正四位下

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知られざる管弦の名手-藤原季兼

藤原季兼とは? 藤原季兼は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した管弦の大家です。藤原師長の次男で、兄に藤原師高、弟に藤原師経がいます。妻は、藤原隆季の娘の宰子。季兼は、幼い頃から音楽を好み、琵琶や箏を器用に弾きこなしました。 16歳の時、父師長に師事して琴を学び、20歳の時に昇殿。翌年には右近衛権少将に任じられ、24歳の時に左近衛権少将に昇進しました。また、25歳の時に、従五位下に叙せられています。27歳の時に、治承3年の平治の乱で官職を失い、鎌倉に下向します。その後、頼朝に仕え、源平合戦に従軍しました。寿永3年に右近衛権少将に任じられ、建久元年には従五位上に叙せられました。建久4年に、右近衛権中将に任じられ、建久5年に、従四位下に叙せられました。 季兼は、雅楽を深く究め、琵琶の名手として名を馳せました。また、箏や笛も得意とし、鎌倉時代初期の音楽界を代表する人物の1人でした。季兼は、多くの弟子を育て、藤原流琵琶の基礎を築きました。藤原流琵琶は、現代でも受け継がれており、日本を代表する伝統音楽となっています。
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源旧鑒とは?平安時代の光孝天皇の皇子とは

- 源旧鑒の生い立ちと経歴 源旧鑒は、平安時代の光孝天皇の皇子として、850年に生まれた。母は、藤原高子の妹・順子で、清和天皇の同母弟にあたる。幼名は、是忠王。幼い頃から学問を好み、和歌にも優れた才能を示したという。 10代の頃、左大臣の藤原良房の庇護を受け、順調に出世を重ねた。871年には、21歳の若さで従二位に至り、887年には、右大臣に任ぜられた。890年には、従一位に叙せられた。 源旧鑒は、公卿としてだけでなく、軍人としても活躍した。880年に、藤原良房が率いる軍勢に参加して、伊勢国で起きた平将門の乱を平定した。889年には、清和天皇の崩御に伴い、皇太子であった宇多天皇が即位した。源旧鑒は、皇太子の傅役を担い、宇多天皇を支えた。 宇多天皇は、901年に譲位し、皇太子であった醍醐天皇が即位した。源旧鑒は、引き続き醍醐天皇を支え、903年には、左大臣に任ぜられた。909年には、太政大臣に任命され、公卿の頂点に立った。 源旧鑒は、910年に病没した。享年61。醍醐天皇は、源旧鑒の功績を称え、正一位を贈った。
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三原春上:平安時代前期の公卿について

-三原春上の生涯と経歴- 三原春上(みはらのはるがみ)は、平安時代前期の公卿。参議・三原春海の兄。藤原北家小野宮流の始祖。 権少弁を務めていた貞観5年(863年)に従五位下に叙され、同年、越後介に任ぜられる。貞観13年(871年)六位蔵人を経て、同年、加賀守に任ぜられる。貞観18年(876年)右少弁、貞観19年(877年)従五位上に叙せられる。元慶元年(877年)右中弁、元慶5年(881年)右兵衛督に任ぜられる。882年(元慶6年)正五位下に叙せられ、翌元慶7年(883年)、参議に任ぜられた。 885年(仁和元年)肥後権守を兼ね、3年後に従四位下に叙せられる。898年(寛平10年)左中将を兼ね、901年(延喜元年)、従四位上に叙せられる。延喜4年(904年)には左大弁に任ぜられ、延喜5年(905年)正四位下、延喜9年(909年)権中納言に叙せられた。延喜13年(913年)、春上は従三位に叙され、同年10月17日に薨去した。享年64。 春上は、公卿として順調に昇進し、参議まで務めた。また、小野宮流の始祖であり、その子孫は藤原北家の有力な家系として栄えた。
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坂上浄野-平安時代前期の武人

