督学

研究者

櫛田北渚 – 江戸後期から明治時代の儒者

- 櫛田北渚の生涯と経歴 櫛田北渚は、江戸後期から明治時代の儒者です。1804年、筑後国三潴郡(現在の福岡県柳川市)に生まれました。幼名は藤太、字は端木、号は北渚、通称は左衛門です。 北渚は、幼い頃から学問を好み、10歳の頃にはすでに漢詩を詠んでいました。13歳の時に、儒学者の八田知紀に入門し、儒学を学び始めました。18歳の時には、家出して江戸に遊学し、昌平黌に入学しました。しかし、昌平黌は1年ほどで退学し、その後は京都や大阪など各地を遍歴しながら儒学を学びました。 1833年、北渚は筑後に帰郷し、私塾を開いて儒学を教え始めました。1840年には、柳川藩の藩校である柳川藩校の教授に任命されました。北渚は、柳川藩校で20年以上教鞭を執り、多くの門下生を育て上げました。 1868年、明治維新が起こり、柳川藩は廃藩置県により柳川県となりました。北渚は、柳川県から学問所取調役を命じられ、柳川県の教育制度の改革に尽力しました。1871年には、東京府の学問所教授に任命され、東京府の教育制度の整備に貢献しました。 北渚は、1875年に東京府の学問所教授を辞任し、帰郷して私塾を開きました。北渚は、私塾で儒学を教えながら、郷土の歴史や文化の研究に励みました。1883年、北渚は郷土の歴史書である『筑後国史』を著しました。 北渚は、1889年に死去しました。享年86歳でした。北渚は、儒者としてだけでなく、教育者や郷土史家としても活躍し、明治時代の日本に大きな影響を与えました。
研究者

保岡川荘:維新に貢献した幕末・明治の儒学者

保岡川荘の生涯と功績 保岡川荘(1795-1864)は、幕末・明治時代の儒学者、教育者です。名は俊明、字は君直、号は川荘。現在の鹿児島県霧島市に生まれました。 川荘は幼少より学問に優れ、12歳で郷里の郷校に入学。16歳で江戸に出て、昌平黌で儒学を学びました。昌平黌では、朱子学を学び、特に伊藤仁斎の思想に傾倒しました。 1824年、川荘は郷里に戻り、私塾を開設して子弟を教育しました。1835年、薩摩藩の藩校である造士館の教授に任命されました。造士館では、儒学だけでなく、蘭学や西洋医学も教え、藩士の教育に尽力しました。 1853年、川荘はペリー率いるアメリカ艦隊の来航に際して、藩主島津斉彬の命を受け、交渉にあたりました。川荘は、アメリカと日本の文化の違いを理解し、両国の友好関係を築くために尽力しました。 1860年、川荘は、薩摩藩の藩主となった島津茂久の命を受け、遣欧使節団の一員としてヨーロッパに派遣されました。川荘は、ヨーロッパの文明を視察し、日本の近代化の必要性を痛感しました。 1864年、川荘は、薩摩藩の政変で失脚し、自刃しました。享年70歳でした。 川荘は、幕末・明治の維新に貢献した儒学者として、その功績を称えられています。
歴史上の偉人

川村竹坡の生涯と業績

-川村竹坡の経歴と生い立ち- 川村竹坡は、1822年10月17日、江戸で生まれた。名は、久吉。通称は、幸次郎。号は、竹坡、三城、角立。 竹坡の父、川村久兵衛は、両国で材木店を営んでいた。母、フサは、久兵衛の妻であり、竹坡の生母である。竹坡には、兄、姉がいた。 竹坡は、幼い頃から絵を描くことを好んだ。5歳の時には、すでに絵を描き始めていたという。10歳の頃には、江戸の人気画家、歌川国芳の門下生となり、浮世絵を学んだ。 国芳の門下生時代、竹坡は、歌川芳虎、歌川芳年、月岡芳年らと知り合い、親交を深めた。また、この頃、竹坡は、狂歌にも興味を持ち、狂歌師としても活動した。 竹坡は、1842年、20歳の時に、国芳の門下を離れ、独立した。そして、本所亀沢町に居を構え、絵師として活動を開始した。 竹坡は、浮世絵師として、美人画、役者絵、風景画など、様々なジャンルの絵を描いた。また、挿絵画家としても活躍し、多くの書籍や雑誌に挿絵を描いた。 竹坡は、1877年、55歳の時に、東京美術学校(現、東京藝術大学)の教授に就任した。竹坡は、東京美術学校で、浮世絵の技法を教え、後世の浮世絵師の育成に努めた。 竹坡は、1891年、69歳の時に、東京で亡くなった。竹坡の墓は、東京都台東区にある谷中霊園にある。 竹坡は、浮世絵師として、また、挿絵画家として、日本の近代美術に大きな貢献をした。竹坡の作品は、現在も多くの美術館や博物館に所蔵されており、多くの人々に愛されている。
研究者

