振徳堂

歴史上の人物

川崎祐総-江戸時代後期の武士

川崎祐総の生涯 川崎祐総は、江戸時代後期の武士です。薩摩藩士として仕え、維新の三傑の一人である西郷隆盛と親交がありました。 祐総は、安政2年(1855年)に鹿児島で生まれました。幼名は亀太郎。父は川崎弥一郎、母は川上氏の娘です。祐総は、幼い頃から剣術や槍術を学び、文武両道を修めました。 元治元年(1864年)、祐総は薩摩藩の兵として禁門の変に参加します。この戦いで、祐総は敵の銃弾を受けて負傷しました。しかし、祐総は一命をとりとめ、維新の変革に身を投じることとなります。 慶応4年(1868年)、祐総は戊辰戦争に参加します。祐総は、新政府軍の指揮官として各地を転戦し、幕府軍を破りました。 明治維新後、祐総は新政府に出仕し、陸軍省や警視庁で要職を歴任しました。祐総は、明治17年(1884年)に死去しました。享年30歳。 祐総は、薩摩藩の志士として維新の変革に貢献し、明治維新後の日本を支えた人物です。
学術分野の人

「田中謙斎」

-「田中謙斎」- -江戸時代後期の儒者田中謙斎- 田中謙斎(1760~1822年)は、江戸時代後期の儒者です。名は忠盛、字は子慎、通称は主馬。号は環中、椿園。美作国(現・岡山県)の人です。 謙斎は、儒教の経典を学び、朱子学を究め、詩文にも優れていました。また、医術にも通じ、多くの病人を診察しました。 1802年(享和2年)、謙斎は、岡山藩の藩校である閑谷学校の学長に就任しました。謙斎は、閑谷学校で、朱子学を教え、多くの弟子を育てました。 謙斎は、1822年(文政5年)に63歳で亡くなりました。 謙斎の著作には、『椿園集』『椿園文集』『椿園詩集』などがあります。 謙斎は、江戸時代後期の儒学の発展に貢献した儒者の一人として、その名を知られています。
学術分野の人

安井息軒:江戸後期・明治時代の儒者

-安井息軒の生涯- 安井息軒は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した儒者です。名は安井算哲(あんざいさんてつ)といい、号は息軒。通称は市右衛門。 1789年(寛政元年)、但馬豊岡藩領出石郡内藤村生まれ。父は儒医安井常庵。幼い頃から学問を好み、12歳で藩校明倫館に入学。15歳で京都の広瀬淡窓の塾に入り、儒学を学びます。 1812年(文化9年)に明倫館の教授となり、1819年(文政2年)には藩校の頭取に就任しました。1825年(文政8年)には江戸に出て、佐藤一斎の門下生となります。一斎の没後は、その遺志を継いで儒学の興隆に努めました。 1843年(天保14年)、幕府の儒官に任命されました。1854年(嘉永7年)には、幕府の命でペリー艦隊来航の対応にあたりました。1858年(安政5年)、日米修好通商条約の締結に反対して幕府を辞職しました。 1863年(文久3年)、藩主が幕府に恭順の姿勢を示したことに抗議して、出石を離れて京都に隠棲しました。1864年(元治元年)、禁門の変で長州藩が京都を攻撃した際に、息軒は長州藩を非難する書簡を幕府に送りました。 1868年(慶応4年)、明治維新後は、新政府に出仕して、文部省の官僚を務めました。1876年(明治9年)に78歳で死去しました。 息軒は、儒教を日本の近代化に役立てようと努めた思想家であり、幕末維新の動乱期にあって、その思想は大きな影響を与えました。
学術分野の人

