松尾芭蕉

学術分野の人

尾形仂-平成時代の国文学者

-尾形仂-平成時代の国文学者- -尾形仂の生涯- 尾形仂(おがた さとる)は、1933年11月14日、東京都生まれの国文学者です。東京大学名誉教授、日本学士院会員、文化功労者。専門は国語学、国文学、和歌史。 尾形仂は、1957年に東京大学文学部国語学科を卒業し、1962年に同大学院博士課程を修了しました。その後、1963年に東京大学教養学部助手に就任し、1966年に同大学文学部助教授に昇進しました。1971年に同大学文学部教授に昇進し、1994年に定年退官するまで同職を務めました。 尾形仂は、1995年に日本学士院会員に選出され、2004年に文化功労者に選ばれました。また、日本歌人クラブ会長、日本詩人連盟会長、日本古典文学会会長などの要職を歴任しました。 尾形仂は、和歌史の研究で知られており、1971年に『和歌史総説』を出版し、1980年に『和歌史』を出版しました。また、国語学の研究でも知られており、1979年に『日本語の文法』を出版し、1987年に『日本語の語彙』を出版しました。 尾形仂は、2019年7月29日に東京都で死去しました。85歳でした。
美術分野の人

英一蝶(初代)-江戸の都市風俗を描いた画家

英一蝶(初代)-江戸の都市風俗を描いた画家
文学分野の人

榎並舎羅 – 江戸時代前期から中期の俳人

榎並舎羅の生涯 榎並舎羅は、江戸時代前期から中期の俳人です。元禄5年(1692年)に江戸に生まれ、本名は岡本新兵衛といい、表向きは商人を営んでいました。しかし、その本業は俳諧であり、当時の俳諧界においては第一人者として活躍していました。 舎羅は、貞享2年(1685年)に江戸で生まれ、本名は岡本新兵衛といい、表向きは商人を営んでいました。しかし、その本業は俳諧であり、当時の俳諧界においては第一人者として活躍していました。 舎羅は、幼い頃から俳諧を学び、元禄5年(1692年)に「猿蓑」という句集を出版しました。この句集は、当時の俳壇に大きな影響を与え、舎羅を一流の俳人として有名にしました。 舎羅は、その後も「続猿蓑」「三猿蓑」などの句集を出版し、その名声をさらに高めました。また、多くの弟子を育て、俳諧の普及に努めました。 舎羅は、享保14年(1729年)に江戸で亡くなりました。享年45歳でした。 舎羅は、俳諧史上において重要な俳人の一人であり、その功績は今日でも高く評価されています。 舎羅の作風は、写実的で庶民の生活を詠んだ句が多く、庶民に親しまれていました。また、ユーモアのある句や風刺の効いた句も得意としていました。 舎羅は、俳諧の普及に努め、多くの弟子を育てました。その弟子の中には、後に関西俳壇を代表する俳人となる西山宗因もいました。 舎羅は、享保14年(1729年)に江戸で亡くなりました。享年45歳でした。
文学分野の人

井本農一:昭和・平成時代の国文学者

井本農一生い立ちと経歴 井本農一は、1920年1月1日に京都府京都市で生まれました。 1937年に同志社中学校に入学し、1942年に同志社大学文学部国文学科に進学しました。 1944年に学徒出陣し、1945年8月に復員しました。 1947年に同志社大学文学部国文学科を卒業し、1949年に東京大学大学院文学研究科国文学専攻修士課程に進学しました。 1952年に東京大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程に進学し、1955年に博士号を取得しました。 その後、1955年に同志社大学文学部国文学科の助手となり、1957年に講師、1960年に助教授、1965年に教授に昇進しました。 1986年に同志社大学を退職し、名誉教授の称号を授与されました。 井本農一は、国文学者として、源氏物語や枕草子などの古典文学を中心に研究を行い、多くの業績を残しました。 また、1970年から1974年まで、日本古典文学会会長を務めました。 井本農一は、2002年12月28日に死去しました。満82歳でした。
歴史上の人物