坂上田村麻呂の子として誕生 坂上浄野は、平安時代前期の武人であり、征夷大将軍として蝦夷征討に従事したことで知られています。父は征夷大将軍として蝦夷征討を成功させた坂上田村麻呂、母は坂上田村麻呂の正室である藤原子(ふじわらこ)です。 坂上浄野の生年は明らかではありませんが、弘仁9年(818年)に生まれて承和8年(841年)に没したとされており、享年23歳でした。坂上浄野は、父である坂上田村麻呂が蝦夷征討で活躍していた頃に、坂上田村麻呂の嫡男として誕生しました。坂上田村麻呂は、坂上浄野の誕生をたいへん喜び、彼に武芸を教え、また学問も学ばせました。坂上浄野は、幼い頃から武芸に優れ、また学問にも秀でていたと伝えられています。 坂上浄野は、长大するにつれて、父である坂上田村麻呂の蝦夷征討に参加するようになりました。坂上浄野は、父とともに蝦夷征討で功を立て、桓武天皇から賞賛されました。承和8年(841年)、坂上田村麻呂が亡くなると、坂上浄野は、父の後を継いで征夷大将軍に任命されました。坂上浄野は、征夷大将軍として、蝦夷征討を続け、蝦夷の平定に貢献しました。坂上浄野は、23歳の若さで亡くなりましたが、蝦夷征討で大きな功を立て、武人としてその名を残しました。
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日野実綱→ 平安時代中期の官吏と漢詩人

日野実綱の生涯と経歴 日野実綱は、平安時代中期の官吏、漢詩人です。康和4年(1102年)に権大納言であった日野資業の子として生まれました。16歳で文章生に任ぜられ、鳥羽院内裏の修築に関わります。その後、越前国司、近江守、周防国司を歴任し、政務に携わりました。 実綱は、漢詩にも優れており、後白河院の「梁塵秘抄」の撰進も行いました。また、後に「新撰六帖」を編集した源俊頼とも親しく、和歌の交流も行っていたようです。 実綱は、平治の乱で勝利した平清盛に仕え、治承3年(1179年)には肥後守に任ぜられます。しかし、同年11月に平清盛が死去すると、実綱は官職を辞して出家しました。その後、比叡山で剃髪し、法名は「実源」と号しました。 建久5年(1194年)、実綱は93歳で亡くなりました。実綱は、生涯を通じて政務に携わり、漢詩にも優れた文官でした。その功績は、現在でも高く評価されています。
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基兄王:平安前期の王族の生涯と経歴

-基兄王の生涯- 基兄王は、平安時代初期の王族です。父は桓武天皇、母は藤原乙牟漏(ふじわらの おとむろ)です。仁明天皇の同母弟にあたります。 823年に生まれ、840年に親王宣下を受け、基兄王と名付けられました。850年に右近衛権少将に任じられ、854年に従四位下右近衛権少将に昇進しました。 858年に右近衛中将に任じられ、864年に従四位上右近衛中将に昇進しました。866年に右近衛大将に任じられ、867年に正四位下右近衛大将に昇進しました。 869年に左近衛大将に任じられ、870年に正四位上左近衛大将に昇進しました。872年に左大臣に任じられ、876年に正二位左大臣に昇進しました。 880年に太政大臣に任じられ、881年に正一位太政大臣に昇進しました。884年に薨去しました。 基兄王は、平安時代初期の政界で重要な役割を果たした人物です。兄の仁明天皇を支え、左大臣、太政大臣を歴任しました。また、歌人としても知られており、勅撰和歌集である『古今和歌集』に3首の歌が入選しています。
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持明院家定 – 鎌倉時代の公家

-持明院家定の生涯- 持明院家定は、鎌倉時代の公家です。父は持明院基家、母は従一位刑部卿吉田経房の娘です。生年は不詳ですが、承元4年(1210年)に参議に任じられたことから、それ以前の生まれと考えられます。 家定は、早くから朝廷に出仕し、建久9年(1198年)に左近衛少将、建永元年(1206年)に右近衛中将、建保元年(1213年)に正三位、建保6年(1218年)に参議に任じられました。その後、権中納言、権大納言などを歴任し、建長元年(1249年)に内大臣に任じられました。 家定は、内大臣として、後嵯峨天皇の治世を支えましたが、建長3年(1251年)に薨去しました。享年は不明です。 家定は、和歌に優れ、勅撰和歌集『新古今和歌集』に3首が入集しています。また、家定は、公家日記『持明院家定公記』を著しました。同日記は、鎌倉時代の朝廷の様子を知る上で貴重な史料となっています。
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「平季明」とは?

