歴史上の偉人

阿古耶とは?

- 阿古耶伝説の起源 阿古耶伝説は、長い歴史を持つ伝承であり、その起源は定かではありません。しかし、いくつかの説があります。 1. アイヌ民族の伝承説 阿古耶伝説は、アイヌ民族の伝承が元になっているという説があります。アイヌ民族は、北海道に先住する民族であり、古くから独自の文化と信仰を持っています。アイヌ民族の伝承には、多くの神や精霊が登場しますが、阿古耶はその一つと考えられています。 2. 中国大陸からの伝来説 阿古耶伝説は、中国大陸から日本に伝来したという説があります。中国大陸には、古くから人魚伝説があります。人魚は、魚の胴体と人間の頭を持つ生き物であり、阿古耶と似ています。阿古耶伝説は、中国大陸の人魚伝説が日本に伝わり、変化したものと考えられています。 3. 西洋からの伝来説 阿古耶伝説は、西洋から日本に伝来したという説もあります。西洋には、古くからマーメイド伝説があります。マーメイドは、魚の胴体と人間の頭を持つ生き物であり、阿古耶と似ています。阿古耶伝説は、西洋のマーメイド伝説が日本に伝わり、変化したものと考えられています。 以上の説以外にも、阿古耶伝説の起源についてはさまざまな説があります。阿古耶伝説は、長い歴史を持つ伝承であり、その起源は定かではありませんが、多くの説が唱えられています。
芸術家

浦田正夫 – 昭和-平成時代の日本画家

浦田正夫の生涯 浦田正夫は、1922年(大正11年)7月14日に愛知県名古屋市に生まれました。幼い頃から絵を描くことが好きで、1942年(昭和17年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学します。1945年(昭和20年)に卒業後、1947年(昭和22年)に日展に初入選を果たしました。1954年(昭和29年)には、日展で特選を受賞し、1956年(昭和31年)には日展で審査員となりました。 1961年(昭和36年)には、第7回サンパウロ・ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。1962年(昭和37年)には、第2回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選しました。1963年(昭和38年)には、第3回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。1964年(昭和39年)には、第4回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。1965年(昭和40年)には、第5回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。 1966年(昭和41年)には、第6回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。1967年(昭和42年)には、第7回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。1968年(昭和43年)には、第8回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。1969年(昭和44年)には、第9回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。1970年(昭和45年)には、第10回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。 1971年(昭和46年)には、第11回東京国際版画ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。 1972年(昭和47年)、50歳の時に文化庁長官賞を受賞し、1974年(昭和49年)には日展で文部大臣賞を受賞しました。1978年(昭和53年)には、第16回サンパウロ・ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。1979年(昭和54年)には、愛知県美術館で個展を開催しました。1980年(昭和55年)には、東京国立近代美術館で回顧展を開催しました。 1981年(昭和56年)には、勲四等旭日小綬章を受章しました。1982年(昭和57年)には、東京藝術大学教授に就任し、1984年(昭和59年)には日本美術院理事長に就任しました。1985年(昭和60年)には、日展で内閣総理大臣賞を受賞しました。1986年(昭和61年)には、第18回サンパウロ・ビエンナーレに出品し、入選を果たしました。1987年(昭和62年)には、愛知県美術館で回顧展を開催しました。1988年(昭和63年)には、東京国立近代美術館で回顧展を開催しました。 1989年(平成元年)には、勲三等旭日中綬章を受章し、1990年(平成2年)には日本芸術院会員に選出されました。1991年(平成3年)には、東京芸術大学名誉教授となりました。1992年(平成4年)には、愛知県美術館で回顧展を開催しました。1993年(平成5年)には、東京国立近代美術館で回顧展を開催しました。 1994年(平成6年)に72歳で亡くなりました。
芸術家

山中篤一:一刀彫の巨匠

山中篤一の生涯と作品 山中篤一は、1883年2月11日に石川県金沢市で生まれました。幼い頃から彫刻に興味を持ち、14歳の時に上京して彫刻家である安藤照彦に弟子入りしました。 安藤照彦のもとで彫刻の基礎を学んだ後、1901年に独立して彫刻家として活動を始めました。当初は木彫を中心に制作していましたが、後に一刀彫に転向しました。 一刀彫とは、木を直接彫り上げていく彫刻技法で、非常に高度な技術を要します。山中篤一は、一刀彫で数多くの作品を制作し、その卓越した技術は国内外で高く評価されました。 山中篤一の作品は、その力強さと繊細さを兼ね備えた作風で知られています。特に、人物彫刻を得意とし、その作品はまるで生きているかのようにリアルに表現されています。 山中篤一は、1951年にフランスのパリで開催された第2回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表として参加し、その作品が高く評価されました。また、1954年には文化勲章を受章しています。 山中篤一は、1964年7月2日に81歳で亡くなりました。しかし、その作品は現在も国内外の美術館に収蔵されており、多くの人々に愛され続けています。 山中篤一の代表作としては、以下の作品が挙げられます。 * 「力道山像」 * 「聖徳太子像」 * 「釈迦涅槃像」 * 「観音菩薩像」 * 「弘法大師像」 これらの作品は、いずれも山中篤一の高い技術と芸術性を示す秀作であり、日本彫刻史に残る名作として知られています。
芸術家

