正二位

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平安時代後期の公卿、源定房の紹介

- 源定房の生涯と経歴 平安時代後期の公卿、源定房は、1179年(寿永2年)に、父である源雅頼と母である藤原季通の娘との間に生まれました。1189年(文治5年)に元服し、右近衛権少将に任じられました。その後、右兵衛権佐、右近衛権少将、右兵衛権佐、右近衛権少将を歴任しました。 1199年(建久10年)には、右近衛権中将に任じられ、1202年(建仁2年)には、右近衛権大将に任じられました。1206年(建永元年)には、内大臣に任じられ、1208年(承元2年)には、右大臣に任じられました。1211年(建暦元年)には、太政大臣に任じられ、1218年(建保6年)まで務めました。 源定房は、後鳥羽天皇の信任が厚く、朝廷の政務を執り行いました。また、和歌や蹴鞠にも優れ、文化人としても知られました。1221年(承久3年)に、後鳥羽天皇が承久の乱を起こした際、源定房は朝廷に留まって後鳥羽天皇を説得しましたが、失敗しました。乱後、源定房は隠居し、1225年(嘉禄2年)に薨去しました。
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日野資長 〜平安時代後期の公卿〜

平安時代後期の公卿の日野資長 平安時代後期の公卿である日野資長について、その生涯や功績について解説します。 日野資長は、平安時代後期の公卿で、権大納言を務めました。藤原基房の子として生まれ、母は藤原兼子の娘です。幼名は資通、法名は円観です。 日野資長は、1151年に官職に就き、その後、累進して権大納言に昇進しました。また、1183年には左近衛大将に任じられ、1186年には内大臣に任じられました。 日野資長は、平清盛の台頭によって失脚し、1185年に権大納言を辞任しました。その後、1186年に平清盛が死去すると、日野資長は官職に復帰し、1187年には太政大臣に任じられました。 日野資長は、源頼朝が征夷大将軍に任じられた後、1189年に太政大臣を辞任しました。その後、1191年に死去しました。 日野資長は、平安時代後期の公卿として活躍し、平清盛の台頭によって失脚しましたが、源頼朝の台頭によって官職に復帰し、太政大臣を務めるなど、平安時代末期の政局に大きな影響を与えました。
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久我信通 – 江戸時代中期の公卿

-久我信通 - 江戸時代中期の公卿- -血筋と家柄- 久我信通は、江戸時代中期の公卿。久我光通の子。母は三条西実澄の娘。官位は従一位左大臣。 久我氏は、藤原北家閑院流の公家。藤原忠通の三男・雅定を祖とする。雅定は、久我を号し、以後久我氏を称した。久我氏は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄え、室町時代には、久我通雄が摂政、久我信通が左大臣に就任するなど、朝廷で重要な役割を果たした。 久我信通の父・光通は、従二位権大納言まで昇進し、久我氏の家格を維持した。信通は、光通の長男として誕生し、幼い頃から公卿としての教育を受けた。信通は、明正天皇の信任を得て、左大臣に任命された。信通は、公卿として、朝廷の儀式や行事を執り行い、公家の間の争いを調停するなど、朝廷の運営に尽力した。 久我信通は、左大臣の官位を以って、久我氏の家格を守り抜いた。信通の子孫は、江戸時代を通じて、公卿として朝廷で活躍し、久我氏は、江戸時代を通じて、公家として朝廷で活躍した。
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冷泉為則-江戸時代の公卿(くぎょう)と歌人

-上冷泉家の歴史と系譜- 冷泉為則は、江戸時代の公卿(くぎょう)であり、歌人でもあった。冷泉家は、藤原氏の流れを汲む公家で、室町時代には、正親町天皇の勘気を蒙り、冷泉家を離れて二条家に仕える二条為世が出た。この後、冷泉家は、為世の弟である為広の子孫が受け継いだ。 為広の子である為勝は、正五位下に叙され、侍従に任じられた。その子である為経は、権中納言にまで昇進し、歌人としても活躍した。為経の子である為益は、右京大夫に任じられた。為益の子である為政は、権大納言にまで昇進し、歌人としても知られた。 冷泉為則は、為政の孫であり、冷泉家の嫡流にあたる。元禄3年(1690年)に生まれ、享保13年(1728年)に亡くなった。冷泉為則は、公卿として、正三位に叙され、権中納言にまで昇進した。歌人としても、多くの作品を残しており、その歌集である『みずからに』は、江戸時代を代表する歌集のひとつとして知られている。 冷泉家は、為則の死後も、公家として存続し、明治維新後も、華族として遇された。冷泉家の当主は、現在も代々、冷泉宮家の閑院寿彦が務めている。
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醍醐忠順(1830~1900) 幕末、明治期の公卿(くぎょう)、官僚