-平季明の生涯- 平季明は、平安時代末期の武士。平清盛の弟であり、平家の有力武将の一人として活躍した。 1159年に生まれる。1180年に壇ノ浦の戦いで平家滅亡した後、讃岐国に配流される。その後、赦免されて京都に戻り、1200年に承久の乱で幕府軍と戦い、戦死した。 平季明は、武勇に優れ、平家の有力武将として活躍した。壇ノ浦の戦いで平家滅亡した後、讃岐国に配流されるが、赦免されて京都に戻り、承久の乱で幕府軍と戦い、戦死した。 平季明は、平家の有力武将として活躍した人物であり、その生涯は波乱に満ちたものであった。
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藤原兼房- 中宮亮を務めた官吏,歌人

-藤原兼房の生涯と業績- 藤原兼房は、平安時代前期の貴族、官吏、歌人です。中宮亮を務め、従三位まで昇進しました。宇多天皇の皇后である藤原胤子(にったこ)の兄であり、醍醐天皇の皇后である藤原穏子(おんし)の父です。 兼房は、843年に藤原良房の次男として生まれました。良房は藤原北家(ほっけ)の祖であり、摂政と関白を歴任した平安時代前期を代表する政治家です。兼房は良房の長男である基経(もとつね)や弟の忠平(ただひら)と並んで、藤原北家の繁栄を支えた人物です。 兼房は、874年に従五位上に叙せられ、879年に中宮亮に任ぜられました。中宮亮は、皇后の側近として仕える官吏です。兼房は、901年に従三位まで昇進し、909年に薨去しました。 兼房は、官吏として活躍する一方、歌人としても知られています。兼房は、勅撰和歌集である『古今和歌集』に1首の歌を残しており、その歌は「恋する人を見送りて」と題されています。兼房の歌は、深い情感と美しい言葉遣いで、現在でも高く評価されています。 藤原兼房は、平安時代前期に活躍した官吏、歌人です。中宮亮を務め、従三位まで昇進し、勅撰和歌集である『古今和歌集』に1首の歌を残しました。兼房は、藤原北家の繁栄を支えた人物であり、官吏としてだけでなく、歌人としても優れた才能を発揮しました。 兼房は、藤原北家の中でも特に和歌に秀でた人物として知られています。その歌は、恋の歌が多く、美しい言葉遣いで女性の心情を繊細に描いています。兼房の歌は、後世の和歌にも大きな影響を与え、平安時代の和歌を代表する歌人として現在でも高く評価されています。
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藤原敦基 – 平安時代後期の官吏・漢詩人

藤原敦基の生い立ちと家族 藤原敦基は、平安時代後期の官吏・漢詩人です。1139年(保延5年)に、権中納言・藤原隆頼の子として誕生しました。母は、播磨守・大江公通の娘です。敦基は、幼い頃から学問に励み、14歳で侍従に任じられました。その後、左兵衛権佐、右衛門権佐、左衛門佐、右衛門尉、右兵衛尉、左兵衛尉、右衛門督などを歴任しました。1179年(治承3年)には、従五位下に叙せられ、1180年(治承4年)には、従五位上に昇進しました。敦基は、官吏として活躍する一方、漢詩にも優れた才能を発揮しました。1185年(文治元年)に、後白河法皇の命によって、藤原俊成、藤原有家、藤原基俊らとともに『千載和歌集』の撰集に参加しました。また、敦基は、漢詩集『藤原敦基集』を著しており、その中には、中国の詩人・杜甫を模倣した作品が多く見られます。敦基は、1191年(建久2年)に、53歳で亡くなりました。
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平業忠を知るための5つの基本事実

平業忠の基本情報 1. 平業忠の誕生と家系 平業忠は、1118年に下野国(現在の栃木県)で生まれました。平氏の一族である河内源氏の一人として生まれ、清和源氏の棟梁である源頼朝の弟である源義経とは従兄弟にあたります。 2. 平業忠の容姿と性格 平業忠は、身長が高く、体格が良く、力持ちでした。また、とても頭が良く、文章を書くのが得意でした。性格は、胆力があって勇ましく、決断力もありました。 3. 平業忠の主な事績 平業忠は、治承4年(1180年)に源頼朝の挙兵に参加し、源平合戦で活躍しました。壇ノ浦の戦いで源氏軍が勝利すると、平業忠は九州の守護に任命され、九州一帯を支配しました。 4. 平業忠の最期 平業忠は、建久4年(1193年)に源頼朝の命令で、京都の六波羅で殺害されました。享年76歳でした。平業忠の死は、源頼朝による平氏一門の粛清の始まりとされ、平氏の滅亡への道を一気に加速させました。 5. 平業忠の功績 平業忠は、源平合戦で活躍し、源氏軍の勝利に貢献しました。また、九州の守護として、九州一帯を安定させ、源氏の支配を確立しました。平業忠は、源頼朝に仕えた忠臣として知られており、その功績は高く評価されています。
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「正躬王」について