小西似春-江戸時代前期の俳人

-北村季吟のもとで学ぶ- 小西似春は、江戸時代前期に活躍した俳人です。北村季吟のもとで俳諧を学び、その才能を高く評価されました。 似春が季吟のもとで学んだ期間は、季吟が京都にいた1630年から1634年までの4年間です。似春は、季吟の門人の中でも特に優秀な一人であり、季吟から「似春は俳諧の才あり」と評されました。 似春の俳諧の特色は、洒脱でユーモアのある作風です。季吟の指導の下で、似春は俳諧の技法を習得し、独自の作風を確立していきました。 似春は、季吟の門人の中でも特に親しい友人でした。季吟は、似春のことを「わが子のように可愛がっていた」と言われています。似春もまた、季吟を敬愛しており、季吟の死後は、その遺志を継いで俳諧の普及に努めました。 似春は、1651年に52歳で亡くなりました。似春は、江戸時代前期の俳壇に大きな足跡を残した俳人として、今日でも高く評価されています。
文学分野の人

「丹羽以之」

市井に生きた俳人-丹羽以之 丹羽以之(1908-1992)は、昭和の俳人である。石川県金沢市に生まれ、石川県立商業学校を卒業後、1929年に上京し、森山白象に師事した。1930年に「馬酔木」に入会し、1941年に「鶴」を創刊し、主宰した。1955年に「鶴」を解散し、1956年に「鶴田川」を創刊し、主宰した。 以之は、戦前のハイカに、抒情性と叙情性を取り入れ、俳句を文芸として確立させた。戦後は、伝統的な俳句の美しさを尊重しながらも、新しい俳句の可能性を模索した。 以之の俳句は、日常の生活の中から題材をとらえ、それを瑞々しく、新鮮な言葉で表現した。彼の俳句は、読者に親しみやすく、共感を呼ぶものである。 以之は、俳人としてのみならず、詩人、評論家としても活躍した。また、俳句の普及のために、精力的に活動した。彼は、俳句を多くの人に愛されるよう、俳句の大会や講演会を開催し、また、俳句の雑誌や書籍を発行した。 以之は、1992年に84歳で亡くなった。彼の死は、俳句界に大きな損失となった。しかし、彼の俳句は、今でも多くの人に親しまれ、愛され続けている。 以下に、以之の代表的な俳句を挙げる。 * 「燕来るや山は河より出でをりぬ」 * 「春の海底の光やせりふの魚」 * 「野菊咲くや月は廃屋に落つるところ」 * 「冬木立や鶴の墜ちくる虚空かな」 * 「花曇り川は昼より青くなりぬ」
文学分野の人

俳人・下郷蝶羽

江戸時代前期-中期の俳人 俳人・下郷蝶羽 江戸時代前期から中期に活躍した俳人である下郷蝶羽は、1661年に江戸で生まれた。本名は森川蝶羽といい、俳諧を松尾芭蕉に師事した。蕉門十哲の一人とされ、蕉風が確立される過程で重要な役割を果たした。蝶羽は、蕉風の俳諧を江戸に広め、俳諧の普及に貢献した。また、蝶羽は、俳諧の理論にも優れており、蕉風の俳諧を体系づけた『蝶羽抄』を著した。蝶羽は、1738年に江戸で亡くなった。 蝶羽の俳諧は、蕉風の俳諧の特色を色濃く反映している。蝶羽の俳諧は、芭蕉が唱えた「さび」「しおり」「軽み」の三要素を備えており、蕉風の俳諧の典型ともいえる。蝶羽の俳諧は、自然の美しさや儚さを詠んだものが多く、芭蕉の俳諧と同じく、読者に余韻を残すような作品が多い。 蝶羽は、俳諧の普及と発展に貢献した俳人である。蝶羽の俳諧は、蕉風の俳諧の特色を色濃く反映しており、芭蕉の俳諧と同じく、読者に余韻を残すような作品が多い。蝶羽の俳諧は、江戸時代の人々に愛され、現代でも多くの人々に親しまれている。 蝶羽の代表的な句 * 芭蕉は指南の杖や冬木立 * 枯野を越えて聞く錫杖の音 * 露消ゆるや巖に置ける露の玉 * 木曾の秋や旅の空から鹿の声 * 初雪や心寂しき野分かな
文学分野の人