石川香山-江戸時代の儒者

石川香山-江戸時代の儒者 石川香山の生涯 石川香山は、江戸時代前期の儒者。名は照宣、字は子昭。号は香山。京都に生まれる。父は石川高信。母は香川氏。幼少より学問に志し、10歳で朱子学を学ぶ。16歳で江戸に出て、荻生徂徠に師事する。徂徠の没後、香山は京都に戻り、私塾を開いて後進の指導に当たる。 香山は、徂徠の学問をさらに発展させ、独自の思想を展開した。その思想は「香山学」と呼ばれ、江戸時代の儒学に大きな影響を与えた。香山の学説は、儒教の伝統的な価値観を重視しながらも、現実主義的な姿勢をとっていた。また、香山は、朱子学の「理気二元論」を批判し、「理気一元論」を主張した。 香山は、政治思想家としても活躍した。彼は、徳川幕府の政治を批判し、理想的な政治体制を構想した。香山の政治思想は、後の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。 香山は、1728年、享年62歳で死去した。香山の死後、その学説は、門人によって継承され、江戸時代の儒学の主流の一つとなった。 香山は、江戸時代の儒学に大きな貢献をした儒者である。その学説は、後の日本の思想や政治に大きな影響を与えた。
歴史上の偉人

野上陳令

野上陳令
研究者

三木雲門とは?江戸時代中・後期の儒者

-三木雲門の生い立ちと経歴- 三木雲門は、江戸時代中・後期の儒者であり、名は啓、字は仲明、通称は九右衛門、雲門は号である。近江国大津(現・滋賀県大津市)に、三木自道の子として生まれる。 幼い頃から神童と呼ばれ、10歳の時に近江国の大儒者である中井竹山に師事して学問を修めた。その後、京都に出て、伊藤仁斎に学び、朱子学を修めた。 20歳の時に、大阪に出て、私塾を開いて儒学を講じた。その講義は、わかりやすく、面白く、評判を呼び、多くの門人が集まった。 30歳の時に、江戸に出て、浅草に私塾を開いた。その塾は、たちまち評判となり、多くの門人が集まった。 50歳の時に、将軍徳川家斉に召し出されて、昌平坂学問所の儒官となった。その学問は、家斉に認められ、重用された。 60歳の時に、致仕して、故郷の近江国大津に帰り、余生を過ごした。70歳の時に、亡くなった。 三木雲門は、儒学の大家として知られ、多くの門人を輩出した。その門下からは、佐藤一斎、大橋訥庵、安積艮斎など、多くの儒者が輩出した。
研究者

湯川麑洞 – 江戸後期から明治時代の儒者

湯川麑洞の生涯 湯川麑洞は、江戸後期から明治時代の儒者です。1806年(文化3年)に薩摩藩の鹿児島城下(現在の鹿児島市)に生まれました。名は守庸、字は士安、通称は健次郎、号は麑洞です。 麑洞は、幼い頃から聡明で、10歳で藩校の造士館に入学しました。造士館では、儒教や歴史、詩文などを学び、頭角を現しました。1826年(文政9年)には、藩主の島津斉興に抜擢され、藩の儒官となりました。 麑洞は、儒官として、藩主や家老に儒教の教えを講じ、藩政に参画しました。また、造士館で後進の指導にもあたりました。麑洞は、儒教を重んじる一方で、西欧の学問にも関心を持ち、積極的に取り入れました。 1868年(明治元年)、明治維新が起こると、麑洞は、新政府に出仕しました。新政府では、文部省の官僚として、学制の制定や教育改革に尽力しました。また、東京大学の前身である開成学校の校長も務めました。 麑洞は、1871年(明治4年)に病のため、56歳で死去しました。麑洞は、江戸後期から明治時代の日本における儒教の振興と近代化に貢献した人物として知られています。
歴史上の偉人