-「正躬王」について- -正躬王の生涯- 正躬王(まさみのみこ、元徳元年(1329年) - 延文3年/正平23年2月8日(1358年3月17日))は、南北朝時代の皇族。光厳天皇の第一皇子。母は女御・一条経子。光明天皇、崇光天皇の異母兄。 正躬王は、元徳元年(1329年)に生まれ、その翌年に皇太子となる。しかし、正慶2年/元弘3年(1333年)に光厳天皇が後醍醐天皇に幽閉されると、正躬王もまた大覚寺に移されて幽閉された。 建武3年(1336年)、後醍醐天皇が足利尊氏に敗れると、正躬王は尊氏によって京都に迎え入れられた。そして、同年8月に践祚し、光明院と号した。しかし、尊氏の権勢が強まるにつれて、光明院と尊氏の間には対立が生じるようになった。 暦応元年(1338年)、尊氏は天皇を廃して、崇徳天皇の皇子である護良親王を擁立した。光明院は廃位され、大和国に配流された。正平23年/延文3年(1358年)、大和国で死去。享年30。 正躬王は、南北朝時代の動乱に翻弄された悲劇の皇子である。正躬王の死は、南北朝の和解を困難にし、南北朝時代をさらに長期化させることとなった。
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路大人-飛鳥・奈良時代の官吏-生涯と功績

-路大人の生涯と経歴- 路大人の生没年は不明ですが、飛鳥・奈良時代の官吏として活躍しました。彼は、孝徳天皇の即位後に、蘇我入鹿を滅ぼし、中大兄皇子を擁立して、大化の改新を断行した壬申の乱において、中大兄皇子に協力したと伝えられています。 路大人の出身については、諸説ありますが、尾張氏の一族であるという説が有力です。彼は、蘇我入鹿の専横に対して、早くから不満を抱いていたとされ、中大兄皇子と連絡を取りながら、入鹿を滅ぼす機会を伺っていました。 壬申の乱において、路大は、中大兄皇子の配下となって、入鹿の軍勢と戦いました。入鹿の軍勢は、強大でしたが、路大は、中大兄皇子とともに、巧みな戦術で入鹿を破り、勝利を収めました。 壬申の乱の後、路大は、中大兄天皇の信任を得て、重要な官職を歴任しました。彼は、大納言や左大臣を務め、国家の運営に参画しました。 路大は、また、学問や文化にも優れていました。彼は、儒教や仏教に通じ、和歌にも優れた作品を残しました。彼は、中大兄天皇に仕えながら、国家の発展に尽力するとともに、学問や文化の発展にも貢献しました。
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源頼義 – 平安時代中期の武人

-源頼義の生涯- 源頼義は、平安時代中期の武人であり、桓武平氏の一族である。頼光四天王の一人として知られ、前九年間の乱や奥州藤原氏との戦いなど、数々の戦功を挙げた。また、源氏の棟梁として、源氏一門の基盤を築いた人物としても知られている。 頼義は、天喜3年(1055年)に、父・頼信の子として生まれた。頼信は、前九年間の乱で功績を挙げ、平忠常を討ち取ったことで知られている。頼義もまた、幼い頃から武芸に優れていて、16歳のときには、前九年間の乱に参加して戦功を挙げた。 康平5年(1062年)に、頼義は、安倍貞任の乱を鎮圧するために奥州に派遣された。頼義は、貞任の拠点を攻め落とし、貞任を討ち取った。この戦功で、頼義は、従五位下左兵衛尉に任じられ、源氏の棟梁として認められるようになった。 治暦4年(1068年)に、頼義は、再び奥州に派遣されて、藤原清衡・藤原家衡の反乱を鎮圧した。頼義は、清衡・家衡の拠点を攻め落とし、両名を降伏させた。この戦功で、頼義は、従四位下に叙せられ、左近衛権中将に任じられ、源氏の棟梁としての地位を確固たるものにした。 延久4年(1072年)に、頼義は、後三条天皇の勅命を受けて、平忠常の反乱を鎮圧するために常陸国に派遣された。頼義は、忠常の拠点を攻め落とし、忠常を討ち取った。この戦功で、頼義は、正四位下に叙せられ、右近衛権中将に任じられ、源氏の棟梁としての地位をより強固なものにした。 頼義は、嘉保2年(1095年)に、61歳で病没した。頼義の死後、源氏の棟梁の地位は、息子の義家に継がれた。義家は、保元の乱で崇徳天皇側に立って敗れ、讃岐国に流された。義家の死後、源氏の棟梁の地位は、息子の頼朝に継がれた。頼朝は、平氏打倒を掲げて挙兵し、壇ノ浦の戦で平氏を滅ぼして鎌倉幕府を開いた。源頼義は、源氏の棟梁として、源氏一門の基盤を築き、源氏を武家の棟梁に導いた人物である。
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佐伯常人-奈良時代の武人