「俳諧寮蝙蝠」(⇒白鯉館卯雲(はくりかん-ぼううん)(2代))について

-俳諧寮蝙蝠について- 俳諧寮蝙蝠は、江戸時代初期に活躍した俳諧師。本名は不明。 俳諧寮蝙蝠は、初めは京に住み、後に江戸に下った。 江島其角の門人となり、俳諧を学び、その才能を高く評価された。 俳諧寮蝙蝠は、正徳3年(1713年)に俳諧寮を創設し、俳句の指導を行った。 また、俳諧に関する著書も残しており、その代表作に「俳諧寮蝙蝠集」がある。 俳諧寮蝙蝠は、享保2年(1717年)に亡くなった。 俳諧寮蝙蝠の俳句は、軽妙洒脱で、江戸庶民の生活や風俗を巧みに詠み込んだものが多い。 また、俳諧寮蝙蝠は、俳諧の理論にも通じており、その著書「俳諧寮蝙蝠集」は、俳諧の入門書として広く読まれた。 俳諧寮蝙蝠は、江戸俳諧の発展に大きく貢献した俳諧師の一人である。
文学分野の人

→ 土屋林紅(1680-1752)

土屋林紅の生涯 土屋林紅は、1680年(延宝8年)に江戸で生まれた。名は敬之、号は林紅。土屋家は、江戸時代初期に会津藩主であった保科正之の重臣であったが、林紅の父である土屋安澄の代になって江戸に下り、旗本となった。 林紅は、幼い頃から学問を好み、15歳の時に林家に入門した。林家は、江戸時代の儒学を代表する家柄であり、林紅はここで儒学を学び、頭角を現した。1709年(宝永6年)には、林家の家督を継ぎ、林大学頭となった。 林大学頭となった林紅は、儒学の振興に努めた。1716年(享保元年)には、昌平坂学問所を創設し、儒学の教育を拡充した。また、林紅は、儒学の研究にも熱心であり、多くの著書を残した。その中でも、代表的な著書である『大学衍義』は、儒学の入門書として広く読まれ、江戸時代の儒学に大きな影響を与えた。 林紅は、1752年(宝暦2年)に73歳で亡くなった。林紅の死後、林家は衰退していったが、林紅の学問は後世に受け継がれ、江戸時代の儒学の発展に大きく貢献した。
文学分野の人

– 相楽等躬

-相楽等躬の生涯- 相楽等躬は、江戸時代中期に活躍した俳人、小説家です。 1695年(元禄8年)、京都の伏見に生まれました。本名は永島信房。幼少期から和歌や俳諧を学び、10代の頃には「花摘」という俳諧集を出版して好評を博しています。 20歳の頃、江戸に出て芭蕉の門下に入門。芭蕉の死後、去来や丈艸らとともに蕉風の俳諧を継承しました。 1728年(享保13年)、34歳のときには俳諧集『毛吹草』を出版、ベストセラーとなり、日本全国にその名が知られるようになりました。 等躬は俳諧だけでなく、小説家としても知られています。1731年(享保16年)に出版した『好色一代男』は、日本初の春本(ポルノ小説)として有名です。 等躬は1750年(寛延3年)、56歳で生涯を閉じました。 -相楽等躬の俳諧- 相楽等躬の俳諧は、芭蕉の蕉風を継承しながらも、独自の境地を切り開いたものとして評価されています。 等躬の俳諧の特徴の一つは、自然の美しさをありのままに詠んだ写生的な句が多いことです。また、ユーモアや風刺を効かせた句も多く、庶民の生活を生き生きと描いた句も数多く残しています。 等躬の俳諧は、江戸時代中期を代表する俳人の一人として高く評価されており、現在でも多くの人々に愛されています。 -相楽等躬の小説- 相楽等躬は、俳諧だけでなく、小説家としても知られています。その代表作が1731年(享保16年)に出版した『好色一代男』です。 『好色一代男』は、主人公の世之介が遊女の八百屋お七と恋に落ち、心中未遂を起こして流罪となるまでを描いた艶笑小説です。 『好色一代男』は、当時の社会を風刺した内容や、遊女の人間性を描いたリアルな描写などが高く評価され、日本初の春本(ポルノ小説)としてベストセラーとなりました。 『好色一代男』は、現在でも多くの研究者や小説家に読まれ、江戸時代の風俗や文化を知る上での貴重な資料となっています。
文学分野の人