-# 幕末期の功績 醍醐忠順は、幕末期の公卿(くぎょう)として活躍し、数々の功績を残した。 1858年(安政5年)、日米修好通商条約の締結をめぐる議論において、忠順は条約締結に賛成する立場を表明し、条約締結に貢献した。 1862年(文久2年)、忠順は公武合体派の中心人物として朝廷と幕府の融和を図り、同年に発生した生麦事件では、幕府の謝罪を朝廷に働きかけて事態の収拾に努めた。 1863年(文久3年)、忠順は参与会議議長に任命され、朝廷の政務を総覧した。忠順は、参与会議議長として朝廷の改革を進め、公武合体の実現を目指した。 1864年(元治元年)、忠順は京都守護職に任命され、京都の治安維持にあたった。忠順は、京都守護職として尊攘浪士の取り締まりや治安維持に努め、京都の治安を維持した。 1866年(慶応2年)、忠順は辞官し、公職から退いた。しかし、その後も忠順は朝廷や幕府に助言し、幕末の政局に影響を与え続けた。 醍醐忠順は、幕末期の公卿として、日米修好通商条約の締結、公武合体の実現、京都の治安維持など、数々の功績を残した。忠順は、幕末の政局を左右した重要な人物の一人である。
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「平親顕」1317-1378

-平親顕の生涯- 平親顕は、1317年に武蔵守護平頼重の子として誕生しました。幼名は新三郎であり、通称は右京亮、新右京亮、入道覚阿、菊堂等です。 親顕は、幼少期から武芸に優れ、また学問にも秀でていました。1333年に元寇以来の戦乱が勃発すると、親顕は父頼重に従って各地を転戦し、功績を上げました。 1336年、足利尊氏が後醍醐天皇を倒し、建武の新政が崩壊すると、親顕は尊氏に属しました。尊氏から河内守護に任命され、河内国において勢力を拡大していきました。 1350年、尊氏が南朝と和睦すると、親顕は南朝に寝返りました。南朝に河内守護として認められ、河内国において勢力をさらに拡大していきました。 その後、親顕は南朝のために各地を転戦し、功績を上げました。1368年、親顕は足利尊氏の弟である足利直冬を破って、九州を平定しました。 1370年、親顕は南朝に叛き、再び足利尊氏に属しました。尊氏から河内守護として認められ、河内国において勢力を維持しました。 1378年、親顕は河内国の高屋城で亡くなりました。享年62歳。親顕の死後、河内国は畠山氏の支配下に入りました。 親顕は、武芸に優れ、また学問にも秀でた戦国大名でした。南朝のために各地を転戦し、功績を上げました。しかし、晩年は足利尊氏に叛き、河内国において勢力を維持しました。
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藤原師家 → 平安後期-鎌倉時代の公卿

-藤原師家の生涯- 藤原師家は、平安後期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公卿です。九条兼実の次男として生まれ、藤原北家九条家の祖となりました。 師家は、1166年に従五位下に叙爵され、1171年に左兵衛佐に任じられました。その後、右兵衛佐、右近衛権少将、左近衛権中将を歴任し、1180年に参議に任じられました。 源平合戦では、平家に与して木曽義仲と戦いましたが、平家が滅亡すると源頼朝に帰順しました。頼朝からは重用され、1183年に従三位に叙せられ、1185年には右大弁に任じられました。 1190年、後鳥羽天皇が即位すると、師家は左大弁に任じられ、1192年には権中納言に昇進しました。その後、内大臣、右大臣を歴任し、1202年に太政大臣に任じられました。 師家は、1205年に薨去しました。享年48。 師家は、和歌を好み、藤原俊成、藤原定家らと交流がありました。また、書にも優れ、九条流の祖とされています。
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平安時代の女御「藤原多美子」について

