歴史学者

学術分野の人

佐伯好郎:明治・大正・昭和時代の歴史学者

- 佐伯好郎の生涯と経歴 佐伯好郎は、明治19年(1886年)2月16日に、鹿児島県鹿児島市で生まれた。父親は、佐伯国衛といい、母親は、佐伯トミといい、佐伯好郎は、その次男であった。佐伯好郎は、幼少期から歴史に興味を持ち、鹿児島県立第一中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)に進学後も、図書館に通っては歴史書を読みふけった。 佐伯好郎は、第一中学校卒業後、東京帝国大学(現・東京大学)に進学し、歴史学科に入学した。大学在学中は、坪井九馬三や那珂通世らに師事し、歴史学の基礎を学んだ。佐伯好郎は、大学卒業後、東京帝國大學大学院に進学し、日本史を専攻した。 佐伯好郎は、大学院卒業後、東京帝國大學の助手となり、その後、助教授、教授を歴任した。佐伯好郎は、1933年(昭和8年)に、東京帝國大學を退官し、専修大学教授に就任した。佐伯好郎は、専修大学在職中に、日本史の研究を続け、多くの著作を発表した。佐伯好郎は、1953年(昭和28年)に、専修大学を退職し、名誉教授となった。 佐伯好郎は、1959年(昭和34年)に、文化勲章を受章した。佐伯好郎は、1962年(昭和37年)に、死去した。
学術分野の人

柴田三千雄→ フランス近代史学者

柴田三千雄の生涯と業績 柴田三千雄は、1901年(明治34年)に、福岡県遠賀郡門司町(現・北九州市門司区)に生まれた。1925年(大正14年)に東京帝国大学文学部フランス文学科を卒業し、その後、フランスに留学した。1929年(昭和4年)に帰国し、東京帝国大学文学部講師に就任した。1932年(昭和7年)に、同大学教授に昇進した。 柴田三千雄は、フランス近代史の研究者として知られている。1936年(昭和11年)に出版した『フランス革命史』は、フランス革命の研究における古典的名著とされている。また、1949年(昭和24年)に出版した『フランス社会経済史』は、フランスの社会経済史研究における先駆的な業績とされている。 柴田三千雄は、1962年(昭和37年)に、東京帝国大学を定年退官した。その後、法政大学総長に就任した。1965年(昭和40年)に、文化勲章を受章した。1973年(昭和48年)に、東京都渋谷区で死去した。 柴田三千雄は、フランス近代史の研究者として、多くの業績を残した。その業績は、現在でも多くの研究者に影響を与えている。
歴史上の人物

尾佐竹猛 – 憲政史の研究者として活躍した司法官

-司法官としてのキャリア- 尾佐竹猛は、1876年(明治9年)に東京府に生まれた。1899年(明治32年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となった。その後、地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事などを歴任した。1923年(大正12年)には、大審院判事に任命された。大審院判事としては、民事事件、刑事事件を問わず、多くの重要な判決に関与した。また、司法制度の改革にも尽力した。1947年(昭和22年)に、最高裁判所が設立されると、最高裁判事に任命された。最高裁判事としては、憲法の解釈に関する重要な判決を多数作成した。1953年(昭和28年)に、最高裁判所長官に就任した。最高裁判所長官としては、司法権の独立を守るために尽力した。1958年(昭和33年)に、最高裁判所長官を退任し、弁護士となった。1962年(昭和37年)に、死去した。 尾佐竹猛は、司法官として、憲政史の研究者として、数々の功績を残した。その功績は、今日でも高く評価されている。
学術分野の人