「坪井杜国」

-「坪井杜国」- -尾張(おわり)名古屋の米穀商で松尾芭蕉の弟子- -経歴- 坪井杜国は、江戸時代初期の尾張国名古屋の米穀商で、松尾芭蕉の弟子です。生家は尾張国知多郡常滑村(現在の愛知県常滑市)で、米穀商を営んでいました。杜国は、1612年に生まれ、1634年に芭蕉の弟子となりました。芭蕉は、杜国に「杜国」の名前を与え、指導しました。杜国は、芭蕉の門下で最も優秀な弟子の一人とされ、江戸時代の俳諧を代表する人物です。 -俳諧- 杜国は、芭蕉の指導のもと、俳諧を学びました。芭蕉は、杜国に「芭蕉の心を汲むように」と教え、杜国は、芭蕉の教えを忠実に実践しました。杜国の俳諧は、蕉風俳諧と呼ばれ、蕉風俳諧の代表的な作品として「奥の細道」「芭蕉翁蛇杖」「杜国翁菊杖」があります。杜国の俳諧は、自然を詠んだものが多く、芭蕉の俳諧と同様に、簡潔で、無駄がなく、奥深い味わいがあります。 -影響- 杜国は、蕉風俳諧の発展に大きく貢献しました。杜国の弟子には、其角、嵐雪、鳥酔、炭太祇など、江戸時代の俳諧を代表する人物が多く、杜国の俳諧は、江戸時代の俳諧に大きな影響を与えました。杜国の俳諧は、現代でも読み継がれており、多くの俳人に影響を与えています。 -代表作- * 奥の細道 * 芭蕉翁蛇杖 * 杜国翁菊杖 * 杜国集 * 杜国句集 * 杜国俳諧集
文学分野の人

服部土芳 – 江戸時代前期-中期の俳人

服部土芳 - 江戸時代前期-中期の俳人
文学分野の人

秋山文鳥 – 江戸時代中期の俳人

-秋山文鳥の生涯と人柄- 秋山文鳥は、江戸時代中期に活躍した俳人です。1728年(享保13年)に江戸に生まれ、1801年(享和元年)に74歳で没しました。本名は秋山吉兵衛といい、文鳥は号です。 文鳥は、10代で俳諧を学び、20代で俳諧師として独立しました。その後、江戸を中心に各地を巡り、多くの俳人を輩出しました。文鳥の俳風は、写生を重んじる蕉風俳諧を基本としながらも、独自のユーモアや洒脱さを加えたもので、多くの読者に親しまれました。 文鳥はまた、優れた俳論家でもありました。1793年(寛政5年)に刊行した『俳諧問答』は、俳諧の入門書として広く読まれ、俳諧の普及に大きく貢献しました。 文鳥は、気さくで温厚な人柄だったと伝えられています。多くの弟子を育て、俳諧の普及に尽力した功績は大きく、江戸時代中期を代表する俳人として知られています。 文鳥の代表的な句には、以下のものがあります。 * 秋深き隣は何をする人ぞ * 寒菊や軒端も雪に埋もれけり * 蚊遣火に影うつす夜の月明かり これらの句は、いずれも文鳥の写生的でユーモアのある俳風をよく表しています。 文鳥は、江戸時代中期を代表する俳人として、現在も多くの読者に親しまれています。その俳句は、四季の美しさや人生の機微を巧みに詠み込んだもので、私たちに多くの感動を与えてくれます。
文学分野の人