人物辞典-松平孫三郎(1825-1888)

松平孫三郎の生涯 松平孫三郎は、1825年に江戸で生まれた。父は松平定信、母は牧野貞成の娘である。幼名は長次郎、のちに孫太郎と改名した。1843年に従五位下侍従となり、1846年には若年寄に就任した。1853年にペリーが浦賀に来航すると、幕府の交渉役として派遣された。1854年には日米和親条約を締結し、1855年には日露和親条約を締結した。1858年には安政の大獄で失脚し、1859年には隠居した。1862年には政界に復帰し、1863年には老中に就任した。1864年には幕府の交渉役として長州藩と交渉し、1865年には長州征伐の総督に就任した。1866年には薩摩藩と長州藩の連合軍に敗北し、1867年には江戸城を明け渡し、幕府を倒した。1888年に東京で死去した。 松平孫三郎は、幕末の動乱期に活躍した幕臣である。日米和親条約や日露和親条約の締結に尽力し、幕府の外交政策を担った。また、長州征伐の総督を務め、薩摩藩と長州藩の連合軍と戦った。幕府の倒壊後は、明治政府に仕えた。 松平孫三郎は、幕末の動乱期に活躍した幕臣である。ペリー来航に際しては、幕府の交渉役として対応し、日米和親条約の締結に尽力した。また、長州征伐の総督を務め、薩摩藩と長州藩の連合軍と戦った。幕府の倒壊後は、明治政府に仕えた。
研究者

土岐貞範の人物像と功績

-儒者土岐貞範の生涯- 土岐貞範は、1557年に美濃国土岐郡土岐郷(現在の岐阜県土岐市)に生まれた。幼名は九郎兵衛。父は土岐頼貞であり、母は明智光秀の娘だった。貞範は幼い頃から聡明であり、15歳で京都に上り、儒学者である藤原惺窩に師事した。惺窩は貞範に朱子学を教え、貞範は朱子学を深く修めた。 1582年、本能寺の変で明智光秀が敗れ、貞範は主君を失った。その後、貞範は豊臣秀吉に仕えたが、1598年に秀吉が亡くなると、浪人となった。貞範は各地を転々とし、その間、朱子学の講義を行ったり、著書を著したりした。1625年、貞範は京都の東本願寺で没した。享年69歳。 貞範は朱子学の大家であり、その学問は多くの弟子たちに受け継がれた。貞範の弟子には、儒学者である林羅山、山崎闇斎、熊沢蕃山などがおり、彼らは貞範の学問をさらに発展させた。貞範の朱子学は、江戸時代の思想や政治に大きな影響を与えた。 貞範は、儒者としてだけでなく、政治家としても活躍した。1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、貞範は家康に仕えた。貞範は家康の側近として、様々な政治的助言を行った。貞範はまた、1603年に家康が江戸幕府を開くと、幕府の顧問として重きをなした。貞範は1625年に没するまで、幕府の顧問として活躍した。 貞範は、儒者として、政治家として、江戸時代に大きな功績を残した人物である。貞範の朱子学は、江戸時代の思想や政治に大きな影響を与えた。貞範の政治的手腕は、徳川幕府の安定に貢献した。貞範は、江戸時代の歴史を語る上で欠かせない人物である。
研究者

– 藤川冬斎

生い立ちと学問 藤川冬斎は、1850年(嘉永3年)に肥後国(熊本県)に生まれました。父は藤川直英、母は田籠ナオ。幼名は熊太郎、通称は茂登里。 冬斎は、5歳のときに父を亡くし、母と祖母に育てられました。幼い頃から学問に優れ、10歳のときには漢籍を読みこなしました。15歳のとき、熊本藩の藩校である時習館に入学。そこで、儒学を学び、頭角を現しました。 1871年(明治4年)、冬斎は上京し、東京大学に入学。経済学を学び、1875年(明治8年)に卒業しました。卒業後は、大蔵省に入り、官僚として働きました。 1881年(明治14年)、冬斎は、大蔵省を辞め、郷里の熊本に戻りました。そこで、熊本洋学校を創設し、校長を務めました。熊本洋学校は、九州初の洋学校であり、多くの有能な人材を輩出しました。 冬斎は、熊本洋学校で教鞭を執る傍ら、多くの著作を発表しました。その代表作が、「経済原論」です。「経済原論」は、日本の経済学の発展に大きな影響を与えた著作であり、現在でも経済学の教科書として使用されています。 冬斎は、1914年(大正3年)に死去しました。享年65。冬斎は、日本の経済学の発展に大きな貢献をした人物であり、その功績は今日でも高く評価されています。
研究者