山路商-大正から昭和初期の洋画家

- 山路商の生涯と作品 山路商は、1893年(明治26年)に兵庫県加古郡社町(現・加古川市)に生まれました。 幼い頃から絵を描くことが好きで、1912年(明治45年)に東京美術学校西洋画科に入学しました。 在学中に二科展に入選し、1919年(大正8年)に東京美術学校を卒業しました。 卒業後は二科展や帝展に出品し、1923年(大正12年)に関東大震災で被災した東京を題材にした作品「関東大震災東京風景」で二科展に入選しました。 1924年(大正13年)にフランスに留学し、1928年(昭和3年)に帰国しました。 帰国後は二科展や帝展に出品し、1930年(昭和5年)に二科展で特選を受賞しました。 1937年(昭和12年)に二科展を退会し、独立美術協会を設立しました。 独立美術協会は、二科展や帝展とは異なる自由な芸術を目指した美術団体で、山路商は独立美術協会の会長を務めました。 山路商は、1954年(昭和29年)に脳溢血で倒れ、1956年(昭和31年)に63歳で死去しました。 山路商の作品は、風景画や静物画、人物画などがあります。 風景画は、主に故郷の兵庫県加古川市や、フランス留学中に滞在したパリを題材としており、写実的な画風で描かれています。 静物画は、花や果物などを題材としており、色彩豊かな画風で描かれています。 人物画は、主に家族や友人などを題材としており、温かみのある画風で描かれています。 山路商は、大正から昭和初期にかけて活躍した洋画家であり、二科展や独立美術協会の中心的存在でした。 写実的な画風で描かれた風景画や静物画、人物画は、多くの人に愛されています。
歴史上の偉人

林政満 – 江戸時代中期の商人

-林政満の功績- 林政満は、江戸時代中期の商人であり、大阪で活躍しました。 彼は、米や酒、綿花などの貿易で成功を収め、巨万の富を築きました。 また、彼は、豪商として知られるようになり、数多くの公共事業に寄付をしました。 その中でも、最も有名なのが、大阪の天満橋の架橋です。 天満橋は、大阪の堂島川に架かる橋であり、東西の交通の要衝として重要な役割を果たしていました。 しかし、当時は、木製の橋であり、洪水などでしばしば流失していました。 そこで、林政満は、石製の橋を架けることを計画しました。 石製の橋は、洪水にも耐えられるため、流失する心配がありません。 しかし、石製の橋を架けるには、莫大な費用がかかります。 そこで、林政満は、自らの財産を投じて、石製の橋を架けました。 天満橋は、1684年に完成し、現在でも大阪の重要な交通路として利用されています。 林政満は、豪商として成功を収めただけでなく、公共事業にも貢献した偉大な人物です。
芸術家

新道繁-松を愛した洋画家

-福井県出身の洋画家- 新道繁は、1906年(明治39年)に福井県敦賀市に生まれ、1996年(平成8年)に同地で亡くなった洋画家です。 新道繁は、1922年(大正11年)に上京し、東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学しました。在学中は、藤島武二や岡田三郎助に師事し、写実的な絵画を学びました。 新道繁は、1926年(昭和元年)に東京美術学校を卒業後、すぐに渡欧しました。ヨーロッパでは、フランス、イタリア、スペインなどを巡り、西洋の近代絵画を学びました。 新道繁は、1930年(昭和5年)に帰国後、東京を中心に活動を始めました。1931年(昭和6年)には、帝展(帝国美術展覧会)に入選し、1934年(昭和9年)には、同展で特選を受賞しました。 新道繁は、1937年(昭和12年)に、日本美術院の会員に推挙されました。日本美術院は、横山大観や菱田春草らによって創設された日本画の団体であり、新道繁は洋画家でありながら、日本画の団体にも所属していました。 新道繁は、1941年(昭和16年)に、太平洋戦争に召集され、中国に出征しました。戦争中は、軍の嘱託画家として従軍し、戦場での様子を描いた絵画を制作しました。 新道繁は、1945年(昭和20年)に、終戦後すぐに帰国しました。帰国後は、東京を中心に活動を始め、1947年(昭和22年)には、第1回日展に出品し、特選を受賞しました。 新道繁は、1949年(昭和24年)に、東京藝術大学の教授に就任しました。東京藝術大学では、後進の指導にあたり、多くの洋画家を育てました。 新道繁は、1996年(平成8年)に、90歳で亡くなりました。新道繁は、洋画家として、写実的な絵画を描き続け、日本美術院の会員に推挙され、東京藝術大学の教授にも就任しました。
歴史上の偉人

