訪した。この際、基忠は、欧米諸国の政治・経済・文化を学び、日本の近代化の必要性を痛感した。 明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、基忠は、政府軍の参謀として従軍した。西南戦争終結後、基忠は、元老院議官に任命された。 明治14年(1881年)、基忠は、文部卿に就任した。文部卿在任中、基忠は、教育制度の改革に取り組み、帝国大学や師範学校を設立した。 明治17年(1884年)、基忠は、内務大臣に就任した。内務大臣在任中、基忠は、地方制度の改革に取り組み、市町村制や郡制を制定した。 明治21年(1888年)、基忠は、外務大臣に就任した。外務大臣在任中、基忠は、日清戦争の遂行に尽力した。 明治28年(1895年)、基忠は、内閣総理大臣に就任した。内閣総理大臣在任中、基忠は、日清戦争後の講和条約である下関条約を締結し、台湾を日本の領土とした。 明治31年(1898年)、基忠は、薨去した。享年41。
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九条道教 – 鎌倉・南北朝時代の公卿

九条道教の生涯 九条道教は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿です。九条家11代目当主であり、内大臣や太政大臣などを歴任しました。 道教は、弘安7年(1284年)に九条師教の子として生まれました。幼名は経尋(つねひろ)です。建武3年(1336年)に内大臣に任命され、その後、太政大臣や関白を歴任しました。 道教は、室町幕府の初代将軍足利尊氏と親しく、尊氏の側近として活躍しました。尊氏が没すると、その子足利義詮を擁立して室町幕府の実権を握りました。 道教は、延文3年(1358年)に太政大臣を辞任し、翌年には出家しました。法名は道玄です。康暦3年(1381年)に死去しました。 道教は、学問や和歌に優れ、多くの著作を残しました。代表作には、『九条道教集』、『九条兼経卿家集』などがあります。 道教は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、朝廷において重要な役割を果たした公卿でした。その生涯は、激動の時代を生きた公卿の生きざまを物語るものです。
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– 徳大寺公孝

徳大寺公孝とは 徳大寺公孝(とくだいじ きみたか)は、日本の政治家、華族。貴族院議長、外務大臣、宮内大臣などを歴任した。 1863年、公家の徳大寺実則の子として京都に生まれる。1874年に学習院を卒業し、1879年に東京大学を卒業した。 1884年に貴族院議員に勅選され、1893年に外務政務次官に就任した。1894年に外務大臣に就任し、1896年まで務めた。 1896年に宮内大臣に就任し、1910年まで務めた。1912年に貴族院議長に就任し、1918年まで務めた。 1920年に亡くなった。享年57。 徳大寺公孝は、外交畑で活躍した政治家である。外務大臣時代には、日清戦争後の講和条約である下関条約の締結に尽力した。宮内大臣時代には、皇室典範の制定に尽力した。貴族院議長時代には、第一次世界大戦後の日本の国際連盟への加盟に尽力した。 徳大寺公孝は、日本の外交政策に大きな影響を与えた政治家である。その功績は今日でも高く評価されている。
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二条政嗣 – 室町時代の公卿

二条政嗣の生涯 二条政嗣は、室町時代の公卿である。権大納言・二条持通の子として、応永9年(1402年)に生まれた。室町幕府8代将軍・足利義政の同母弟で、9代将軍・足利義尚の叔父にあたる。兄には7代将軍・足利義勝や、応永の乱で戦功を挙げた二条持基などがいる。 政嗣は、幼い頃から学問を好み、和歌や蹴鞠にも秀でていた。応永22年(1415年)、14歳の時に従五位下・侍従に叙任され、翌年には右近衛権少将に任じられた。その後、右近衛権中将、右近衛権大将を歴任し、応永27年(1420年)には従三位に叙された。 応永32年(1425年)、政嗣は権大納言に任じられ、公卿に列した。永享5年(1433年)、将軍・足利義教が暗殺されると、後継将軍に9歳の足利義勝が擁立された。しかし、義勝はわずか3年で夭折し、永享8年(1436年)には義教の弟・足利義政が11代将軍に就任した。 義政は、政嗣を重用し、政嗣は幕府の政務を補佐した。永享9年(1437年)、政嗣は内大臣に任じられ、翌年には左大将に転任した。嘉吉元年(1441年)、後花園天皇が崩御すると、後継天皇として後花園天皇の弟・伏見宮貞成親王が擁立された。政嗣は、貞成親王を後花園天皇の養子とし、践祚させることに貢献した。 嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱が起こると、政嗣は赤松満祐の挙兵に呼応して挙兵した。しかし、細川持之の軍に敗れ、東山に逃亡した。その後、細川持之に降伏し、鎌倉に幽閉された。嘉吉2年(1442年)、政嗣は鎌倉で病没した。享年41。
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徳大寺実基 – 鎌倉時代の公卿