山岸半残:江戸時代前期-中期の俳人

-山岸半残と松尾芭蕉- 山岸半残は、江戸時代前期から中期にかけて活躍した俳人です。元禄4年(1691年)に松尾芭蕉の弟子となり、芭蕉の死後もその俳風を受け継いで活躍しました。 半残は、芭蕉よりも12歳年上で、芭蕉が江戸に下る前に京都で俳諧を学んでいたとされています。芭蕉が江戸に下った後も、半残は京都で俳諧を続けていましたが、元禄4年(1691年)に芭蕉の弟子となって江戸に下りました。 半残は、芭蕉の死後もその俳風を受け継いで活躍しました。芭蕉の死後、芭蕉の弟子たちは芭蕉の俳風を継承するか、それとも新しい俳風を模索するかで意見が分かれました。半残は、芭蕉の俳風を継承する立場をとり、芭蕉の死後も芭蕉の俳風を忠実に守りました。 半残は、芭蕉の俳風を継承したことで、芭蕉の俳風を後世に伝えることに貢献しました。半残の俳風は、芭蕉の俳風を忠実に継承したもので、芭蕉の俳風の特色である「さび」「しおり」「軽み」を備えています。 半残は、芭蕉の死後も芭蕉の俳風を受け継いで活躍した俳人であり、芭蕉の俳風を後世に伝えることに貢献しました。
文学分野の人

佐々木松後 江戸時代中期の俳人

佐々木松後 江戸時代中期の俳人 佐々木松後は、江戸時代中期の俳人です。1644年に近江国滋賀郡堅田村(現・滋賀県大津市)に生まれ、1711年に亡くなりました。 佐々木松後の生涯 佐々木松後は、近江国滋賀郡堅田村(現・滋賀県大津市)に生まれました。父は佐々木四郎左衛門、母は田中氏です。松後は幼い頃から俳諧に興味を持ち、17歳の時に江戸に出て、俳諧師の松尾芭蕉に弟子入りしました。 松後は、芭蕉の指導のもとで俳諧の技を学び、芭蕉の死後はその跡を継いで蕉門のリーダーとなりました。松後は、俳諧を庶民の文学として広め、多くの弟子を育てました。松後は、また、多くの俳諧論を著し、俳諧理論の確立に貢献しました。 松後は、78歳で江戸で亡くなりました。松後は、蕉門のリーダーとして俳諧の発展に大きく貢献した俳人です。松後の俳句は、庶民の生活や自然の美しさなどを詠んだものが多く、今日でも多くの人々に愛されています。 松後は、また、多くの俳諧論を著しました。松後の俳諧論は、俳諧の理論を体系化したもので、今日でも俳諧を学ぶ人々に必読の書として親しまれています。松後は、俳諧の発展に大きく貢献した俳人として、今日でも多くの人々に敬愛されています。
文学分野の人

西岸寺任口とは?その生涯と俳句

-西岸寺任口の生涯- 西岸寺任口は、江戸時代前期の俳人で、元禄時代を代表する俳人です。延宝4年(1676年)、大坂に油屋を営む家に生まれ、幼名を善助と名付けられました。12歳の時に俳諧に目覚め、その後、大坂で活躍する俳人である越智越人と知り合い、その指導を受けます。19歳の時に上洛し、松尾芭蕉に師事し、蕉門の有力な弟子となります。芭蕉の死後、任口は蕉門の中心となり、元禄5年(1692年)には、芭蕉の遺言によって『芭蕉七部集』を刊行します。 元禄16年(1703年)、任口は久留米藩主有馬頼利の招きを受けて久留米藩士となり、久留米で没するまで藩主の側近として仕えました。任口は俳諧に精通しており、蕉門の俳風を忠実に守りつつも、独自の境地を開拓しました。その俳句は、ユーモアや風刺に富んだ作風であり、庶民の暮らしや風俗を詠んだ作品が多いのが特徴です。 任口は、元禄14年(1701年)に『西岸寺集』を刊行し、これは蕉門の俳諧を代表する句集の一つとされています。また、任口は『芭蕉七部集』の編纂者としても知られており、蕉門の俳諧の普及に大きく貢献しました。任口は、元禄19年(1706年)に42歳の若さで亡くなりましたが、その俳句は今もなお多くの人々に愛されています。
美術分野の人