天平12年の藤原広嗣の乱 737年(天平9年)から740年(天平12年)まで、7年間続いた平城京の建設事業の労働力として、各地から工匠や労役を徴発したことに人々は不満を抱いていた。 天平12年3月、筑紫大宰帥(だざいのそち)で征西大将軍の藤原広嗣は、平城京建設事業への賦役労働を免除するよう朝廷に要求した。しかし、朝廷は広嗣の要求を拒否したため、広嗣は軍勢を率いて反乱を起こした。 広嗣は、九州全土を支配下に置き、大宰府を拠点として朝廷軍と戦った。朝廷は、左大臣の橘諸兄を総司令官に任命し、九州に大軍を派遣した。 広嗣の軍勢は、朝廷軍の圧倒的な兵力の前に苦戦を強いられた。広嗣は、筑紫から豊前国(現在の福岡県東部)に逃れたが、朝廷軍の追撃を受け、740年6月に敗死した。 藤原広嗣の乱は、奈良時代の最大の反乱として知られている。この乱は、朝廷の権威が衰退し、地方の豪族が力を持ち始めたことを象徴する出来事だった。
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高辻是綱の生涯と功績

高辻是綱の人物像 高辻是綱は、戦国時代末期から江戸時代前期にかけて活躍した武将・大名です。織田信長や豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍に属しました。徳川家康に降伏後は、越後国与板藩主となり、江戸幕府の旗本として活躍しました。 是綱は、勇猛果敢な武将として知られ、数々の戦いで功績を挙げました。賤ヶ岳の戦いでは、明智光秀軍を破り、織田信長の勢力拡大に貢献しました。関ヶ原の戦いでは、西軍の一員として戦いましたが、徳川家康の軍に敗れ、越後国与板藩を領有することになりました。 是綱は、武勇に優れただけでなく、知謀にも長けた人物でした。越後国与板藩主時代には、領内の統治に力を入れ、藩政の改革を行いました。また、領民の救済にも努め、藩内での飢饉を救済するために、食料の備蓄を行いました。 是綱は、越後国与板藩主として、藩政の改革や領民の救済に努め、藩民から尊敬を集めました。江戸幕府の旗本としても活躍し、徳川家康の信頼を得て、幕府の要職を歴任しました。是綱は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、日本の歴史に大きな足跡を残した人物です。
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「藤原忠文」平安時代中期の公卿

藤原忠文の生涯 藤原忠文(ふじわらのただふみ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、参議・藤原佐理の三男。母は正四位下・在原恒真の娘。官位は正二位・内大臣。 藤原忠文の生涯は、平安時代中期の政治情勢と深く関わっている。忠文は、天暦3年(949年)に参議に任命され、以降、権中納言、大納言と昇進を重ねた。天延2年(974年)には、内大臣に任命され、藤原頼忠・藤原伊尹に次いで、公卿の最高位に上り詰めた。 忠文は、内大臣として、国家の政務を総括する立場にあった。また、藤原頼忠や藤原伊尹とともに、朝廷の重鎮として、藤原摂関家の権勢を維持する役割を担った。しかし、忠文は、在任中に病気を患い、天元5年(982年)に死去した。享年46。 藤原忠文の死後、藤原摂関家の権勢は衰退し、次第に、天皇家と摂関家の関係が緊密化していった。忠文の死は、平安時代中期の政治情勢に大きな影響を与えた。 藤原忠文は、平安時代中期の優れた政治家であり、藤原摂関家の権勢を維持する上で重要な役割を果たした人物である。忠文の死は、平安時代中期の政治情勢に大きな影響を与えた。
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藤原敦兼について