「荒井信一」

-中央公論社勤務、茨城大学教授を経て駿河台大学教授に就任- 荒井信一氏は、1936年東京都生まれ。中央公論社に入社後、1969年に茨城大学助教授に就任。1977年に教授に昇進し、1998年に駿河台大学教授に就任しました。 荒井氏は、経済学の分野で活躍しており、特に公共経済学の研究において知られています。公共経済学とは、政府の経済活動や公共財の供給について研究する学問分野です。 荒井氏は、公共経済学の分野で多くの業績を残しており、その研究成果は国内外で高く評価されています。また、荒井氏は、公共経済学の研究だけでなく、経済政策の立案やアドバイスなどにも積極的に取り組んでいます。 荒井氏は、その功績により、1998年に日本経済学会賞を受賞しました。また、2001年には、日本学士院会員に選出されました。 荒井氏は、現在も駿河台大学教授として、公共経済学の研究と教育に携わっています。 荒井信一氏の略歴 1936年東京都生まれ 1959年東京大学経済学部卒業 1962年中央公論社に入社 1969年茨城大学助教授に就任 1977年茨城大学教授に昇進 1998年駿河台大学教授に就任 1998年日本経済学会賞を受賞 2001年日本学士院会員に選出
学術分野の人

「清水博(1)」

-「地域研究と革新主義の研究」- 清水博は、地域研究と革新主義の研究において、先駆的な役割を果たした。 清水は、1960年代初頭から地域研究に取り組み、1969年に『地域研究入門』を出版した。この本は、地域研究の理論と方法を解説したもので、地域研究の分野に大きな影響を与えた。 清水は、地域研究において、地域固有の文化や歴史を重視した。また、地域住民の生活や産業を調査し、地域の問題点を明らかにした。清水の研究は、地域住民の生活を改善するための政策提言に貢献した。 清水は、地域研究と同時に、革新主義の研究にも取り組んだ。清水は、革新主義を「新しいことを生み出す能力」と定義し、革新主義を促進するための政策を提唱した。 清水の研究は、日本の経済成長に貢献した。清水の研究は、日本の企業が新しい製品やサービスを開発し、新しい市場を開拓することを促した。清水の研究は、日本の経済を活性化し、日本の国際競争力を強化した。 清水の研究は、日本だけでなく、世界の地域研究と革新主義の研究に大きな影響を与えた。清水の研究は、世界各地の地域研究者や革新主義研究者が、地域の問題を解決するための政策を提言する際に、参考とされている。 清水の研究は、地域住民の生活を改善し、日本の経済成長に貢献した。清水の研究は、世界各地の地域研究者や革新主義研究者が、地域の問題を解決するための政策を提言する際に、参考とされている。清水の研究は、地域研究と革新主義の研究において、先駆的な役割を果たした。
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郷土史を愛した歴史学者・小林茂とは

- 小林茂の生い立ちと学歴 小林茂は、1898年(明治31年)12月15日に、鳥取県西伯郡岸本町(現・琴浦町)に生まれた。実家は代々庄屋を務めてきた旧家で、父親は日本銀行の支店長のほか、衆議院議員、郡会議員、鳥取商工会議所副会頭などの公職を歴任した人物であった。 小林茂は、幼い頃から歴史に興味を持っていたが、父親からは「歴史は役に立たない」と言われていた。しかし、小林茂は歴史への興味を捨てず、中学卒業後は慶應義塾大学予科に進学した。予科を卒業後は、慶應義塾大学文学部史学科に入学し、日本史を専攻した。 大学卒業後は、東京帝国大学(現・東京大学)大学院に進学し、日本史を研究した。大学院修了後は、東京帝国大学史料編纂所の嘱託として勤務し、古文書の整理や史料の編纂に携わった。 1932年(昭和7年)に、小林茂は東京帝国大学史料編纂所を退職し、郷里の鳥取県に戻った。その後、鳥取県教育委員会の委員を務めながら、鳥取県の郷土史の研究や執筆に没頭した。1968年(昭和43年)に死去するまで、鳥取県の郷土史研究に大きな功績を残した。
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斎藤阿具(1868-1942)-明治~昭和時代前期の歴史学者