関南瀕(1718-1783)→ 江戸時代中期の儒者

関南瀕の生涯 関南瀕は、江戸時代中期の儒者で、名は景裕、字は子孟、号は南瀕である。享保3年(1718年)、武蔵国比企郡野本村(現在の埼玉県熊谷市野本)に生まれた。幼い頃から学問を好み、16歳の時に江戸に出て、昌平黌で学ぶ。20歳の時に、林鳳岡の門下生となり、儒学を修める。 宝暦元年(1751年)、南瀕は甲斐国甲府藩の儒官となり、藩校の徽典館で講義を行う。宝暦8年(1758年)には、江戸に戻り、昌平黌の教授となる。明和3年(1766年)には、林鳳岡の後を継いで、昌平黌の学頭となる。 南瀕は、朱子学を基盤とした儒学を講義し、多くの門下生を育てた。また、多くの儒書を著し、その学問は広く世間に知られた。安永12年(1783年)、66歳で死去。 関南瀕の学問の特徴は、朱子学と陽明学を折衷した独自の儒学を構築したことである。朱子学の重んじる理と、陽明学の重んじる心を融合させた儒学は、多くの人々に受け入れられた。また、南瀕は、儒学だけでなく、経学、史学、文学にも通じ、幅広い知識を持っていた。 関南瀕は、江戸時代中期の儒学において、重要な役割を果たした人物である。南瀕の学問は、多くの門下生に受け継がれ、江戸時代後期から明治時代にかけての儒学の発展に大きく貢献した。
歴史上の人物

青山忠高 – 江戸時代中期の大名

青山忠高 - 江戸時代中期の大名 出自と家督相続 青山忠高は、1641年(寛永18年)に江戸で生まれた。父は青山忠重、母は横田氏。忠高は、青山氏の嫡男として生まれ、幼少期から家督を継ぐための教育を受けた。 青山氏は、戦国時代には甲斐の国(現在の山梨県)を治めた武田氏に仕えた。武田氏が滅亡した後、青山氏は徳川家康に仕え、江戸幕府成立後は譜代大名として徳川氏に仕えた。 忠高は、1665年(寛文5年)に父・忠重が死去した後に家督を相続した。家督を相続した忠高は、幕府の要職を歴任し、老中となった。忠高は、老中として幕府の政治を担い、徳川綱吉の治世を支えた。 忠高は、1709年(宝永6年)に死去した。享年69歳。忠高の死後は、嫡男の青山忠裕が家督を相続した。
学術分野の人

平部嶠南 – 江戸後期から明治時代にかけて活躍した儒者

-平部嶠南の生涯と業績- 平部嶠南(ひらべ きょうなん、1812年(文化9年) - 1896年(明治29年))は、江戸後期から明治時代にかけて活躍した儒者、漢学者。名は彦、字は敬卿、童名は与三郎。初号は韶南、後に嶠南と改めた。 嶠南は越後国蒲原郡水原(現・新潟県阿賀野市)の郷士の元に生まれた。幼少の頃から学問を好み、14歳の時に江戸に出て、佐藤一斎に師事した。一斎の没後は、その子の佐藤誠次に学び、さらに安積澹泊、大槻磐渓、渡辺崋山らとも交流があった。 嘉永3年(1850年)に帰郷し、水原に私塾「平部塾」を開いた。平部塾は、越後だけでなく、東北、北陸地方からも多くの学生が集まる名門塾となり、嶠南は「越後の聖人」と称された。 嶠南は、儒学のほか、国学や洋学にも通じており、多くの著作を残した。その中でも、特に有名なのが『皇朝史略』である。『皇朝史略』は、日本の建国から明治維新までの歴史を簡潔にまとめたもので、明治政府によって教科書として採用された。 嶠南は、明治維新後も引き続き教育活動に尽力し、明治29年(1896年)に85歳で死去した。 嶠南の業績は多岐にわたるが、その中でも特に重要なのは、儒学の普及と人材育成である。嶠南は、平部塾を通じて多くの学生を教育し、その中には、後に明治政府の中枢で活躍する人物も少なくなかった。また、嶠南は、儒学の普及に努め、そのために多くの著作を残した。これらの著作は、明治時代以降の日本の教育に大きな影響を与えた。 嶠南は、儒者としてだけでなく、教育者としても大きな功績を残した人物である。その業績は、今日なお高く評価されている。
学術分野の人