藤原敦兼の生涯と功績 藤原敦兼は、平安時代中期から後期にかけて活躍した公卿・歌人です。藤原北家勧修寺流の祖とされ、歌人としては三十六歌仙の一人に数えられています。 敦兼は、藤原道長の三男として、寛弘3年(1006年)に生まれました。母は、源倫子の娘・源倫子です。敦兼は、幼い頃から聡明で、和歌に秀でていました。 敦兼は、長和5年(1016年)に、11歳で文章生に任じられました。その後、侍従・右近衛権少将・左近衛権中将などを歴任し、治安2年(1022年)には、参議に昇進しました。 敦兼は、参議在任中に、寛仁2年(1018年)に発生した藤原頼通の邸宅への落雷事件の調査を担当しました。敦兼は、調査の結果、落雷は天罰であると結論づけ、頼通に邸宅の移転を勧告しました。 敦兼は、万寿2年(1025年)に、従三位に昇進し、侍従に任じられました。その後、右近衛権大将・左近衛権大将・右近衛大将・左近衛大将などを歴任し、治安3年(1023年)には、内大臣に昇進しました。 敦兼は、内大臣在任中に、永承2年(1047年)に発生した前九年の役の鎮圧に貢献しました。敦兼は、朝廷の命を受けて、前九年の役の最前線である奥州に赴き、戦功を挙げました。 敦兼は、永承6年(1051年)に、右大臣に昇進しました。その後、康平5年(1062年)に、太政大臣に昇進し、12年間その職に就きました。敦兼は、太政大臣在任中に、延久4年(1072年)に発生した後三年の役の鎮圧に尽力しました。 敦兼は、嘉保2年(1095年)に、90歳で薨去しました。敦兼は、和歌に秀でており、三十六歌仙の一人に数えられています。敦兼の和歌は、『後拾遺和歌集』、『金葉和歌集』、『詞花和歌集』などの勅撰和歌集に多く入集されています。
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百済玄鏡-奈良-平安時代前期の官吏

-奈良-平安時代前期の官吏- 奈良-平安時代前期の官吏は、律令制に基づいて設置された官職に就いた人々です。官吏は、天皇を頂点とする中央政府とその地方機関である国司・郡司に勤務していました。 奈良-平安時代前期の官吏は、貴族や官僚の家系出身者、地方豪族、僧侶など、さまざまな身分の人々から構成されていました。官吏になるためには、官僚養成機関である大学寮や文章寮で学んで官吏登用試験である蔭位・蔭子に合格する必要があります。 官吏の職務は、中央政府では行政、立法、司法、財政、外交など多岐にわたっていました。地方機関である国司・郡司では、租税の徴収、治安維持、裁判、公共事業の管理などを行っていました。 奈良-平安時代前期の官吏は、律令制に基づいて設置された官職に就き、中央政府とその地方機関である国司・郡司に勤務していました。官吏は、天皇を頂点とする中央政府とその地方機関である国司・郡司に勤務していました。
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西園寺家家司の橘知茂

-橘知茂の生涯- 橘知茂(たちばな とももち)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。右京大夫・橘俊通の子。官位は正二位・権中納言。 -生い立ち- 知茂は、保安4年(1123年)、右京大夫・橘俊通の子として生まれる。母は藤原顕季の娘。知茂は、俊通の嫡男として、幼い頃から公家の教育を受け、和歌や漢詩などに秀でた。 -公家としての歩み- 知茂は、久寿2年(1155年)、従五位下に叙され、官途に就く。仁平3年(1153年)には、右衛門権佐に任ぜられ、以後、左近衛権少将、左近衛権中将、右近衛権中将などを歴任する。 -西園寺家家司として- 知茂は、嘉応2年(1170年)、西園寺公経に仕えて、西園寺家家司となる。公経は、知茂の学識と才能を高く評価し、知茂を重用した。知茂は、公経の側近として、公経の政治活動を支えた。 -権中納言として- 治承4年(1180年)、知茂は、権中納言に任ぜられる。権中納言は、公卿の最高位であり、知茂は、公家として最高の栄誉を手にした。 -晩年- 文治5年(1189年)、知茂は、67歳で薨去する。知茂は、公家として活躍しただけでなく、和歌や漢詩にも秀でた文化人でもあった。知茂の死は、公家社会に大きな衝撃を与えた。
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源本有