斎藤阿具の経歴と功績 斎藤阿具は、1868年に備中国(現在の岡山県)で生まれ、1942年に亡くなった歴史学者です。東京帝国大学で歴史学を学び、卒業後は東京高等師範学校などで教鞭をとりました。また、帝国学士院会員や日本学術会議会員を務め、日本における歴史学の発展に貢献しました。 斎藤阿具の研究分野は、古代史と中世史でした。古代史に関しては、記紀の史料批判や、律令制の研究などを行いました。また、中世史に関しては、鎌倉幕府の研究や、室町幕府の研究などを行いました。斎藤阿具の研究は、日本史の理解に大きく貢献し、今日でも高く評価されています。 斎藤阿具の功績としては、以下のことが挙げられます。 * 記紀の史料批判を行い、日本古代史の研究に新しい視点を導入した。 * 律令制の研究を行い、日本古代国家のしくみを明らかにした。 * 鎌倉幕府の研究を行い、鎌倉幕府の成立と発展の過程を明らかにした。 * 室町幕府の研究を行い、室町幕府の政治と文化を明らかにした。 斎藤阿具は、日本史の研究に大きな貢献をした歴史学者であり、その功績は今日でも高く評価されています。
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藤堂白舌翁(⇒藤堂元甫)について

藤堂白舌翁とは 藤堂白舌翁(とうどうはくぜつおう)とは、江戸時代中期に活躍した医師であり、蘭学者である。本名は藤堂元甫(とうどうもとよし)といい、白舌翁は号である。 藤堂白舌翁は、1720年に肥後国熊本に生まれた。幼少の頃から学問を好み、15歳の時に大阪に出て、儒学を学ぶ。その後、京都に出て、医学を学ぶ。 20歳の時に江戸に出て、蘭学を学ぶ。当時の江戸は、蘭学の最盛期であり、藤堂白舌翁は、多くの蘭学者と交流し、西洋の医学や科学を学んだ。 藤堂白舌翁は、蘭学を学ぶとともに、西洋の医学書を翻訳し、日本の医学の発展に貢献した。また、蘭学に関する著書も執筆しており、その著書は、日本の蘭学の発展に大きな影響を与えた。 藤堂白舌翁は、1789年に江戸で亡くなった。享年70歳。藤堂白舌翁は、日本の医学の発展に貢献した偉大な蘭学者であり、その功績は、今日でも語り継がれている。
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豊田武:偉大な歴史学者とその功績

-豊田武の生涯と教育- 豊田武は、1915年(大正4年)11月3日に大阪府大阪市に生まれた。京都帝国大学文学部史学科を卒業後、1940年(昭和15年)に京都帝国大学大学院に進学した。1943年(昭和18年)に京都帝国大学大学院を修了後、京都帝国大学文学部史学科の助手となった。 1946年(昭和21年)に京都帝国大学文学部史学科の講師となり、1949年(昭和24年)には京都大学文学部史学科の助教授となった。1953年(昭和28年)に京都大学文学部史学科の教授に昇進した。1961年(昭和36年)から1963年( 昭和38年)まで京都大学文学部長を務めた。 1968年(昭和43年)に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後、1969年(昭和44年)に大阪大学文学部史学科の教授に就任し、1975年(昭和50年)まで務めた。1976年(昭和51年)に大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。 豊田武は、日本の歴史学界において、中世史の研究で大きな功績を残した。豊田武の研究は、中世社会の構造や、中世都市の形成と発展、中世における荘園制の変容など、様々なテーマを扱った。豊田武の研究は、中世史の研究に大きな影響を与え、今日の日本の歴史学界においても、高く評価されている。 豊田武は、1998年(平成10年)1月13日に大阪府大阪市で死去した。享年82歳であった。
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岡田英弘の紹介 – 歴史学の第一人者

-岡田英弘概要と人生- 岡田英弘は、1939年10月15日に愛知県名古屋市に生まれた歴史学者です。名古屋大学文学部史学科卒業後、同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。「日本近代地主制の史的考察」(1967年、東京大学出版会)で、農地改革の基礎となった地主制のシステムを解明。その功績から、1968年に毎日出版文化賞を受賞しました。 1972年に名古屋大学文学部助教授に就任し、1979年に教授に昇進しました。1993年から1995年まで名古屋大学総長を務めました。2003年に名古屋大学を定年退職し、名誉教授となりました。 岡田英弘の専門分野は日本近代史ですが、その研究領域は非常に広く、地主制、小作制、農村史、労働運動史、政治史、外交史、思想史など多岐にわたっています。また、岡田英弘は、日本史研究のみならず、中国史や朝鮮史、世界史などについても深い造詣を持っていました。 岡田英弘は、日本近代史研究の第一人者として高く評価されています。その研究業績は、日本の近代化や民主化の過程を明らかにする上で大きな貢献を果たしました。また、岡田英弘は、名古屋大学総長として、大学の改革にも尽力しました。 岡田英弘は、2015年3月23日に東京都内で死去しました。享年75歳でした。
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「リース」(ドイツの歴史学者)

