愛知医学校

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北林貞道とは?明治-昭和時代の精神医学者

-# 北林貞道の生い立ちと経歴 北林貞道は、1869年(明治2年)10月14日に、東京府北豊島郡巣鴨村(現在の東京都豊島区巣鴨)に生まれた。父は北林八郎左衛門、母はタキノ。貞道は、幼少期から病弱で、しばしば学校を休みがちであった。しかし、読書を好み、特に歴史と文学を好んで読んだ。 1886年(明治19年)に、東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学。在学中は、柔道部に所属し、猛練習を重ねて、黒帯を取得した。また、演劇にも興味を持ち、演劇部にも所属した。 1891年(明治24年)に、第一中学校を卒業後、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に進学。在学中は、精神病学を専攻し、教授の浅田宗伯に師事した。1896年(明治29年)に、東京帝国大学医科大学を卒業し、医師となった。 卒業後は、東京帝国大学精神病学教室の助手となり、精神病学の研究に従事した。1900年(明治33年)に、ヨーロッパに留学し、ドイツのベルリン大学とハイデルベルク大学で精神病学を学んだ。1902年(明治35年)に、帰国し、東京帝国大学精神病学教室の助教授となった。 1905年(明治38年)に、東京帝国大学精神病学教室の教授に昇任。1912年(大正元年)に、東京帝国大学附属精神病医院(現在の東京大学医学部附属病院精神神経科)の院長に就任した。1923年(大正12年)に、関東大震災が発生すると、被災者の精神衛生を指導し、復興に尽力した。 1928年(昭和3年)に、東京帝国大学を退官し、名誉教授となった。その後も、精神病学の研究と教育に携わり、多くの精神科医を育成した。1943年(昭和18年)に、73歳で死去した。
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高橋伝吾→ 明治・大正時代の医学者

- 高橋伝吾→ 明治・大正時代の医学者 -# 医学者高橋伝吾の生涯 高橋伝吾は、1867年(慶應3年)に広島県で生まれました。旧制第一高等学校を卒業後、1892年(明治25年)に東京帝国大学医学部を卒業しました。卒業後は、東京帝国大学医学部附属病院に勤務し、その後、同大学の教授を務めました。高橋伝吾は、細菌学、免疫学、感染症学の分野で多くの研究を行い、日本の医学の発展に貢献しました。 高橋伝吾の最も有名な研究の一つは、コレラ菌の研究です。コレラ菌は、コレラという感染症を引き起こす細菌です。コレラは、世界中で多くの死者を出す恐ろしい病気でした。高橋伝吾は、コレラ菌の性質を研究し、コレラ菌を殺す方法を発見しました。この発見により、コレラの治療法が確立され、コレラによる死者が大幅に減少しました。 高橋伝吾は、また、免疫学の分野でも重要な研究を行いました。免疫学とは、生体が病原体から身を守る仕組みを研究する学問です。高橋伝吾は、免疫グロブリンという抗体の一種を発見し、免疫グロブリンが病原体を無害化する仕組みを解明しました。この発見により、免疫学の発展に大きく貢献しました。 高橋伝吾は、1926年(大正15年)に、59歳で亡くなりました。しかし、高橋伝吾の研究は、日本の医学の発展に大きく貢献しており、その功績は今もなお称賛されています。
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熊谷幸之輔→ 明治-大正時代の医師、教育者

熊谷幸之輔の生い立ちと経歴 熊谷幸之輔(くまがいやこうのすけ)は、明治から大正時代にかけて活躍した日本の医師、教育者です。1849年(嘉永2年)1月30日、武蔵国足立郡木曽川村(現・埼玉県熊谷市)に熊谷重助の長男として生まれました。 幸之輔は、幼少期から聡明で、6歳の頃には漢籍を学び始めました。14歳の時には、江戸に出て、慶應義塾に入学しました。慶應義塾では、福沢諭吉や中村敬宇らに師事し、西洋の学問を学びました。 1871年(明治4年)、幸之輔は慶應義塾を卒業し、東京大学医学部に進学しました。1875年(明治8年)に東京大学医学部を卒業し、医師となりました。 幸之輔は、大学卒業後は、東京大学医学校で教鞭を執りました。1885年(明治18年)に東京女子医学校を創立し、校長に就任しました。東京女子医学校は、日本初の女子医学校であり、多くの女性医師を育成しました。 幸之輔は、医師、教育者として活躍する傍ら、社会事業にも熱心に取り組みました。1887年(明治20年)に東京慈恵医院を創立し、院長に就任しました。東京慈恵医院は、日本初の民間病院であり、多くの患者を救いました。 幸之輔は、1922年(大正11年)12月29日に東京で亡くなりました。享年74歳でした。幸之輔は、日本の近代医学の発展に貢献した偉大な医師、教育者です。