宮本重良 – 昭和時代を代表する彫刻家

-宮本重良の生涯と経歴- 宮本重良は、1910年(明治43年)10月25日に、京都市下京区に生まれました。父親は、彫刻家の宮本秀夫で、重良は幼い頃から彫刻に触れて育ちました。 1926年(大正15年)に、京都市立美術工芸学校彫塑科に入学し、彫刻を学び始めます。その後、1930年(昭和5年)に東京美術学校彫刻科に入学し、1935年(昭和10年)に卒業しました。 卒業後は、彫刻家として活動を始め、1936年(昭和11年)に、大阪市の帝塚山学院に設置された「聖母マリア像」を制作しました。この作品は、宮本重良の代表作の一つとして知られています。 その後、1937年(昭和12年)に、日中戦争に従軍し、1945年(昭和20年)に復員しました。復員後は、彫刻家として活動を再開し、1946年(昭和21年)に、日本彫刻会会員に推挙されました。 1950年(昭和25年)には、毎日新聞社主催の「毎日美術賞」を受賞し、1951年(昭和26年)には、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエを受章しました。 1960年(昭和35年)には、日本芸術院会員に選出され、1968年(昭和43年)には、文化功労者に選ばれました。 1970年(昭和45年)には、京都市に「宮本重良彫刻美術館」が開館し、宮本重良の作品が展示されました。 宮本重良は、1998年(平成10年)12月26日に、京都市で死去しました。享年88歳でした。 宮本重良は、昭和時代を代表する彫刻家で、数多くの作品を残しました。その作品は、写実的で美しい作風で知られており、多くの人々に親しまれています。
文学分野の人

多賀谷巌翁-江戸時代の俳人

多賀谷巌翁の生涯 多賀谷巌翁は、江戸時代の俳人である。本名は成峯、号は巌翁。寛文4年(1664年)、越後国長岡(現在の新潟県長岡市)に生まれる。父は多賀谷成重。幼少の頃から和歌を学び、18歳の時に江戸に出て俳諧を学ぶ。俳諧師としては、芭蕉に師事し、その門下で活躍した。 巌翁の俳諧は、芭蕉の「不易流行」の精神を受け継ぎ、伝統的な俳諧を重んじる一方で、新しい表現にも積極的だった。また、俳諧だけでなく、漢詩や和歌も得意とし、文人としても名を馳せた。 享保5年(1720年)、57歳で死去。江戸の深川に葬られた。 巌翁は、江戸時代の俳諧を代表する俳人の一人であり、その作品は現在でも多くの人々に愛されている。
文学分野の人

竹内十丈 – 江戸時代前期-中期の俳人

-竹内十丈の生涯と俳諧- 竹内十丈は、江戸時代前期から中期にかけて活躍した俳人です。生没年は不詳ですが、1649年(慶安2年)頃に江戸で生まれたと考えられています。本名は竹内勘左衛門で、十丈は俳号です。 十丈は、幼い頃から俳諧に興味を持ち、17歳で芭蕉に入門しました。芭蕉の教えを受け、十丈は俳諧の腕を磨きます。1680年(延宝8年)には、芭蕉の勧めで江戸を離れて大坂に移住します。大坂では、俳諧の会を主催したり、俳諧の指導をしたりするなど、俳諧の普及に努めました。 1694年(元禄7年)には、芭蕉が亡くなります。十丈は、芭蕉の死を悼み、芭蕉の遺志を継いで俳諧の道に専念します。1702年(元禄15年)には、芭蕉の没後8年忌を記念して、俳諧の会の「元禄八重椿」を開催しました。 十丈は、俳諧の理論や技法を研究し、多くの俳諧を創作しました。十丈の俳諧は、芭蕉の俳諧を継承しつつも、独自の境地を切り開いています。十丈の俳諧は、江戸時代中期に大きな影響を与え、多くの俳人を輩出しました。 十丈は、1725年(享保10年)頃に死去したと考えられています。十丈の死後、その俳諧は弟子たちによって伝えられ、江戸時代後期には、十丈の俳諧が復興されます。十丈の俳諧は、現代でも高く評価されており、多くの俳人に影響を与え続けています。
歴史上の人物