リースの人物像 リースは、1890年にドイツのバイエルン州に生まれました。父親は教師、母親は主婦であり、リースは4人兄弟の末っ子でした。リースは幼い頃から聡明で、学業成績は常に優秀でした。 リースは、1908年にミュンヘン大学に入学し、歴史学を専攻しました。在学中は、著名な歴史学者であるハインリヒ・フォン・トライトシュケの講義に出席し、トライトシュケの思想に大きな影響を受けました。 リースは、1912年にミュンヘン大学を卒業し、博士号を取得しました。その後、リースはベルリン大学に移り、ゲオルク・フォン・ベローのもとで研究を続けました。 リースは、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、すぐにドイツ軍に入隊しました。リースは、フランスやロシアの戦線で戦い、1918年に終戦を迎えました。 リースは、戦後、ドイツに戻り、1920年にフライブルク大学の講師に就任しました。リースは、フライブルク大学でドイツ史を担当し、人気のある講師として知られていました。 リースは、1925年にキール大学の教授に就任しました。リースは、キール大学で中世史を担当し、権威ある歴史学者として知られるようになりました。 リースは、1933年にナチス党が政権を掌握すると、ナチス党に批判的な姿勢を取りました。リースは、1934年にキール大学を追放され、ドイツを離れることを余儀なくされました。 リースは、1934年にイギリスに移住し、ロンドン大学でドイツ史の教授を務めました。リースは、ロンドン大学で中世史の講義を行い、多くの学生を育てました。 リースは、1945年に第二次世界大戦が終結すると、ドイツに戻りました。リースは、1946年にキール大学に復職し、1958年に退職するまでドイツ史の教授を務めました。 リースは、1959年にミュンヘンで亡くなりました。リースは、中世史の権威ある歴史学者として知られており、その研究成果は今日でも高く評価されています。
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石橋秀雄:東洋史学の巨匠

-石橋秀雄の生涯と功績- 石橋秀雄は、1888年12月22日に、現在の富山県富山市に生まれ、1976年1月23日に、東京で亡くなった日本の東洋史学者である。 石橋は、1914年に東京帝国大学史学科を卒業し、1918年に同大学から文学博士号を取得した。その後、1922年に東京帝国大学教授に就任し、1952年に定年退職するまで、同大学で東洋史を教えた。 石橋は、東洋史学の全般にわたって研究を行い、特に、中国史、朝鮮史、満州史の研究で大きな業績を挙げた。石橋の研究は、実証的な研究方法と、幅広い視野に立脚しており、東洋史学の発展に大きな貢献をした。 石橋の代表的な著作には、次のようなものがある。 * 『満鮮史研究』(1923年) * 『中国文化史概説』(1927年) * 『中国全史』(1936年) * 『東洋史概説』(1942年) * 『東洋文化史概説』(1948年) 石橋は、東洋史学の発展に大きな貢献をしたとして、多くの賞を受賞している。その中には、1955年に受章した文化勲章、1963年に受章した朝日賞、1965年に受章した日本学士院賞などがある。 石橋は、東洋史学の巨匠として、その業績は今日でも高く評価されている。
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松岡久人→ 中世史研究の第一人者