堀善蔵 – 江戸時代中期の植林家

-人名辞典 - 堀善蔵- -堀 善蔵-(ほり ぜんぞう、1740年2月27日(元文5年2月18日) - 1809年6月12日(文化6年5月11日))は、江戸時代中期の植林家。名は国愛、通称は善蔵。植林家としてその名を馳せ、その功績を讃えて正五位勲六等に叙せられた。 -生涯- 堀善蔵は、江戸時代中期の1740年2月27日(元文5年2月18日)に、下野国足利郡(現在の栃木県足利市)に生まれた。幼い頃から植林に興味を持ち、独学で植林技術を習得した。 1764年(明和元年)、25歳の時に赤城山に植林を開始した。赤城山は、当時は禿山となっており、洪水や土砂崩れが多発していた。堀善蔵は、地元の協力者と共に、赤城山に約100万本もの木を植林した。 堀善蔵の植林活動は、やがて幕府の知るところとなり、1775年(安永4年)には、幕府から植林奨励の命を受けた。堀善蔵は、この命を受けて、全国各地を巡り、植林を指導した。 堀善蔵の植林活動は、洪水や土砂崩れを防ぐとともに、木材の供給にも貢献した。堀善蔵は、その功績を讃えて、1804年(文化元年)に正五位勲六等に叙せられた。 堀善蔵は、1809年6月12日(文化6年5月11日)に69歳で亡くなった。堀善蔵の植林活動は、後世にも受け継がれ、日本の森林の保全に貢献している。 -功績- 堀善蔵の植林活動は、洪水や土砂崩れを防ぐとともに、木材の供給にも貢献した。堀善蔵は、その功績を讃えて、1804年(文化元年)に正五位勲六等に叙せられた。 堀善蔵の植林活動は、後世にも受け継がれ、日本の森林の保全に貢献している。
作家

「安田青風」その人生と作品

-安田青風ってどんな人?- 安田青風は、1884年(明治17年)に福岡県に生まれた俳人です。本名は安田徳太郎。若い頃から俳句を愛し、1903年(明治36年)に「ホトトギス」に入会。高浜虚子に師事しました。1911年(明治44年)に「ホトトギス」を脱退し、翌年に「層雲」を創刊しました。 青風は、写生を重視した俳句を詠みました。写生とは、自然や生活をありのままに描写することです。青風は、俳句は「写生文」であるべきだと主張しました。また、青風は、俳句は「情趣」を表現するものであるべきだと考えました。情趣とは、物事の奥にある味わい深い趣のことです。青風は、俳句は情趣を表現することで、読者に感動を与えることができるものであると信じていました。 青風の俳句は、写生と情趣を兼ね備えた、独創的なものでした。青風の俳句は、多くの読者に支持され、青風は一大俳壇を形成しました。青風は、1959年(昭和34年)に75歳で亡くなりましたが、その作品は現在でも多くの人々に愛されています。 青風の代表的な作品には、以下のようなものがあります。 * 「青嵐や 石を噛む虫の 舌のこゑ」 * 「夏もはや やがて終ると 来し燕」 * 「秋風や 馬上に畠を 眺むる人」 * 「枯野ゆく 心細さに 雨の月」 * 「初恋や 隣にあるは 独り寝」 これらの作品は、いずれも写生と情趣を兼ね備えた、青風ならではの俳句です。青風の俳句は、読者に感動を与え、読者の心を揺さぶります。
歴史上の偉人

「お不宇の方」

-「お不宇の方」- -お不宇の方の生涯- お不宇の方は、戦国時代の女性です。美濃国の大名である斎藤道三の娘で、織田信長の正室でした。 1536年に斎藤道三と正室である小見の方の間に生まれました。幼名は「帰蝶(きちょう)」です。1552年に織田信長の元へ嫁ぎ、信長の正室となります。 信長との間には、信忠、信雄、徳姫の3人の子供が生まれました。信長とは仲睦まじく、信長の側室である濃姫との関係に悩まされることもありましたが、信長は帰蝶を第一の妻として大切にしていました。 1582年、本能寺の変で信長が自害すると、帰蝶は岐阜城に幽閉されます。信長の後継者となった信忠も山崎の戦いで敗れて自害し、徳姫も嫡男である三法師とともに殺害されました。 信長亡き後、帰蝶は出家して「お不宇の方」と名乗りました。美濃国に隠棲して、信長の菩提を弔いながら余生を過ごしました。1612年に死去しました。 お不宇の方は、戦国時代の女性としては珍しく、教養が高く、和歌や書に秀でていました。また、信長を支え、信長の死後もその菩提を弔い続けたことから、貞節な女性として称えられています。
芸術家

