朽木荘

歴史上の人物

朽木元綱 〜織豊-江戸時代前期の武将〜

朽木元綱とは 朽木元綱は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、丹波国の守護大名であった。別名は丹波守、法名は元珍、後に元信。 朽木氏は、近江国朽木を拠点とした国人領主である。元綱は、永禄10年(1567)に朽木政綱の子として生まれた。元綱は、幼い頃から武芸に秀で、天正10年(1582)の本能寺の変で父が織田信長に謀殺されると、その跡を継いだ。元綱は、豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)の九州平定に参陣した。また、文禄・慶長の役にも従軍し、武功を挙げた。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍に属して戦った。元綱は、徳川家康の命を受けて丹波国に侵攻し、西軍の細川忠興を破った。その後、元綱は丹波国を与えられ、山城国亀山城を居城とした。元綱は、丹波国の復興に尽力し、領内の安定と発展に貢献した。 元綱は、寛永16年(1639)に死去し、跡を嫡男の綱豊が継いだ。綱豊は、元綱の遺志を継ぎ、丹波国の発展に努めた。朽木氏は、江戸時代を通じて丹波国の大名として存続し、明治維新まで続いた。
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朽木経氏-南北朝時代の武将-【】

朽木経氏-南北朝時代の武将- 朽木経氏の生涯と業績 朽木経氏(くつき つねうじ)は、南北朝時代の武将である。朽木氏の祖とされる。 1. 生い立ちと家督相続 経氏は、延元2年(1337年)、近江国朽木荘(現・滋賀県高島市朽木)の豪族・朽木貞綱の子として生まれた。貞綱は、足利尊氏の弟である足利直義の側近として活躍した人物である。 1352年、尊氏と直義が対立して南北朝の内乱が始まると、経氏は直義派として尊氏派と戦った。しかし、延文4年(1359年)に直義が尊氏によって討たれると、経氏は尊氏に降伏した。 2. 南北朝の内乱 経氏は、尊氏に降伏した後、その側近として仕えた。正平14年(1359年)、尊氏は九州に下向して北朝政権を樹立し、経氏も九州に随行した。 正平17年(1362年)、尊氏は九州で死去し、その子である足利義詮が北朝政権を継承した。経氏は、義詮に仕えて九州の平定に従事した。 正平23年(1368年)、経氏は北朝軍の総大将として、南朝方の九州探題である菊池武光と戦った。この戦いで経氏は武光を破り、九州を北朝に平定した。 3. 朽木氏の祖として 経氏は、九州平定の後、近江国朽木荘に帰還した。そして、朽木氏の祖として、朽木氏の基礎を築いた。 経氏は、文明3年(1471年)に死去した。享年65。 4. 業績 経氏は、南北朝の内乱において、北朝方の武将として活躍した。九州平定の功績により、足利義満から朽木氏の名字と家紋を賜った。 経氏は、また、朽木氏の祖として、朽木氏の基礎を築いた。朽木氏は、近江国朽木荘を本拠地として、戦国時代まで続く有力な国人領主となった。