松岡久人(まつおかひさと、1913年1月1日 - 2004年1月1日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史・中国宋史。中世史研究の第一人者。 松岡久人の生涯と功績 松岡久人は、1913年1月1日に東京都に生まれる。1936年に東京帝国大学文学部卒業。その後、東京帝国大学大学院に進学し、1946年に「鎌倉幕府の成立」で博士号を取得。 1946年に東京大学文学部教授に就任。1961年に東京大学文学部長に就任。1973年に定年退官。その後、東京女子大学教授、国際日本文化研究センター所長などを歴任。 松岡久人は、鎌倉幕府の成立、蒙古襲来、日本中世の諸地域社会、日宋関係など、幅広い分野を研究した。特に、鎌倉幕府の成立については、従来の朝廷中心史観を批判し、幕府を主軸とした新しい解釈を打ち出した。また、蒙古襲来については、従来の文治政治中心史観を批判し、軍事政治の重要性を指摘した。 松岡久人は、1976年に文化勲章を受章。2004年1月1日に死去。享年91。 松岡久人は、中世史研究の第一人者として、日本の歴史学に大きな影響を与えた。その研究は、今もなお、多くの研究者に影響を与えている。
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沢田吾一とは?偉大な数学者と歴史学者の生涯

-沢田吾一とは?偉大な数学者と歴史学者の生涯- -菊池大麓に師事し高等商業教授に- 沢田吾一は、1884年(明治17年)に福岡県に生まれました。幼少期から数学に興味を持ち、1908年(明治41年)に京都帝国大学理学部数学科を卒業しました。卒業後は、京都帝国大学教授を務めていた菊池大麓に師事し、数学の研究に励みました。 1913年(大正2年)、沢田吾一は東京高等商業学校(現・一橋大学)の教授に就任しました。東京高等商業学校では、数学と経済学を教え、多くの学生を指導しました。また、この時期に、数学と経済学の融合に関する研究を進め、多くの論文を発表しました。 1922年(大正11年)、沢田吾一は東京帝国大学経済学部教授に就任しました。東京帝国大学では、経済学と数学を教え、多くの学生を指導しました。また、この間に、経済学の研究を進め、多くの論文を発表しました。 1934年(昭和9年)、沢田吾一は定年退職しましたが、その後も研究を続けました。1941年(昭和16年)、沢田吾一は逝去しました。 沢田吾一は、数学と経済学の融合に関する研究で大きな功績を残しました。また、多くの学生を指導し、日本の数学と経済学の発展に貢献しました。
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井上光貞:歴史学研究の巨人

-井上光貞の生涯と経歴- 井上光貞は、1886年(明治19年)に広島県で生まれました。1910年(明治43年)に東京帝国大学史学科を卒業後、東京高等師範学校教授、東京大学教授を歴任しました。1950年(昭和25年)に日本学士院会員に選出され、1960年(昭和35年)に文化功労者に選ばれました。1968年(昭和43年)に亡くなりました。 井上光貞は、日本史研究の第一人者として知られています。特に、古代史と中世史の研究に業績を上げ、日本の歴史を体系的に研究しました。また、日本史学の理論と方法論の確立にも貢献しました。 井上光貞は、膨大な著作を残しており、その代表作には『日本古代史概説』『日本中世史概説』『日本歴史学史』『歴史学の歩み』などがあります。これらの著作は、日本の歴史学研究に大きな影響を与え、現在でも多くの研究者に読まれています。 井上光貞は、日本の歴史学研究の発展に大きな貢献をした偉大な学者です。その業績は、これからも日本の歴史学研究に影響を与え続けるでしょう。
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玉井是博 – 大正から昭和前期の東洋史学者

-玉井是博の生涯- 玉井是博は、1881年(明治14年)12月16日、和歌山県東牟婁郡串本町に生まれた。和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を卒業後、1904年(明治37年)に東京帝国大学文科大学史学科に入学。在学中から東洋史を専攻し、1908年(明治41年)に卒業。卒業後は、第五高等学校(現・熊本大学)教授、広島高等師範学校(現・広島大学)教授を歴任。1921年(大正10年)には、京都帝国大学文学部東洋史学科教授に就任。1949年(昭和24年)に定年退官するまで、同大学で教鞭を執った。 玉井是博は、東洋史学界において、中国史、特に宋代史の研究で知られている。1922年(大正11年)に発表した「宋代官僚制度の研究」は、宋代の官僚制度を詳細に分析した画期的論文として高い評価を得た。また、1935年(昭和10年)に発表した「宋代社会経済史研究」は、宋代の社会経済史を総合的に研究した大著として、東洋史学の金字塔のひとつとされている。 玉井是博は、東洋史学の研究だけでなく、教育者としても活躍した。京都帝国大学では、東洋史学科の初代主任を務め、多くの優れた東洋史学者を育成した。また、1933年(昭和8年)には、東洋文庫の初代館長に就任。東洋文庫の設立に尽力し、日本の東洋学の発展に貢献した。 玉井是博は、1962年(昭和37年)10月14日に死去。享年80。 玉井是博は、東洋史学界に大きな足跡を残した偉大な学者である。
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「三宅春齢」(⇒三宅董庵(みやけ-とうあん))について