-徳大寺実基の生涯と功績- 徳大寺実基(とくだいじ さねもと、1179年 - 1238年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿、歌人。 徳大寺実定の子として誕生。 1190年(建久元年)に元服、1196年(建久7年)に従五位下叙爵。 建永2年(1207年)に左近衛権中将に任ぜられ、その後、右近衛中将、参議を経て、正治2年(1200年)に権中納言に任ぜられる。 建保2年(1214年)には権大納言に昇進し、建保3年(1215年)には内大臣に任ぜられる。 建保5年(1217年)に左大臣に昇進し、その翌年には左大臣を辞任するが、同年中に右大臣に任ぜられる。 承久2年(1220年)に右大臣と左大臣の職を兼任し、翌年には右大臣に専任となる。 1223年(貞応2年)に権大納言に降格されるが、1226年(嘉禄2年)には内大臣に復任する。 嘉禄3年(1227年)に左大臣に昇進し、嘉禄4年(1228年)には右大臣に転じる。 寛喜2年(1230年)に左大臣に復任し、寛喜3年(1231年)には右大臣に転じる。 寛喜4年(1232年)に内大臣に復任し、貞永元年(1232年)に左大臣に昇進する。 1234年(天福2年)には右大臣に転じ、天福元年(1233年)に内大臣に復任する。 1235年(文暦2年)に左大臣に昇進するが、翌年に関白を辞任する。 1238年(建長2年)に逝去。 徳大寺実基は、和歌の才能にも優れ、彼の和歌は「新古今和歌集」に1首、「続後拾遺和歌集」に1首、「新続古今和歌集」に1首採録されている。 徳大寺実基は、鎌倉時代の公卿として、和歌の才能にも優れ、日本の歴史に大きな足跡を残した人物である。
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大炊御門家孝 – 江戸時代中期~後期の公卿

- 大炊御門家孝の生涯 大炊御門家孝(1759-1839)は、江戸時代中期~後期の公卿。権大納言・大炊御門家政の子。母は押小路家忠の娘・国子。官位は正二位・権大納言。 家孝は、1759年(宝暦9年)に京都で生まれた。1771年(明和8年)、元服して昇殿を許される。1780年(安永9年)、侍従に任じられる。1787年(天明7年)、権左中弁に任じられる。1790年(寛政2年)、左中弁に任じられる。1795年(寛政7年)、権中納言に任じられる。1803年(享和3年)、正二位に叙される。1808年(文化5年)、権大納言に任じられる。 家孝は、公卿として活躍し、朝廷の儀式や政務に携わった。また、歌道にも優れ、多くの和歌を詠んだ。1816年(文化13年)、辞官して隠居した。1839年(天保10年)、京都で死去した。享年81。 家孝は、公卿として活躍し、朝廷の儀式や政務に携わった。また、歌道にも優れ、多くの和歌を詠んだ。その生涯は、江戸時代中期~後期の公卿の典型的なものと言える。
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二条兼基 – 鎌倉時代前期の公卿

二条兼基の生涯 二条兼基(にじょうかねもと、1223年~1280年)は、鎌倉時代前期の公卿である。九条道家の子として生まれ、幼名は九条兼雅。父・道家の死後、二条家の養子となり、二条良実の娘・藤原慶子を妻とした。 兼基は、1236年に従五位下・左少将に任じられ、1239年に参議に昇進した。その後、権中納言、権大納言、内大臣を歴任し、1265年に右大臣に任じられた。1267年には左大臣に昇進し、1273年には太政大臣に任じられた。 兼基は、政治家として優れた手腕を発揮し、鎌倉幕府との関係を円滑に保ちながら、朝廷の権威を高めることに努めた。また、学問にも優れ、和歌や漢詩を嗜んだ。歌人は円融院の女房、弁内侍。 兼基は、1280年に58歳で薨去した。死後、正一位太政大臣を追贈された。 兼基は、鎌倉時代前期を代表する公卿であり、政治家として、また、学者として大きな功績を残した人物である。
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西園寺実宣 ~戦国時代の公卿~