岡田新川-江戸時代中期-後期の儒者

岡田新川の生涯と功績 岡田新川(1685~1751)は、江戸時代中期から後期の儒者です。名は晴村、字は子清、通称は十助。摂津国(現在の兵庫県)に生まれ、京都で学びました。 新川は、伊藤仁斎の門人である伊藤東涯に師事し、朱子学を学びました。東涯の死後、新川は京都に私塾を開き、多くの弟子を育てました。新川の講義は、わかりやすく、また、新川の穏やかな人柄もあいまって、多くの学生に人気がありました。 新川の学問は、朱子学を基盤としながらも、独自の工夫を加えたものでした。新川は、朱子学の理気二元論を批判し、理気一元論を唱えました。また、新川は、朱子学の性命の説を批判し、性善説を唱えました。 新川は、儒学の研究だけではなく、実学の研究にも力を入れていました。新川は、農業や経済、政治などについて、多くの著作を残しました。新川の著作は、当時の知識人の間で広く読まれ、大きな影響を与えました。 新川は、1751年に京都で亡くなりました。享年67。新川は、日本の儒学の発展に大きな貢献をした人物として、今日でも高く評価されています。
歴史上の偉人

「斎藤誠軒」→ 江戸末期から明治時代にかけて活躍した儒者

斎藤誠軒の生い立ちと学問 斎藤誠軒は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した儒学者です。1798年(寛政10年)、江戸に生まれました。名は象、字は子魚、通称は太郎左衛門。号は誠軒、茶翁、その他 numerous。 誠軒は、幼少の頃から学問を好み、13歳で昌平黌(しょうへいこう)に入学しました。昌平黌は、江戸幕府が設置した最高学府であり、誠軒はそこで儒学や漢学を学びました。 1821年(文政4年)、誠軒は昌平黌を卒業し、その後は各地を遊学して学問を深めました。そして、1831年(天保2年)には江戸に戻り、昌平黌の教授に就任しました。 誠軒は、昌平黌の教授として、多くの弟子を育て上げました。また、多くの著書を著し、儒学の普及に努めました。誠軒の著書は、明治維新後の日本に大きな影響を与えました。 誠軒は、1878年(明治11年)に死去しました。享年81歳でした。誠軒は、江戸時代末期から明治時代にかけて、日本における儒学の発展に大きな貢献をした人物です。
研究者

岡本晤叟 – 「阿波の儒者」

岡本晤叟の生涯と業績 岡本晤叟(1658-1739)は、江戸時代前期の儒者で、徳島藩の藩儒を務めました。名は光貞、字は伯恒、晤叟は号です。徳島藩士岡本家の出身で、幼少期から学問を好み、16歳で江戸に出て、儒学者荻生徂徠に師事しました。徂徠の没後、徳島藩に帰国し、藩儒として後進の指導にあたりました。 晤叟の学問は、徂徠の古文辞学を継承しつつ、独自の思想を打ち立てました。儒教の経典を尊重しつつも、盲目的に従うのではなく、理性を働かせて解釈すべきだと主張しました。また、武士の教育にも力を入れ、武芸だけでなく、文武両道を説きました。 晤叟の業績は、徂徠学の普及と発展に貢献したこと、藩儒として後進の指導にあたったこと、武士の教育に力を入れ、文武両道を説いたことなどが挙げられます。また、多くの著作を残しており、その代表作には『温故堂集』、『晤叟遺稿』などがあります。 晤叟は、阿波の儒者として知られ、その学問と業績は高く評価されています。現在でも、徳島県には晤叟の功績をしのぶ史跡や記念碑が残されており、毎年、晤叟の命日である12月13日には、徳島市内の温故堂で「晤叟忌」が行われています。
研究者