-藤原多美子の生涯- 藤原多美子は、平安時代初期の女御で、嵯峨天皇の第三皇子である淳和天皇の妃。桓武天皇の孫であり、権勢を誇った藤原北家の出身である。藤原北家は、藤原冬嗣を始祖とし、平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の三代にわたって外戚として権勢をふるった家である。 藤原多美子は、延暦20年(801年)に、藤原冬嗣の三男である藤原仲成と、その妻である藤原清子の間に生まれた。母が平城天皇の娘であることから、桓武天皇の孫にあたる。藤原多美子は、幼少期から美貌と知性で知られ、嵯峨天皇の寵愛を受けた。 弘仁11年(820年)、藤原多美子は、19歳で淳和天皇の妃となり、女御に任命された。藤原多美子は、淳和天皇との間に、二男三女を儲けた。長男は、仁明天皇、次男は、文徳天皇である。藤原多美子は、皇子の教育にも熱心に取り組み、仁明天皇は、藤原多美子の教育によって、文章や音楽に秀でた天皇となった。 天長10年(833年)、淳和天皇が崩御すると、皇太子である仁明天皇が即位し、藤原多美子は皇太后となった。藤原多美子は、皇太后として、政治に大きな影響を与え、淳和天皇の治世を支えた。承和9年(842年)、藤原多美子は、51歳で崩御した。藤原多美子は、平安時代初期の女御として、政治に大きな影響を与えた人物である。
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「滋野井実国」

-滋野井実国とは- 滋野井実国(滋野井 実国、しのい さねくに/じっこく、生没年不詳)は、平安時代末期の武将であり、武田氏の祖とされる人物である。 滋野井実国は、甲斐国滋野井郷(現在の山梨県甲斐市)の領主であり、甲斐源氏の一族であった。 甲斐源氏は、平安時代初期に、清和源氏の源義光の子である源頼信が甲斐国に下向して以来、甲斐国の支配者として君臨する一族であり、滋野井実国はその支流であった。 滋野井実国は、武芸に優れ、弓矢の名手として知られていた。また、胆略もあり、甲斐国の有力武将として活躍した。 滋野井実国は、平安時代末期、甲斐国の国司であった平清盛の嫡男である平重盛と対立し、重盛の軍と戦った。 滋野井実国は、重盛の軍に幾度となく勝利し、甲斐国の独立を維持することに成功した。 滋野井実国は、甲斐国の国政を安定させ、甲斐国の繁栄に尽くした。また、滋野井実国は、甲斐国の文化の発展にも貢献しており、甲斐国に多くの寺社を建立した。 滋野井実国は、甲斐国の国主として、甲斐国の発展に尽くした名君であり、甲斐源氏の祖として現在でも崇敬されている。
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人物事典:池尻暉房(1762~1852 江戸時代後期の公卿)

池尻暉房の生涯 池尻暉房は、江戸時代後期の公卿です。1762年、江戸幕府第12代将軍徳川家慶の時代に生まれました。京都の公家である池尻家の出身で、父は池尻光房、母は四辻公賀の娘です。 暉房は、幼い頃から学問に優れ、1780年に従五位上に叙せられました。その後、1788年に中納言に任命され、1792年には権大納言に昇進しました。1797年には内大臣に任命され、1800年には左大臣に昇進しました。 暉房は、左大臣在任中に、公家たちの家格制度を改革し、公家たちの地位を向上させることに尽力しました。また、1812年には、幕府が老中松平定信を罷免したときに、暉房は定信を庇護して、彼の復職に尽力しました。 暉房は、1829年に法皇に即位しましたが、1830年に病気で崩御しました。享年69歳でした。暉房は、幕府と公家との関係を改善し、公家たちの地位を向上させることに貢献した人物として知られています。
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冷泉為相 – 鎌倉時代の公卿と歌人

