徳山婦人講習会

歴史上の人物

明治の社会事業家・赤松安子の人生

-赤松安子の生い立ちと結婚- 明治の社会事業家である赤松安子は、1864年(元治元年)に、彦根藩士・森醇の娘として滋賀県彦根市に生誕しました。幼い頃から聡明で、家事や裁縫を勉強し、俳句や和歌も得意。安子は、1883年(明治16年)に、同じく彦根藩出身の医師の赤松則良と結婚しました。 赤松安子は、夫・則良が医師として勤務した山形県酒田市で、社会事業の活動を開始しました。赤松安子は、1887年(明治20年)に、酒田に婦人矯風会を設立して、女性の権利向上を図りました。また、赤松安子は、1890年(明治23年)には、酒田に育児所を開設し、孤児や貧困家庭の子供たちの養育に尽力しました。 赤松安子は、社会事業活動の功績が認められ、1911年(明治44年)に、藍綬褒章を授与されました。1924年(大正13年)には、赤松安子は、日本婦人社会事業家の草分けとして、初の女性貴族院議員に選出されました。赤松安子は、1942年(昭和17年)に、78歳で亡くなりましたが、その社会事業活動は、今日でも高く評価されています。
その他

「赤松照幢」

-赤松照幢- -赤松照幢の生涯- 赤松照幢は、戦国時代に活躍した武将・大名です。播磨国赤松氏の第14代当主であり、赤松氏を再興した人物として知られています。 赤松照幢は、天文2年(1533年)に赤松晴政の四男として生まれました。天文19年(1550年)に父が死去すると、家督を継いで赤松氏第14代当主となりました。 赤松氏は、播磨国を治めていた守護大名でしたが、応仁の乱で没落してしまいます。照幢が家督を継いだ頃は、赤松氏は播磨国から追放されており、再興が絶望的な状況でした。 しかし、照幢は諦めずに播磨国への復帰を目指しました。永禄3年(1560年)に播磨国に侵攻し、小寺政職や浦上宗景などの敵対勢力を破りました。 永禄7年(1564年)には、室町幕府の将軍・足利義輝から播磨国の守護に任命されました。これで赤松氏は播磨国に正式に復帰を果たしました。 その後、照幢は播磨国を平定し、赤松氏の勢力を拡大しました。また、毛利輝元や宇喜多直家など、近隣の有力大名と同盟を結んで勢力を強めました。 天正2年(1574年)、照幢は病死しました。享年42歳でした。家督は養嗣子の赤松広秀が継ぎました。 赤松照幢は、播磨国を再興した名将として知られています。また、赤松氏の勢力を拡大し、近隣の有力大名と同盟を結ぶなど、播磨国の平和と安定に貢献しました。