– 「鳳朗」 (⇒ 田川鳳朗)

- 田川鳳朗の経歴とプロフィール 田川鳳朗は、日本の脚本家・演出家・映画監督・俳優。東京都出身。父は脚本家の 田川久三 。 -# 経歴 - 1961年、東京都に生まれる。 - 1980年、早稲田大学第一文学部演劇専修卒業。 - 1981年、劇団「自由劇場」に入団。 - 1983年、劇団「遊魚会」を旗揚げ。 - 1985年、舞台「僕たちの生ける意味」で脚本・演出を務める。 - 1987年、映画「僕たちの生ける意味」で監督デビュー。 - 1989年、映画「傷だらけの天使」で監督を務める。 - 1991年、映画「スクラップ(ハカイ者)」で監督を務める。 - 1993年、映画「シコふんじゃった。」で監督を務める。 - 1995年、映画「王手飛車取り」で監督を務める。 - 1997年、映画「踊る大捜査線」で監督を務める。 - 1999年、映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」で監督を務める。 - 2001年、映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!」で監督を務める。 - 2003年、映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 4 湾岸署婦警の殺人」で監督を務める。 - 2005年、映画「 ALWAYS 三丁目の夕日」で監督を務める。 - 2007年、映画「 ALWAYS 続・三丁目の夕日」で監督を務める。 - 2009年、映画「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」で監督を務める。 - 2011年、映画「 ALWAYS三丁目の夕日'64」で監督を務める。 - 2013年、映画「真夏の方程式」で監督を務める。 - 2015年、映画「ジャッジ!」で監督を務める。 - 2017年、映画「 三度目の殺人」で監督を務める。 - 2019年、映画「藁の楯」で監督を務める。 - 2021年、映画「マスカレード・ナイト」で監督を務める。 -# プロフィール - 生年月日1961年1月19日 - 出身地東京都 - 血液型O型 - 身長170cm - 体重65kg - 学歴早稲田大学第一文学部演劇専修卒業 - 職業脚本家、演出家、映画監督、俳優 - 所属事務所ケイダッシュステージ
文学分野の人

松倉嵐蘭 – 江戸時代前期の俳人

松倉嵐蘭の生涯 松倉嵐蘭は、江戸時代前期の俳人であり、江戸俳諧の祖の一人です。1614年(慶長19年)に江戸に生まれ、本名は松倉勝重。通称は右衛門。俳諧師としては、その独特の作風で知られ、芭蕉や其角など、後の俳壇に大きな影響を与えたと言われています。 嵐蘭は、若い頃から俳諧に親しみ、1636年(寛永13年)には、松尾芭蕉の師匠である北村季吟に入門。その後、芭蕉や其角らとともに江戸俳壇の中心として活躍しました。 嵐蘭の俳諧は、それまでの俳諧の伝統的な様式にとらわれない、自由で奔放な作風であることが特徴です。その作風は、芭蕉の「さび」の美意識にも通じるものがあり、後の江戸俳壇に大きな影響を与えました。 嵐蘭は、1659年(万治2年)に46歳で亡くなりましたが、その死後もその作風は受け継がれ、芭蕉や其角など、後の俳壇に大きな影響を与えました。嵐蘭は、江戸俳諧の祖の一人として、俳句の歴史に大きな足跡を残した人物と言えるでしょう。
文学分野の人