冷泉為相の生涯と業績 冷泉為相(1200年 - 1275年)は、鎌倉時代の公卿、歌人。歌人としての名は寂心。従二位権左中将、左京大夫に叙任される。藤原北家閑院流・九条忠通の孫で、正二位権中納言藤原為家の長男。正室は藤原宗円(関白・藤原道隆の末裔)の娘。左中将為相とも呼ばれる。 冷泉為相は、建保2年(1214年)、15歳の時に叙爵。翌年、従五位下侍従に叙任される。建永元年(1206年)、従四位下右少将に叙任され、建保6年(1218年)には正四位下右中将に叙任される。建保7年(1219年)、従三位右兵衛督に叙任される。建保8年(1220年)、正三位権中納言に叙任される。建保9年(1221年)、左京大夫に転じる。 建保11年(1223年)、従二位権左中将に叙任される。建保12年(1224年)、左京大夫に還任する。貞応2年(1223年)、正二位に叙される。嘉禄元年(1225年)、左京大夫を辞任する。仁治元年(1240年)、出家して寂心と号する。建長元年(1249年)、太皇太后宮大進に任じられる。建長5年(1253年)、従一位に叙される。建長6年(1254年)、太皇太后宮大夫に転じる。建治元年(1275年)、76歳で薨去する。 冷泉為相は、歌人としても知られ、勅撰和歌集『新古今和歌集』に28首が入集している。また、私家集『寂心法師集』がある。 冷泉為相は、鎌倉時代の公卿、歌人として活躍した人物である。冷泉家の祖であり、その子孫は江戸時代まで続いた。冷泉為相は、藤原為家から歌道を学び、新古今和歌集の撰進に関わった。また、私家集『寂心法師集』を著し、多くの和歌を残した。冷泉為相は、鎌倉時代の和歌の発展に貢献した人物である。
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藤原経任

藤原経任の生涯 藤原経任は、平安時代の貴族、歌人。藤原北家勧修寺流、藤原良門の子。官位は従五位上、備中守。 藤原経任は、藤原良門の子として生まれ、幼い頃から和歌に秀でた才能を発揮した。14歳の時に、源高明の和歌会に出席し、その才能を認められた。その後、宮中に仕え、従五位上に叙せられた。備中守も務めた。 藤原経任は、和歌の才能だけでなく、書にも優れていた。また、藤原良経や藤原兼通らと親交があり、和歌の会などを催した。藤原経任は、37歳の若さで亡くなったが、その死は惜しまれた。 藤原経任は、生前に多くの和歌を残しており、その歌は『古今和歌集』や『後撰和歌集』などに収められている。藤原経任の歌は、自然を詠んだ歌が多く、その歌には、繊細な感性が表れている。 藤原経任は、平安時代前期を代表する歌人であり、その歌は後世の人々に愛された。
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源有雅:鎌倉時代の公卿

- 源有雅の生涯 源有雅は、鎌倉時代の公卿です。源有雅の生涯は、平安時代末期から鎌倉時代初期の動乱の時代を背景としています。源有雅は、源頼朝に仕える武士として、源平合戦に参加し、鎌倉幕府の成立に貢献しました。その後、源有雅は、鎌倉幕府の重臣として、朝廷との交渉や、諸国の統治に尽力しました。 源有雅は、1144年に生まれました。源有雅の父は、源義朝であり、母は、藤原季成の娘である常盤御前でした。源有雅は、源頼朝の異母弟であり、源範頼や源義経の同母弟でした。源有雅は、幼い頃に源頼朝に預けられ、源頼朝の養子となりました。 源有雅は、1180年の源平合戦に参加し、源頼朝の軍勢に従って戦いました。源有雅は、源平合戦で功績を挙げ、源頼朝に重用されるようになりました。源頼朝が鎌倉幕府を成立させた後、源有雅は、鎌倉幕府の重臣として、朝廷との交渉や、諸国の統治に尽力しました。 源有雅は、1199年に、60歳で亡くなりました。源有雅は、鎌倉幕府の重臣として、鎌倉幕府の成立に貢献し、鎌倉幕府の政治に大きな影響を与えた人物でした。 源有雅の生涯は、平安時代末期から鎌倉時代初期の動乱の時代を背景としています。源有雅は、源頼朝に仕える武士として、源平合戦に参加し、鎌倉幕府の成立に貢献しました。その後、源有雅は、鎌倉幕府の重臣として、朝廷との交渉や、諸国の統治に尽力しました。源有雅は、鎌倉幕府の成立に貢献し、鎌倉幕府の政治に大きな影響を与えた人物でした。
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– 「藤原顕雅」