-源本有の生涯と出自- 源本有は、平安時代末期の武将であり、源義朝の三男として生まれた。兄に源頼朝、源義経がおり、妹に源行家がいた。本名は源朝光(ともみつ)であったが、後に本有に改名した。 本有は、1161年に生まれ、幼い頃から武術を鍛え、弓馬に優れていた。また、学問にも秀でており、和歌や漢詩に優れた。 1180年、兄の頼朝が挙兵し、源氏と平家の間で源平合戦が勃発。本有は、頼朝に従い、平家との戦いで活躍した。1185年、平家が壇ノ浦で滅亡し、源氏が勝利を収めた。 合戦後、本有は、頼朝の命により、九州に下向し、肥後国の守護となった。本有は、肥後で善政を敷き、人々から慕われた。また、本有は、九州各地を巡り、歌枕を訪れて和歌を詠んだ。 1199年、本有は、肥前で死去した。享年39歳であった。 本有は、優れた武将であり、文学者でもあった。また、人柄も温厚で、人々から慕われた人物であった。 -出自- 源本有は、源義朝の三男として生まれた。父・義朝は、清和源氏の祖である源満仲の孫であり、母・常盤御前は、平清盛の叔母であった。 本有は、兄の頼朝、義経がおり、妹に源行家がいた。頼朝は、鎌倉幕府を開いた初代征夷大将軍であり、義経は、平家打倒に貢献した名将であった。行家は、文武両道に優れた武将であり、和歌や絵画にも優れていた。 本有の一族は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、日本の歴史に大きな影響を与えた。
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秋篠高子 – 平安時代前期の嵯峨天皇の更衣

秋篠高子 - 平安時代前期の嵯峨天皇の更衣
歴史上の人物

橘為仲 和歌六人党の一人

橘為仲の生涯 橘為仲(たちばな ためなか、生没年不詳)は、平安時代中期の公卿・歌人。参議・橘公頼の子。官位は従四位下・左京大夫。和歌六人党の一人。 橘為仲は、橘公頼の子として生れた。若い頃から和歌に秀で、藤原道長に仕えていた。寛和2年(986年)、藤原道長が権勢を強めると、為仲は従五位下・右衛門権佐に任じられた。その後、順調に昇進し、長和2年(1013年)には従四位下・左京大夫に昇った。 為仲は、藤原道長の庇護を受けていたため、藤原道長の没後は、急速に没落した。長元9年(1036年)には、藤原頼通の命を受けて、常陸国に配流された。しかし、翌年赦免されて、都に戻った。 為仲は、和歌六人党の一人として知られており、『後拾遺和歌集』や『金葉和歌集』に彼の歌が収められている。また、彼は『和歌六人党私撰集』を編纂したとされる。 為仲は、藤原道長に仕えていた頃から、和歌に秀でていた。彼の歌は、優美で繊細な作風で、多くの歌人に愛された。また、彼は『和歌六人党私撰集』を編纂したとされるが、その真偽は定かではない。 橘為仲は、平安時代中期の和歌六人党の一人として知られている。彼の歌は、優美で繊細な作風で、多くの歌人に愛された。また、彼は『和歌六人党私撰集』を編纂したとされるが、その真偽は定かではない。
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藤原良縄とは?平安時代前期の公卿の生涯と功績

藤原良縄の生い立ちと家系 藤原良縄は、平安時代前期の公卿であり、仁明天皇の信任を受けて活躍した。良縄の生年は不詳だが、清和天皇の治世である貞観9年(867年)に20歳以上であったと伝わることから、生年は貞観元年(859年)以前と考えられている。良縄の父は、参議・藤原良範で、その家系は藤原北家閑院流に属する。 藤原北家は、藤原不比等の長子・藤原武智麻呂を始祖とする藤原氏の有力な家系である。閑院流はその藤原北家の分流で、良縄の曾祖父・藤原三守が閑院を邸宅としたことに由来する。三守の孫である藤原良縄は、清和天皇の信任を得て、貞観12年(870年)に参議、翌年には権中納言に昇進し、貞観16年(874年)には内大臣となった。 良縄は、内大臣在任中に皇太后・藤原順子の崩御に際して、その喪儀の費用削減に尽力した。また、良縄は、儒教を重視しており、貞観18年(876年)には、儒教の学校である大学寮を再興し、儒教の振興に努めた。良縄は、貞観19年(877年)に右大臣に昇進し、貞観20年(878年)には左大臣となった。良縄は、左大臣在任中の元慶2年(878年)に薨去し、享年40歳であった。良縄は、死後太政大臣を追贈され、従一位に叙された。