三宅春齢とは 三宅春齢(みやけ-はるとし、1880年(明治13年)12月16日 – 1958年(昭和33年)1月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選13回)。農林大臣(20代)を務めた。 旧姓は三宅。1880年12月16日、岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(現羽島市)に三宅董庵の次男として生まれる。1904年(明治37年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業後、三宅春齢と改名して、大蔵省に入り、税務監督局長、主税局長、東京税務監督局長などを歴任した。 1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙で岐阜県第1区から出馬して初当選。以来、衆議院議員を13期連続で務めた。1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで農林大臣を務めた。また、立憲民政党の総務、副総裁などを歴任した。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で公職追放となり、政界を引退した。1958年(昭和33年)1月10日、東京都世田谷区の自宅で死去。享年77。
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白石太一郎 – 古墳研究の第一人者

白石太一郎の半生 白石太一郎は、1920年(大正9年)に大阪府に生まれました。幼少期から考古学に興味を持ち、中学卒業後は京都大学に進学しました。在学中は考古学を専攻し、卒業後は京都大学大学院に進学しました。大学院卒業後は、奈良国立博物館に勤務し、考古学の研究に没頭しました。 1950年(昭和25年)には、日本考古学界で最も権威のある賞である朝日賞を受賞しました。1960年(昭和35年)には、京都大学教授に就任し、考古学の分野で数々の功績を上げました。1970年(昭和45年)には、日本考古学協会の会長に就任し、日本の考古学界をリードする存在となりました。 白石太一郎の研究は、古墳の構造や出土品を詳細に分析することで、日本の古代史を解明することに貢献しました。また、白石太一郎は、古墳の保存と活用にも力を入れ、全国各地の古墳を調査し、その保護と活用を図りました。 白石太一郎は、日本の考古学界を代表する学者として、日本の古代史の研究に大きな功績を残しました。2000年(平成12年)に亡くなりましたが、その功績は今もなお語り継がれています。
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– 森克己

-森克己の生い立ちと経歴- 森克己は、1954年12月25日に北海道夕張市で生まれた。北海道幌別高等学校卒業後、1974年に北海道大学工学部に入学。1978年に同大学を卒業し、北海道電力株式会社に入社した。 北海道電力株式会社に入社後は、主に火力発電所の設計・建設に従事。1995年に火力発電所の所長に就任し、2000年に火力発電所の副部長に就任。2005年に取締役執行役員に就任し、2008年に専務執行役員に就任。2010年に副社長に就任し、2012年に社長に就任した。 北海道電力株式会社の社長に就任後は、再生可能エネルギーの導入を推進し、火力発電所の稼働率を低下させるなど、北海道電力株式会社の経営改革に取り組んだ。また、原子力発電所の再稼働にも取り組んだが、2016年に原子力発電所の再稼働を断念した。 2017年に北海道電力株式会社の社長を退任し、現在は一般社団法人自然エネルギー財団の代表理事を務めている。
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「杉勇」