藤原顕雅生い立ちと家系 藤原顕雅は、平安時代後期に活躍した貴族であり、歌人です。権中納言藤原顕房の三男として、1160年に生まれました。母は、藤原顕長(藤原頼長の三男)の娘である藤原篤子です。顕雅は、藤原摂関家の嫡流である藤原忠通の養子となり、藤原通憲の猶子となりました。 顕雅の父、藤原顕房は、藤原忠通の異母弟であり、藤原摂関家の重臣として活躍しました。顕雅の母、藤原篤子は、藤原頼長の三男である藤原顕長の娘であり、藤原忠通の従妹にあたります。また、顕雅の養父、藤原忠通は、藤原頼長の弟であり、藤原摂関家の当主として、治政を担いました。このように、顕雅は、藤原摂関家の嫡流として生まれ、その血筋は、平安時代の名門である藤原氏に遡ります。 顕雅は、幼少期から、藤原摂関家の一員として育てられ、公家としての教育を受けました。また、和歌にも秀で、歌人として、藤原俊成や藤原定家らと親交を持っていました。顕雅の歌は、『新古今和歌集』や『千載和歌集』などの勅撰和歌集に収録されています。 顕雅は、建久9年(1198年)に、39歳で死去しました。その死は、藤原摂関家にとって大きな損失となり、藤原忠通は、顕雅の功績を偲び、顕雅の歌を「顕雅卿集」として、編纂しました。「顕雅卿集」は、藤原顕雅の和歌を、その死後、藤原忠通が編集した歌集であり、顕雅の和歌の評価を、後世に伝える貴重な資料となっています。
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~源具実

-源具実(1147-1221)- 鎌倉時代の公卿であり、関白や太政大臣を歴任した。平清盛の娘である建礼門院徳子を妻とした。 -鎌倉時代の公卿- 源具実は1147年に京都で生まれた。平清盛の娘である建礼門院徳子を妻とし、平氏と親密な関係を保った。しかし、治承4年(1180年)に平氏一門が壇ノ浦の戦いで滅亡すると、源頼朝に仕えて朝廷の復興に努めた。 建久9年(1198年)には関白に任命され、建仁3年(1203年)には太政大臣に任命された。源具実は治世中に、鎌倉幕府との関係を良好に保ち、朝廷の権威を高めることに成功した。 建保元年(1213年)には出家して法然に弟子入りし、法然の死後は浄土宗の宗祖となった。嘉禄3年(1227年)に京都で亡くなった。 源具実は、鎌倉時代の公卿として、朝廷の復興と権威の回復に大きな役割を果たした。また、浄土宗の宗祖として、日本の仏教史にも大きな影響を与えた。
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園基祥:幕末・明治時代の公卿

-華族としての出自と家職- 園基祥は、1833年(天保4年)に京都で生まれた。父は正三位侍従であった園基教、母は八条隆寛の娘である。園家は、藤原北家の流れをくむ公家で、代々廷臣として仕えてきた名門である。基祥もまた、幼少の頃から公家としての教育を受け、1852年(嘉永5年)に叙従五位下に叙せられた。その後、1858年(安政5年)に中務少輔、1862年(文久2年)に内蔵頭、1863年(文久3年)に右大臣に任ぜられた。 1868年(明治元年)、明治維新が起こると、基祥は新政府に参加し、参議に任命された。その後、文部卿、内務卿、左大臣を歴任し、1884年(明治17年)には公爵に叙せられた。基祥は、公家としてだけでなく、政治家としても活躍し、明治政府の近代化政策に貢献した。 園基祥の華族としての家職は、以下の通りである。 * 内大臣(1868年 - 1871年) * 文部卿(1871年 - 1873年) * 内務卿(1873年 - 1874年) * 左大臣(1874年 - 1885年) * 太政大臣(1885年 - 1891年)
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甘露寺親長 – 室町時代の公卿

- 甘露寺親長の生涯 甘露寺親長は、室町時代の公卿です。父は権大納言・甘露寺経光の次男。母は備後守・上杉重房の娘。妻は参議・万里小路時房の娘。 親長は、1426年に誕生しました。1444年に元服し、1446年に従三位に叙せられ、1447年に権中納言に任じられました。1450年に参議に昇進し、1452年に権大納言に任じられました。1455年に内大臣に昇進し、1456年に右大臣に任じられました。1457年に左大臣に昇進し、1458年に関白に任じられました。 親長は、足利義政の側近として活躍しました。また、公家衆の筆頭として、朝廷の政治を主導しました。1459年に寛正の土一揆が勃発すると、親長は朝廷を代表して一揆の鎮圧に尽力しました。しかし、一揆の鎮圧には失敗し、1460年に辞職しました。 1467年に応仁の乱が勃発すると、親長は東軍の総大将として、細川勝元らと戦いました。しかし、西軍の総大将である足利義政に敗北し、1468年に辞職しました。 1469年に親長は死去しました。享年43歳でした。 親長は、公家衆の筆頭として朝廷の政治を主導した人物でした。また、応仁の乱では東軍の総大将として戦いました。しかし、西軍に敗北し、辞職しました。
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「葉室資頼」

