日本ゲーテ協会

文学分野の人

青木昌吉 | 明治時代から昭和時代前期に活躍したドイツ語学者

-ドイツ語学への貢献- 青木昌吉は、ドイツ語学の発展に大きく貢献しました。彼は、1876年にドイツ語の文法書『独逸文典』を出版し、ドイツ語の文法を体系的に解説しました。『独逸文典』は、日本初の近代的なドイツ語文法書であり、ドイツ語教育に大きな影響を与えました。 青木昌吉は、ドイツ語の辞書編纂にも尽力しました。1889年に、彼は『独逸和字典』を出版し、1909年には、『和独大辞典』を出版しました。『独逸和字典』は、日本初のドイツ語和辞典であり、『和独大辞典』は、日本初の和独辞典でした。これらの辞書は、ドイツ語の語彙を体系的にまとめたものであり、ドイツ語教育やドイツ語の研究に大きな貢献をしました。 青木昌吉は、ドイツ語教育にも尽力しました。1877年に、彼は東京外国語学校(現・東京外国語大学)でドイツ語の講師に就任し、ドイツ語の教育に携わりました。青木昌吉は、ドイツ語の教育にあたり、ドイツ語の文法や語彙を体系的に教え、ドイツ語の正しい発音を指導しました。青木昌吉のドイツ語教育は、多くの学生にドイツ語を教える上で大きな影響を与えました。 青木昌吉は、ドイツ語学の発展に多大な貢献をしたドイツ語学者です。彼は、ドイツ語の文法書や辞書を編纂し、ドイツ語教育に携わりました。青木昌吉のドイツ語学への貢献は、日本におけるドイツ語教育やドイツ語の研究の発展に大きな影響を与えました。
文学分野の人

成瀬無極 – ドイツ文学者として活躍した人物

- 成瀬無極の生い立ちと経歴 成瀬無極は、1875年1月15日、熊本県熊本市に生まれました。成瀬家は、熊本藩の藩士の家柄で、父・成瀬董は、肥後藩の藩校・時習館の教授を務めました。無極は、幼少期から漢学や国学を学び、1892年に熊本県立中学を卒業しました。 中学卒業後は、上京して東京専門学校(現早稲田大学)に進学し、1896年に卒業しました。卒業後は、東京帝国大学文科大学ドイツ文学科に入学し、1900年に卒業しました。 東京帝国大学卒業後は、第一高等学校の教授を務め、1904年にドイツに留学しました。留学中は、ベルリン大学やミュンヘン大学で学び、1908年に帰国しました。 帰国後は、東京帝国大学文科大学教授に就任し、1922年に東京帝国大学総長に就任しました。総長在任中は、大学の改革に尽力し、1926年に辞任しました。 総長を辞任後は、貴族院議員や学術研究会議委員長など、様々な公職を歴任しました。また、1930年に日本学士院会員に選ばれました。 成瀬無極は、1945年8月15日、熊本市で死去しました。享年70歳でした。
学術分野の人

相良守峯 – 昭和時代のドイツ文学者

相良守峯の生涯と業績 相良守峯(1910年 - 1985年)は、日本のドイツ文学者です。彼は、ドイツの文学や思想の研究において先駆的な役割を果たし、その功績は高く評価されています。 相良守峯は、1910年に東京都で生まれました。東京大学文学部でドイツ文学を学び、1934年に卒業しました。その後、東京大学大学院に進学し、1937年に博士号を取得しました。 相良守峯は、1937年から1945年まで、東京大学文学部の講師を務めました。1945年には、東京大学教授に昇進しました。彼は、1974年に東京大学を退職するまで、ドイツ文学の教授として活躍しました。 相良守峯は、ドイツ文学の研究において先駆的な役割を果たしました。彼は、1937年に出版された『ドイツ文学史』は、日本のドイツ文学研究における最初の通史であり、今日でも高い評価を受けています。また、彼は、1948年に出版された『ゲーテ論集』や、1958年に出版された『トーマス・マン論集』など、数多くの著作物を発表しました。 相良守峯は、ドイツ文学の研究以外にも、ドイツの思想や文化の研究にも取り組みました。彼は、1963年に出版された『ドイツの思想と文化』は、日本のドイツ思想研究において最初の通史であり、今日でも高い評価を受けています。また、彼は、1968年に出版された『ドイツ文化史』や、1972年に出版された『ドイツ芸術史』など、数多くの著作物を発表しました。 相良守峯は、1985年に東京で亡くなりました。彼は、ドイツ文学の研究において先駆的な役割を果たした偉大な学者であり、その功績は高く評価されています。