– 赤松蘭室

赤松蘭室の概要 赤松蘭室は、江戸時代の儒学者である赤松則村(号蘭室)が1757年に創設した私塾です。場所は現在の東京都文京区湯島にあり、昌平黌(しょうへいこう)と並んで江戸における最上の学府として知られていました。 赤松蘭室は、朱子学を基盤とした学問を教授する塾として創設されました。朱子学とは、宋代の儒学者である朱熹(しゅき)の学説を基としたもので、仁義礼智信の五常を重視し、格物致知の精神を説いています。赤松蘭室では、この朱子学を基盤とした学問を教授し、多くの優秀な人材を輩出しました。 赤松蘭室で学んだ著名人には、幕末の志士である吉田松陰や勝海舟、明治維新の立役者である木戸孝允や大久保利通などがいます。また、赤松蘭室は、昌平黌と並んで江戸における最上の学府として知られており、多くの藩士や庶民が学問を学ぶために塾を訪れていました。 赤松蘭室は、1871年に廃校となりましたが、その学統は明治以降も受け継がれ、現在でも多くの学校や大学に影響を与えています。
研究者

臼杵鹿垣

臼杵鹿垣の生涯 臼杵鹿垣は、臼杵市にある国指定史跡である。臼杵城の築城にともなって築かれた土塁であり、臼杵城とともに臼杵市の観光名所となっている。 臼杵鹿垣の築造時期は、臼杵城が築城された1567年(永禄10年)から1578年(天正6年)の間と考えられている。臼杵鹿垣は、臼杵城の防御を強化するために築かれたもので、臼杵城の周囲をコの字形に囲んでいる。臼杵鹿垣の総延長は約2.4kmであり、高さは約3mである。 臼杵鹿垣は、臼杵城とともに臼杵市の歴史を象徴する建造物である。臼杵鹿垣は、臼杵城の防御を強化するために築かれたものであり、臼杵城とともに臼杵市の観光名所となっている。 臼杵鹿垣は、臼杵城の築城にともなって築かれた土塁である。臼杵鹿垣は、臼杵城の周囲をコの字形に囲んでいる。臼杵鹿垣の総延長は約2.4kmであり、高さは約3mである。 臼杵鹿垣は、臼杵城とともに臼杵市の歴史を象徴する建造物である。臼杵鹿垣は、臼杵城の防御を強化するために築かれたものであり、臼杵城とともに臼杵市の観光名所となっている。
研究者

人と学問の辞典 その93 「野村藤陰」

野村藤陰の生涯と業績 野村藤陰(1629-1706)は、江戸時代中期の儒学者・漢詩人です。備前国(岡山県)出身で、本姓は藤原氏、名は春道、字は季常、号は藤陰・松蔭・東隅子など。 備前国児島郡東阿知村(現・岡山県倉敷市児島)の豪農野村呉右衛門の次男として生まれました。幼少期から聡明で、8歳の時に儒学者・宮本賀賓に入門して漢学を学びました。16歳の時に京都に出て、儒学者・山鹿素行に入門して陽明学を学びました。その後、江戸に出て、儒学者・伊藤仁斎に入門して古文辞学を学びました。 30歳の時に、備前国に戻り、郷里で私塾を開いて子弟を教育しました。彼の門下からは、儒学者・熊沢蕃山、漢詩人・太宰春台、儒学者・三宅石庵など、多くの優秀な人材が輩出されました。 藤陰は、陽明学と古文辞学を融合させた独自の学問を唱え、幕藩体制を批判しました。また、漢詩にも優れ、多くの漢詩を創作しました。彼の漢詩は、情景描写が鮮やかで、思想性が高いと評価されています。 1706年、78歳の時に死去しました。彼の墓は、岡山県倉敷市児島の宝林寺にあります。 藤陰は、江戸時代中期の儒学界に大きな影響を与えた儒学者・漢詩人です。彼の学問は、幕藩体制を批判し、新しい思想を唱えるものでした。また、彼の漢詩は、情景描写が鮮やかで、思想性が高いと評価されています。藤陰は、江戸時代中期を代表する儒学者・漢詩人として、今日でも高く評価されています。