-「葉室資頼」- -葉室資頼の生涯- 葉室資頼(はむろすけより)は、鎌倉時代前期の武将。葉室氏の祖。通称は太郎・三郎。葉室頼経の子。官位は従五位下・右京権大夫。 葉室資頼は、建久7年(1196年)に葉室頼経の子として誕生した。建保6年(1218年)に亡父が承久の乱で討死すると、その家督を継ぐ。承久の乱では、鎌倉幕府軍に従軍して活躍し、乱後に従五位下・右京権大夫に叙任された。 建長4年(1252年)、北条時頼が承久の乱で没落した三河源氏の平定を命じると、資頼は子の葉室頼継と共にこれに参陣した。戦功を挙げた資頼は、時頼から武蔵国秩父郡と上総国生実郷を拝領した。 資頼は、文永3年(1266年)に亡くなった。享年71。 葉室資頼は、鎌倉幕府の重臣として活躍した武将である。承久の乱で活躍し、北条氏に重用された。また、子孫が代々葉室氏を継承し、鎌倉幕府の滅亡まで仕えた。 -資頼の性格と評価- 葉室資頼は、武勇に優れ、忠義に厚い武将として知られていた。また、和歌や蹴鞠にも通じ、文武両道の武将であった。資頼は、鎌倉幕府の重臣として活躍し、幕府の安定に貢献した。また、子孫が代々葉室氏を継承し、鎌倉幕府の滅亡まで仕えた。 葉室資頼は、鎌倉幕府の重臣として活躍した武将であり、その功績は高く評価されている。
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東坊城長遠 – 室町時代の公卿

-東坊城長遠の生涯- 東坊城長遠(ひがしぼうじょう ながとう)は、室町時代の公卿。権大納言・東坊城益長の嫡男。官位は従一位内大臣。 永享4年(1432年)に誕生する。 嘉吉元年(1441年)、父・益長の死により家督を相続する。同年12月11日に叙爵し、和泉守に任官した。 文安元年(1444年)12月22日、従三位に叙され、公卿に列する。 享徳元年(1452年)12月30日には、権中納言に任じられ、翌享徳2年(1453年)3月23日には、権大納言に昇任する。 享徳4年(1455年)1月10日には、内大臣に任じられた。翌享徳5年(1456年)12月29日には、従一位に叙される。 応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発する。長遠は東軍に属し、足利義政を支持した。 文明3年(1471年)12月15日、内大臣を辞任する。翌文明4年(1472年)1月20日、薨去した。享年41。 長遠は、室町時代中期を代表する公卿として活躍した。応仁の乱では東軍に属し、足利義政を支持した。また、歌人としても知られており、和泉守時代に「和泉守集」を編纂している。
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– 「多治比島」

-「多治比島」- -飛鳥時代の公卿「多治比島」の紹介- 多治比島(たじひのしま)は、飛鳥時代の公卿(位階従四位上)です。多治比姓は、応神天皇の皇子である大江王の後裔である、多治比部を祖先とする氏族です。 多治比島は、舒明天皇の時代に官人となり、遣隋使として中国に派遣されました。その後、孝徳天皇の時代に中大兄皇子(後の天智天皇)に従って、乙巳の変に参加し、蘇我入鹿を討ちました。 天智天皇の時代には、遣唐使として中国に派遣され、唐の太宗に謁見しました。その後、内臣となり、天智天皇の信任を得ました。 天武天皇の時代には、右大臣に任命され、天武天皇の側近として活躍しました。681年の壬申の乱では、天武天皇に従って、大海人皇子(後の天武天皇)の勝利に貢献しました。 壬申の乱後、天武天皇は多治比島を左大臣に任命しました。多治比島は、天武天皇の治世を支え、飛鳥京の建設にも携わりました。 多治比島は、696年に亡くなりました。享年は62歳でした。多治比島は、飛鳥時代の公卿として活躍し、天智天皇、天武天皇の治世を支えました。
歴史上の偉人