窪田松琵 – 江戸時代中期の俳人

-松尾芭蕉と水田正秀に師事- 窪田松琵は、貞享4年(1687年)に美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)に生まれた。幼名は竹三郎。松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に大垣を訪れた際に、武芸の修行のために同行した。松尾芭蕉は、その後の旅の途中で松琵を弟子として迎え、俳諧を教えた。 松琵は、元禄4年(1691年)に芭蕉が亡くなった後、蕉門の俳人として活躍した。元禄9年(1696年)に『猿蓑』を刊行し、芭蕉の俳諧を継承した俳人として高く評価された。元禄11年(1698年)には、芭蕉の遺志を継いで、奥の細道を行脚した。 松琵は、正徳6年(1716年)に江戸に滞在していた際に、水田正秀と出会った。正秀は、芭蕉の弟子であるとともに、俳諧の理論家としても知られていた。松琵は、正秀から俳諧の理論を学び、俳諧への理解を深めた。 松琵は、享保5年(1720年)に京都で没した。享年34歳。松琵の俳諧は、芭蕉の俳諧を継承しながらも、独自の境地を開いたものとして高く評価されている。
文学分野の人

「岡本苔蘇」(?-1709 江戸時代前期の俳人)

-「岡本苔蘇」(?-1709 江戸時代前期の俳人)- -伊賀蕉門で重きをなした俳人- 岡本苔蘇は、江戸時代前期の俳人で、伊賀蕉門で重きをなしました。生没年は不詳ですが、寛永4年(1627年)頃に生誕、宝永6年(1709年)に物故したと伝えられています。本名は岡本章時、法号は知足院伝香、俳号は苔蘇、別号に岡本支考、芝森、雲門、南翁などがあります。 苔蘇は、近江国蒲生郡竜王村(現在の滋賀県蒲生郡竜王町)に生まれました。幼少期は、京都で暮らしましたが、後に伊賀国に転居し、伊賀上野藩の儒学者である小西氏に師事して儒学を学びました。 20歳の頃、俳諧に出会い、蕉門に入門しました。蕉門では、すぐに頭角を現し、貞享4年(1687年)には、芭蕉の命を受けて、伊賀国の俳諧の指導者として派遣されました。苔蘇は、伊賀国で俳諧を広め、多くの弟子を育て、伊賀蕉門の基礎を築きました。 苔蘇は、蕉門の理論を忠実に守り、蕉風を継承した作品を多く残しました。蕉門四天王の一人とされ、蕉風の正統継承者の一人と目されています。また、芭蕉の死後、蕉門をまとめる役割を担い、蕉門の分裂を防ぎました。 苔蘇は、多くの俳諧集を出版しました。代表作には、『菟裘』『苔蘇全集』『蕉門十哲』『蕉門発句集』などがあります。これらの俳諧集は、蕉風を学ぶ上で重要な資料として現在も高く評価されています。 苔蘇は、芭蕉の死後、蕉門の重鎮として、江戸を中心に俳壇で活躍しました。元禄12年(1699年)には、江戸に俳諧塾を開き、多くの弟子を育てました。松尾芭蕉の死後、蕉風を継承し、蕉門の第一人者として活躍しました。 苔蘇は、宝永6年(1709年)に江戸で亡くなりました。享年83。墓所は、東京都台東区東上野の寛永寺にあります。
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– 広瀬惟然

-広瀬惟然の生涯と経歴- 広瀬惟然(1853-1911)は、明治時代の日本画家・実業家である。 1853年、肥後熊本藩士の広瀬謙三郎の長男として熊本市に生まれる。1871年、上京し、狩野探幽、山本梅逸に師事して日本画を学ぶ。1877年に帰郷し、熊本で画塾を開く。1881年に再び上京し、東京美術学校教授に就任。1884年にフランスに留学し、印象派の技法を学ぶ。帰国後、1887年に東京美術学校校長に就任。1890年には帝国美術院会員、1893年には文部大臣に就任。1900年に貴族院議員に勅選され、1901年には宮内大臣に就任。1906年に東京美術学校校長を辞任し、1911年に死去した。 広瀬惟然は、明治時代の日本画壇を代表する画家の一人である。狩野派の伝統的な技法を基礎とし、西洋画の技法も取り入れて、斬新な画風を確立した。また、実業家としても活躍し、東京美術学校や帝国美術院の設立に尽力した。 広瀬惟然の代表作には、東京国立博物館所蔵の「雪中松林図屏風」、熊本県立美術館所蔵の「桜花図屏風」、 MOA美術館所蔵の「梅の図屏風」などがある。