西園寺実宣の生涯 西園寺実宣は、戦国時代の公卿です。1501年に生まれ、1578年に亡くなりました。 父は西園寺公教、母は一条房通の娘・永和です。姉に家女房の西園寺公益と、実弟に西園寺公朝と、小森谷時久がいます。 1514年に14歳で従五位下に叙され、以降、公家の階段を上り、1543年には従一位右大臣に任じられました。1548年に左近衛大将を兼任し、1550年には内大臣に、1552年には右大臣に、1553年には太政大臣に任じられました。 戦国時代を代表する公卿であり、天皇の側近として政務を執りました。また、書道にも優れ、多くの和歌を残しました。 1559年に内大臣、1563年には右大臣に復任し、1568年には太政大臣に再任されました。室町幕府の滅亡後は、織田信長に接近し、信長を支持しました。 1573年に信長が上洛すると、実宣は信長を京都に迎え入れ、信長に内大臣と右大臣を兼任させました。さらに、信長に太政大臣の宣下を奏請しましたが、信長はこれを固辞しました。 1578年に78歳で亡くなりました。 実宣は、戦国時代という激動の時代を生き抜いた公卿であり、その生涯は、戦国時代の公卿の生き方をよく表しています。
歴史上の偉人

藤原宗輔 – 平安時代後期の公卿

-藤原宗輔の生涯- 藤原宗輔(ふじわらの そうすけ、生没年不詳)は、平安時代後期の公卿。藤原北家師実流、参議・藤原定兼の長男。官位は正三位・参議。 -藤原宗輔の生涯- 藤原宗輔は、藤原北家師実流の公卿、藤原定兼の長男として生まれる。母は藤原経実の娘。 長寛元年(1163年)に元服し、蔵人となり、従五位下に叙される。嘉応2年(1170年)には右衛門権佐に任じらる。 安元3年(1177年)に従五位上に叙される。寿永2年(1183年)には正五位下に叙され、右衛門権佐に任じらる。 文治元年(1184年)に従四位下に叙され、右馬頭・越前守に任じらる。文治2年(1185年)には従四位上・右馬頭に任じらる。 建久2年(1191年)に従三位・参議に叙される。建久10年(1199年)には正三位に叙され、右近衛中将・左兵衛督に任じらる。 建久11年(1200年)に右近衛大将に任じらる。建永2年(1207年)に右馬頭に任じらる。 建暦2年(1212年)に参議を辞任し、出家して法然の弟子となる。建暦3年(1213年)には薨去した。 -藤原宗輔の業績- 藤原宗輔は、平安時代後期の公卿として活躍した。参議まで昇進し、右近衛大将を務めた。また、出家して法然の弟子となり、浄土宗に帰依した。
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園基福 – 江戸時代前期の公卿

-園基福の生涯- 園基福(そのもと もとよし)は、江戸時代前期の公卿。権大納言・園基任の子。官位は内大臣・右大臣。 慶長10年(1605年)、権大納言・園基任の子として生まれる。母は松殿光広の娘・盈子。同族の姉・基子を徳川秀忠の側室としており、甥に徳川家光がいる。異母兄・基音の養子となった。 元和9年(1623年)、従五位上・侍従に叙任し、以降侍従・左近衛権少将・右近衛権少将を歴任する。寛永4年(1627年)に従三位・権中納言に進む。寛永8年(1631年)に権大納言。寛永13年(1636年)3月に内大臣、12月に右大臣に任じられた。 寛永14年(1637年)、薨去。享年33。 基福は、公家と武家の融和に尽力し、徳川家光とも親密な関係にあった。また、和歌にも優れ、勅撰和歌集に多数入集されている。 基福の死後、その子である実福と基貞が相次いで早世したため、園家は絶家となった。しかし、基福の姉である基子が徳川秀忠の側室となって生んだ子の徳川光友が松平姓から園姓に改姓し、園家を再興した。
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藤原全子 ― 平安時代後期の女性