「大中臣清麻呂」

大中臣清麻呂の生涯 大中臣清麻呂(おおなかとみ の きよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけて活躍した公卿・政治家。桓武天皇の治世に参議として活躍し、平安京への遷都や延暦寺の建立などに尽力した。 清麻呂は、神祇伯・大中臣御行の五男として生まれた。幼い頃から頭脳明晰で、18歳の時に大中臣氏の氏長者となる。その後、参議に任命され、桓武天皇の側近として重きをなした。 清麻呂は、桓武天皇の信任が厚く、平安京への遷都や延暦寺の建立など、数多くの重要事業を任された。また、道鏡の乱鎮圧にも尽力し、桓武天皇の皇位継承を支えた。 806年、清麻呂は参議のまま62歳で薨去した。清麻呂の死後、桓武天皇は清麻呂の功績を讃え、正一位を追贈した。 清麻呂は、平安時代初期を代表する政治家であり、桓武天皇の治世に大きな功績を残した。その功績は、平安京への遷都や延暦寺の建立など、現在も受け継がれている。 生涯主な出来事 * 733年神祇伯・大中臣御行の五男として生まれる * 751年18歳で氏長者となる * 770年参議に任命される * 784年延暦寺の建立に尽力 * 794年道鏡の乱鎮圧に尽力 * 806年正一位を追贈され薨去する
歴史上の偉人

「六条有藤」

-六条有藤の人物像- 六条有藤は、平安時代後期の歌人で、女房装束を身につけた美しい女流歌人として知られています。1147年に誕生し、1205年に死去しました。父は権中納言藤原顕輔、母は権大納言藤原基信の娘です。夫は、権中納言藤原俊成です。 有藤は、俊成と結婚する前は、白河法皇の寵愛を受けていました。俊成との間には、定家、家隆、雅経、良経の4人の男子がいます。 有藤は、和歌の才能に恵まれ、俊成から和歌の手ほどきを受けました。家集『六条有藤集』には、160首の歌が収められています。有藤の歌は、恋の歌が多く、繊細で優雅な作風です。 有藤は、日記『六条有藤女房日記』も残しています。この日記は、有藤の日常生活や、俊成との結婚生活の様子を記したものです。有藤の日記は、平安時代の女房の生活を知る上で貴重な資料となっています。 有藤は、1205年に59歳で死去しました。有藤の死後、俊成は、有藤を偲んで、『六条有藤集』を編纂しました。有藤の歌は、俊成によって高く評価され、後世にも伝えられました。
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藤原兼長 – 平安後期の公家

- 藤原兼長の出自と生涯 藤原兼長は、平安時代後期の公家であり、権中納言従二位に叙任されました。藤原北家御子左大臣流の出身で、藤原顕隆の孫、藤原顕信の子です。 兼長は、幼い頃から聡明で、学問を好みました。17歳の時に文章生に補され、文章博士を経て、24歳の時に侍従に任命されました。その後、蔵人、左中弁、左大辨を歴任し、33歳の時に権中納言に昇進しました。 兼長は、当時の権力者である藤原頼通に仕え、頼通の側近として活躍しました。また、兼長は、和歌にも優れており、和歌集『金葉和歌集』の撰者の一人でもあります。 兼長は、52歳の時に薨去しました。 兼長は、藤原北家御子左大臣流の繁栄に貢献した人物であり、平安時代後期を代表する公家の一人です。
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町資藤 – 室町時代の公卿

-町資藤の生涯- 町資藤は、室町時代の公卿で、権大納言まで務めた。1326年に生まれた。父は権中納言町資国、母は中務卿藤原資有の娘である。1339年に元服し、翌年に従五位下に叙せられ、左近衛少将に任命された。1348年には参議に任命され、1351年には権中納言に昇進した。1358年には正二位に叙せられた。 資藤は、室町幕府の有力な公家として活躍した。1370年には南朝と和議を結ぶための交渉役を務め、1378年には足利義満の即位式の奉行を務めた。1382年には、室町幕府の政務を総覧する「執事」に任命された。資藤は、執事として、室町幕府の財政改革や、関東管領の権限の強化など、多くの改革を行った。 1387年に資藤は、病のため辞職した。1388年に薨去した。享年63。資藤は、室町幕府の安定に貢献した功績で知られている。 資藤の死後、その子である町資昌が執事を継いだ。資昌もまた、室町幕府の有力な公家として活躍した。1394年に資昌が死去すると、その弟である町資頼が執事を継いだ。資頼は、室町幕府の最後の執事となった。