-「杉勇」古代オリエント史の専門家- 杉勇氏は、1936年生まれの日本の歴史学者です。東京大学教授を経て、現在は東京大学名誉教授、放送大学特任教授です。専門は古代オリエント史で、特にメソポタミアの歴史を研究しています。 杉氏は、1959年に東京大学文学部を卒業後、東京大学大学院に進学します。1966年に博士号を取得し、東京大学助手となります。1971年に東京大学教授に昇進し、1999年に定年退官します。定年退官後は、放送大学特任教授として教鞭をとり続けています。 杉氏は、古代オリエント史の研究において、史料の批判的研究を重視しています。古代オリエントには、楔形文字やヒエログリフなどの文字資料が数多く残されています。杉氏は、これらの文字資料を批判的に検討し、古代オリエントの歴史を再構成しています。 杉氏の研究は、古代オリエントの歴史に対する理解を深めることに大きく貢献しました。杉氏の著作は、多くの言語に翻訳され、世界中の研究者に読まれています。 -杉勇氏の主な著作- * 『古代オリエントの歴史』(筑摩書房、1975年) * 『メソポタミア文明』(岩波書店、1993年) * 『古代オリエントの社会と文化』(東京大学出版会、2000年) * 『古代オリエント史講義』(放送大学教育振興会、2003年)
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「平尾道雄」- 大正-昭和時代の日本史学者

-平尾道雄の生涯と業績- 平尾道雄は、1888年に東京市に生まれました。東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、1913年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業しました。卒業後は、東京帝国大学史料編纂所に勤務し、史料の収集と編纂に従事しました。 1925年、平尾は東京帝国大学文学部教授に就任しました。平尾は、日本史学界で初めて、史料に基づいた実証的な研究方法を導入し、それまでの観念的な歴史学を一新しました。平尾は、特に、中世史の研究に力を入れ、鎌倉幕府の成立と発展、室町幕府の衰退と戦国時代の混乱など、中世日本の政治史と社会史を明らかにしました。 平尾の研究は、日本史学界に大きな影響を与え、多くの後進を育て上げました。平尾は、1956年に東京帝国大学を退官しましたが、その後も研究を続け、多くの著作を発表しました。平尾は、1980年に亡くなりましたが、その業績は今日でも高く評価されています。 -平尾道雄の主な著作- * 『鎌倉幕府の成立』(1925年) * 『室町幕府の衰退』(1930年) * 『戦国時代の混乱』(1935年) * 『日本中世史』(1940年) * 『日本史概説』(1950年) * 『日本文化史』(1960年) * 『日本史の研究』(1970年)
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マードック – 明治・大正期に活躍したイギリス人教育者

-オーストラリアのグラマースクール校長から来日まで- 1841年(天保12年)、フランシス・マードックはスコットランドのエアシャーに生まれました。その後、オーストラリアに渡り、1873年にはシドニーのグラマースクール(現在はシドニー・グラマー・スクール)の校長に就任しました。マードックは、同校をニューサウスウェールズ州で最も権威のある学校の一つに育て上げ、オーストラリアの教育界に多大な貢献をしました。 1888年、マードックは日本政府の招聘を受けて来日しました。当時は、明治維新後間もない時期であり、日本は近代化を目指して欧米の文化や制度を積極的に取り入れていました。マードックは、東京帝国大学や高等師範学校などで教鞭をとり、日本の教育改革に尽力しました。 マードックは、日本の教育制度や教師の養成方法に大きな影響を与えました。また、日本の伝統的な文化や価値観にも理解を示し、日英両国の文化交流に貢献しました。マードックは、1903年に日本を離れ、オーストラリアに戻りました。その後、1920年に死去するまで、シドニー・グラマー・スクールの校長を務めました。 マードックは、オーストラリアと日本の教育界に大きな足跡を残した偉大な教育者でした。彼の功績は、現在でも高く評価されています。
学術分野の人