藤原全子の生涯 藤原全子は、平安時代後期に活躍した皇族、政治家、文化人です。藤原道長の娘で、一条天皇の中宮として入内し、後に皇太后となりました。彼女は華やかな生涯を送る一方、夫の死後には出家して尼となり、その後の政界にも大きな影響力を持っていました。 全子は一条天皇の皇后として入内し、後一時には東宮(皇太子)となった敦康親王を出産しました。しかし、敦康親王は幼くして亡くなり、全子は皇子をもうけることなく、長寿を全うしました。 夫の死後、全子は出家して尼となり、法名を高陽院と称しました。彼女は20年以上尼として過ごしましたが、その間も政界に大きな影響力を持っており、弟の藤原頼通や藤原教通を助けて、摂関家の権力を固めました。 全子はまた、文化人としても活躍しており、和歌や管弦に優れ、多くの和歌を詠んでいるほか、管弦についても優れた楽器の演奏者でした。彼女の和歌は『後拾遺和歌集』や『金葉和歌集』などの勅撰和歌集にも収録されています。 全子は、平安時代後期を代表する女性の一人であり、華やかな生涯を送る一方、夫の死後には出家して尼となり、その後の政界にも大きな影響力を持っていました。彼女は和歌や管弦に優れ、多くの和歌を詠むなど、文化人としても活躍しました。
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三条実忠 – 鎌倉・南北朝時代の公卿

-三条実忠の生涯- 三条実忠は、鎌倉時代後期から南北朝時代の廷臣、公卿である。従一位・大納言。三条家33代当主。 延慶3年(1310年)、三条公秀の長男として生まれる。正和年間までに従五位上に叙位し、嘉暦3年(1328年)元服。嘉暦4年(1329年)従四位下に叙し、四条隆資の娘を妻として迎える。 元弘元年(1331年)後醍醐天皇の笠置山挙兵に呼応して、諸国に倒幕を令した。しかし、鎌倉幕府の反撃に遭い、延元元年(1336年)後醍醐天皇が吉野に移った際には、藤原藤房らと共に足利尊氏に降伏した。 建武政権下では、式部頭、弾正大弼を歴任し、建武2年(1335年)正四位下に叙され、半年後には従三位に叙せられる。しかし、建武3年(1336年)に足利尊氏が後醍醐天皇に対して挙兵した際には、北朝側に与した。 暦応2年(1339年)、従二位に叙され、暦応3年(1340年)右近衛大将に任じられた。延元3年(1338年)蔵人頭兼修理大夫に任じられ、延文4年(1359年)大納言に転任した。 正平22年/貞治6年(1367年)6月25日薨去。享年58。
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三善忠子 鎌倉時代の女官

-三善忠子 鎌倉時代の女官- -三善忠子の生涯- 三善忠子は、鎌倉時代の女官である。三善康通の娘として生まれ、1219年に後鳥羽天皇の中宮に選ばれた。忠子は、後鳥羽天皇の寵愛を受け、1220年に皇子・順徳天皇を出産した。順徳天皇が即位すると、忠子は皇太后となり、政治に大きな影響力を及ぼした。しかし、1221年に承久の乱が勃発すると、後鳥羽天皇は隠岐に流され、忠子は京都を追われた。その後、忠子は出家し、鎌倉で余生を送った。 三善忠子は、承久の乱の勃発に深く関与したとされている。忠子は、後鳥羽天皇の寵愛を受け、政治に大きな影響力を及ぼしていた。そのため、北条義時ら幕府の有力者は、忠子を排除しようと考え、承久の乱を起こした。忠子は、承久の乱で敗北し、京都を追われた。その後、忠子は出家し、鎌倉で余生を送った。 三善忠子は、鎌倉時代の女官の中で、最も有名な人物の一人である。忠子は、後鳥羽天皇の寵愛を受け、政治に大きな影響力を及ぼした。しかし、承久の乱で敗北し、京都を追われた。その後、忠子は出家し、鎌倉で余生を送った。忠子の生涯は、鎌倉時代の女官の悲哀と栄華を物語っている。