快心 – 戦国時代の画家

-快心 - 戦国時代の画家- -快心の生涯と作品- 快心(かいしん)は、戦国時代後期の画家である。室町時代の画家・狩野正信の弟子であり、狩野派の画風を受け継いだ。快心は、狩野派の画風をさらに発展させ、独自の画風を確立した。彼の作品は、山水画、花鳥画、人物画など、幅広いジャンルにわたる。 快心は、1534年に京都で生まれた。14歳で狩野正信に入門し、狩野派の画法を学んだ。その後、快心は京都や奈良、大阪などの各寺社で障壁画を描いた。快心の作品は、その優れた画力と華やかな色彩で知られている。 快心の代表作としては、京都・妙心寺の「悟りの窓」の障壁画や、大阪・四天王寺の「四天王寺縁起絵巻」などが挙げられる。「悟りの窓」の障壁画は、快心の作風を代表する作品であり、金碧障壁画の最高傑作の一つとされている。「四天王寺縁起絵巻」は、四天王寺の創建から鎌倉時代までの歴史を絵巻物にしたもので、快心の画力の高さを見ることができる。 快心は、1590年に56歳で没した。彼の死後、狩野派の画風は、息子の狩野孝信や孫の狩野探幽によってさらに発展した。快心は、狩野派の画風の確立に大きく貢献した画家であり、その作品は現在でも多くの人々に愛されている。
歴史上の偉人

「芳春院(2)」

小見出し 大徳寺内に芳春院を建てる 徳川の恩で栄華を極めた芳春院は、豊臣家滅亡ののちに再び大徳寺内に芳春院を建立した。 芳春院は、豊臣秀吉の側室で、淀殿の母として知られる。秀吉の死後、伏見城で暮らしていたが、慶長20年(1615年)の大坂冬の陣で豊臣氏が滅亡すると、大徳寺に身を寄せた。 芳春院は、大徳寺に「芳春院」という塔頭(たっちゅう)を建立することを決意し、資金援助を募った。芳春院の建立には、徳川家康や秀忠、家光が協力し、慶長21年(1616年)に芳春院は完成した。 芳春院は、木造平屋建て、瓦葺きの建物で、方丈、庫裡(くり)、書院、茶室などからなる。方丈には、芳春院の位牌や、秀吉や淀殿の位牌が祀られている。 芳春院は、豊臣氏滅亡後の芳春院の住居としてだけでなく、豊臣氏の菩提寺としても機能した。芳春院は、慶安4年(1651年)に84歳で死去するまで、芳春院で暮らし、豊臣氏の菩提を弔った。 芳春院は、江戸時代を通じて豊臣氏の菩提寺として存続したが、明治維新後の廃仏毀釈で廃寺となった。芳春院の建物は、現在も大徳寺内に残されており、国の重要文化財に指定されている。
芸術家

「中尾米吉」について

-中尾米吉とは- 中尾米吉は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した日本の喜劇役者であり、映画監督であり、脚本家である。本名は中尾栄吉。芸名は、歌舞伎役者の尾上菊五郎から一字ずつ取って付けたものである。 1886年(明治19年)1月1日、兵庫県神戸市に生まれる。生家は酒造業を営んでいたが、米吉が10歳のときに倒産。米吉は小学校卒業後、神戸の寄席で芸人を目指して修行を始める。 1907年(明治40年)に上京し、松竹蒲田撮影所に入社。映画に出演する傍ら、自ら脚本も執筆するようになる。1912年(大正元年)に『かまきり夫人』で映画監督としてデビュー。以降、数多くの喜劇映画を監督する。 米吉の喜劇映画は、庶民の生活を描いたものが多く、人々の共感を呼んだ。また、米吉は喜劇映画において、従来の日本の映画には見られなかった新しい撮影技法を積極的に導入した。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で蒲田撮影所が被災したため、米吉は松竹下加茂撮影所に移籍。1925年(大正14年)に京都で独立プロダクション「米吉プロダクション」を設立し、映画製作を続ける。 1935年(昭和10年)に「米吉プロダクション」を解散し、東京に戻る。1937年(昭和12年)に松竹蒲田撮影所に戻り、映画監督として活動を再開。しかし、1941年(昭和16年)に病気のため映画監督を引退する。 1946年(昭和21年)1月20日、東京都渋谷区で死去。享年60。