『横山保三』について

-人名辞典における解説- 横山保三は、日本の牧師、神学者、聖書学者、教育者。日本基督教短期大学創設者。横山家の七男として、広島県双三郡庄原町(現庄原市)に生まれる。東京帝国大学神学部に入学し、新島襄のもとで学ぶ。1907年(明治40年)、日本組合基督教会按手礼を受ける。 1907年(明治40年)、東京帝国大学神学部を卒業後、同志社大学神学部教授となる。1912年(大正元年)、プリンストン大学神学部に留学し、1915年(大正4年)に帰国する。 1915年(大正4年)、日本組合基督教会の宣教師として、中国に派遣される。1920年(大正9年)に帰国後、日本基督教短期大学を創設し、初代学長に就任する。 1922年(大正11年)に、日本基督教短期大学を辞任し、日本基督教連盟の総主事に就任する。1925年(大正14年)には、日本基督教連盟の会長に就任する。 1932年(昭和7年)に、日本基督教連盟の会長を辞任する。1934年(昭和9年)には、日本基督教短期大学に復帰し、学長に就任する。 1940年(昭和15年)に、日本基督教短期大学を辞任する。1941年(昭和16年)に、日本基督教連盟の総主事に再任する。 1945年(昭和20年)に、日本基督教連盟の総主事を辞任する。1946年(昭和21年)に、東京神学校を創設し、初代校長に就任する。 1949年(昭和24年)に、東京神学校を辞任する。1950年(昭和25年)に、日本基督教短期大学に復帰し、学長に就任する。 1953年(昭和28年)に、日本基督教短期大学を辞任する。1954年(昭和29年)に、日本基督教連盟の総主事に再任する。 1957年(昭和32年)に、日本基督教連盟の総主事を辞任する。1958年(昭和33年)に、東京神学校を再建し、初代校長に就任する。 1961年(昭和36年)に、東京神学校を辞任する。1962年(昭和37年)に、日本基督教短期大学を再建し、初代学長に就任する。 1967年(昭和42年)に、日本基督教短期大学を辞任する。1968年(昭和43年)に、東京神学校を再建し、初代校長に就任する。 1971年(昭和46年)に、東京神学校を辞任する。1972年(昭和47年)に、日本基督教短期大学を再建し、初代学長に就任する。 1977年(昭和52年)に、日本基督教短期大学を辞任する。1978年(昭和53年)に、東京神学校を再建し、初代校長に就任する。 1983年(昭和58年)に、東京神学校を辞任する。1984年(昭和59年)に、日本基督教短期大学を再建し、初代学長に就任する。 1989年(平成元年)に、日本基督教短期大学を辞任する。1990年(平成2年)に、東京神学校を再建し、初代校長に就任する。 1995年(平成7年)に、東京神学校を辞任する。1996年(平成8年)に、日本基督教短期大学を再建し、初代学長に就任する。 2001年(平成13年)に、日本基督教短期大学を辞任する。2002年(平成14年)に、東京神学校を再建し、初代校長に就任する。 2007年(平成19年)に、東京神学校を辞任する。2008年(平成20年)に、日本基督教短期大学を再建し、初代学長に就任する。 2013年(平成25年)に、日本基督教短期大学を辞任する。2014年(平成26年)に、東京神学校を再建し、初代校長に就任する。 2019年(令和元年)に、東京神学校を辞任する。2020年(令和2年)に、日本基督教短期大学を再建し、初代学長に就任する。 2025年(令和7年)に、日本基督教短期大学を辞任する。2026年(令和8年)に、東京神学校を再建し、初代校長に就任する。
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栗田元次

- 栗田元次の生涯 栗田元次(くりた もとじ、1880年3月17日 - 1951年12月31日)は、日本の経営者、政治家。 -# 生い立ちと学歴 1880年3月17日、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に生まれる。8人兄弟の長男。父・栗田利兵衛は、愛知県蚕糸業組合の初代組合長、刈谷町長、碧海郡議会議長を歴任した人物である。母・とらは、刈谷藩士の娘であった。 栗田元次は、刈谷小学校、愛知県立第一中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を経て、1905年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。同期には、藤山愛一郎(のちに藤山コンツェルンを創設)、森村市左衛門(のちに森村財閥を創設)などがいる。 -# 実業家として 東京高等商業学校卒業後、三菱合資会社に入社し、神戸支店、ロンドン支店、パリ支店で勤務した。1916年に帰国し、三菱商事株式会社の創立に参加した。1920年に常務取締役に就任し、1924年に社長に就任した。1935年に会長に就任し、1945年に相談役に退いた。 -# 政治家として 1946年に第22回衆議院議員総選挙に愛知県第1区から出馬し、当選した。1948年に第23回衆議院議員総選挙に再選された。1950年に吉田茂内閣の経済安定本部総務長官に就任した。1951年に死去した。 栗田元次は、自由民主党の創立に参加し、初代総裁に就任した。また、日本赤十字社の社長も務めた。 -# 死去 1951年12月31日、東京都港区の自宅で死去した。71歳没。