「高山信濃」について

-高山信濃とは?- 高山信濃とは、長野県南西部にある地域を指します。伊那谷、南信州とも呼ばれます。 伊那谷は、天竜川流域に位置する東西約90キロメートル、南北約40キロメートルの盆地です。南アルプスと中央アルプスの間に挟まれた狭隘な地形をしています。 南信州は、伊那谷を挟んで南アルプスと中央アルプスの間に位置する地域です。伊那谷に比べて山がちで、標高1,000メートル以上の山々が連なっています。 高山信濃は、豊かな自然と美しい景観で知られています。伊那谷は、日本の穀倉地帯として知られ、水田や畑が広がっています。南信州は、森林が多く、木曽ヒノキや信州アカマツなどが自生しています。 高山信濃には、多くの観光スポットがあります。伊那谷には、高遠城址や武田信玄の隠し湯と伝わる姫の湯温泉などがあります。南信州には、木曽駒ヶ岳や空木岳、恵那山などの名峰があります。 高山信濃は、豊かな自然と美しい景観、そして多くの観光スポットがある魅力的な地域です。
学術分野の人

「落合双石」

-落合双石の生涯- 落合双石(おちあい そうせき)は、江戸時代中期の儒学者。名は豊世(とよよ)、通称は弥太郎(やたろう)。字は仲養(ちゅうよう)、号は雙石(そうせき)。 1711年、京都の西陣に生まれる。幼少の頃から聡明で、8歳の時に『論語』を読み、12歳の時に『孟子』を学ぶ。15歳の時に京都に出て、菅茶山(すが ちゃざん)に入門して儒学を学ぶ。 20歳の時に江戸にに出て、林家に仕える。林家は、江戸幕府の儒官の家柄で、双石は林大学頭(はやし だいがくのかみ)の娘と結婚する。 その後、双石は林家を出仕して、各地を遊歴する。1740年に京都に戻り、翌年に私塾「雙石館」を開設する。雙石館は、多くの門人を輩出し、儒学の拠点となる。 双石は、儒学の研究と後進の育成に尽力し、1781年に71歳で死去する。双石は、儒学の大家として知られ、その著作は『雙石遺稿』にまとめられている。 -双石の思想- 双石は、儒学を基盤とした独自の思想を展開した。その思想は、以下の3つの柱で構成されている。 1. -仁義礼智信- 双石は、儒学の五常である仁義礼智信を重視した。仁義は、人と人との関係を調和させるための徳目であり、礼智は、人と人との関係を秩序立てるための徳目である。信は、人と人との関係を信頼させるための徳目である。 2. -忠孝- 双石は、忠孝を重視した。忠は、君主や国家に対する忠誠心であり、孝は、父母や祖先に対する孝行心である。双石は、忠孝は儒学の根本的な徳目であると考えていた。 3. -学問- 双石は、学問を重視した。学問は、人間を成長させ、世の中をより良くするための手段である。双石は、学問は人間にとって不可欠であると考えていた。 双石の思想は、江戸時代中期の儒学に大きな影響を与えた。双石の著作は、多くの儒学者に読まれ、双石の思想は、儒学の主流の一つとなった。
学術分野の人

安井滄洲 – 江戸時代中期から後期にかけて活躍した儒学者

-安井滄洲の生涯- 安井滄洲(やすい そうしゅう)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した儒学者である。名は玄、字は復観、滄洲は号である。 1705年(宝永2年)、江戸に生まれる。父は豪商の安井仲右衛門、母は越後高田藩松平家の姫君である。幼少の頃から聡明で、5歳で読書を始め、12歳で「論語」を修了したという。 16歳で京都に遊学し、伊藤仁斎に師事する。仁斎の没後は、その弟子である荻生徂徠に師事する。徂徠の没後は、自ら門人を集めて講義を行った。 滄洲は、儒教の朱子学を批判し、より実践的で現実的な倫理思想である陽明学を主張した。また、儒教の経典である「四書五経」を研究し、その解釈書を著した。 滄洲の学問は、江戸時代の思想界に大きな影響を与えた。特に、彼の陽明学は、多くの武士や庶民に支持された。また、彼の経典解釈書は、多くの儒学者に愛読された。 滄洲は、1771年(明和8年)に死去した。享年67。 滄洲の著書には、「滄洲詩文集」「滄洲語録」「滄洲答問」などがある。