由利公正

美術分野の人

久津見晴嵐:明治-昭和時代前期の華道家、茶道家

-明治13年に福井で山本竹雲に師事- 久津見晴嵐は、明治13年(1880年)に福井県で山本竹雲に師事しました。山本竹雲は、明治初期に活躍した華道家で、池坊の師範でもありました。久津見晴嵐は、山本竹雲のもとで華道の基礎を学び、明治17年(1884年)に上京して華道家の活動をスタートさせました。 久津見晴嵐は、上京後は、東京で華道の教室を開設し、多くの弟子を育てました。また、華道の展覧会にも積極的に参加し、明治23年(1890年)には、東京で開かれた「第1回全国華道大会」に出品して、入選を果たしました。 久津見晴嵐は、華道家として活躍するだけでなく、茶道家としても知られていました。明治27年(1894年)に、東京で茶道の教室を開設し、多くの弟子を育てました。また、茶道の展覧会にも積極的に参加し、明治32年(1899年)には、東京で開かれた「第1回全国茶道大会」に出品して、入選を果たしました。 久津見晴嵐は、明治-昭和時代前期を代表する華道家、茶道家として活躍しました。華道と茶道の両分野で活躍した久津見晴嵐は、日本の華道と茶道の発展に大きな貢献をした人物です。
歴史上の人物

吉田東篁 – 江戸後期から明治時代にかけて活躍した儒者

-吉田東篁の生涯- 吉田東篁は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した儒者である。名は寿、字は子晋、通称は源吾。号は東篁、または東篁子、橘園、春石、無何有。 東篁は、1771年(明和8年)11月24日、岡山藩士・吉田東江の子として生まれた。幼少の頃は、祖父の吉田東涯に儒学を学び、17歳の時に江戸に出て、儒学者・三浦梧楼の門下に入った。その後、19歳の時に、京都に出て、儒学者・尾藤二洲の門下に入った。 東篁は、二洲の門下で朱子学を学び、1796年(寛政8年)に、二洲の推薦で、岡山藩の藩校・弘道館の教授となった。東篁は、弘道館で、朱子学を講義し、門弟を数多く輩出した。また、この頃から、東篁は、朱子学のほかに、陽明学や古学にも関心を持ち始めた。 1806年(文化3年)、東篁は、江戸に出て、儒学者・林述斎の門下に入った。述斎は、朱子学の大家であり、東篁は、述斎から朱子学を学び、さらに朱子学に対する理解を深めた。 東篁は、述斎の門下で学んだ後、1811年(文化8年)に、岡山藩の藩校・弘道館の総裁となった。東篁は、弘道館の総裁として、朱子学を講義し、門弟を数多く輩出した。また、この頃から、東篁は、朱子学のほかに、仏教や神道にも関心を持ち始めた。 1837年(天保8年)、東篁は、弘道館の総裁を辞任し、京都に移り住んだ。東篁は、京都で、朱子学や仏教、神道などを講義し、門弟を数多く輩出した。また、この頃から、東篁は、朱子学のほかに、陽明学や古学にも関心を持ち始めた。 1850年(嘉永3年)、東篁は、京都で没した。享年80。 東篁は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した儒者であり、朱子学の大家として知られている。東篁は、朱子学のほかに、陽明学や古学、仏教、神道などにも関心を持ち、幅広い学問を修めた。東篁は、門弟を数多く輩出し、日本の儒学の発展に大きく貢献した。