石川忠総

歴史上の偉人

織豊~徳川の武将・大久保忠為の生涯

- 大久保忠為の生涯 大久保忠為(おおくぼただため)は、織豊時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・大名です。豊臣秀吉に仕えて頭角を現し、徳川家康の時代にも重用されました。 -# 豊臣秀吉に仕える 大久保忠為は、1544年に三河国(現在の愛知県)で生まれました。父は大久保忠員、母は織田信長の妹である織田信定の娘です。忠為は、幼い頃から武芸に秀でており、15歳の時に豊臣秀吉に仕官しました。 秀吉に仕えた忠為は、賤ヶ岳の戦いや九州平定など、数々の戦いで活躍します。また、行政手腕にも優れており、豊臣政権下で五大老の1人に任命されました。 -# 徳川家康に仕える 1600年の関ヶ原の戦いでは、忠為は徳川家康方に味方しました。戦後、忠為は家康から伊予国(現在の愛媛県)松山藩20万石を与えられました。 家康に仕えた忠為は、江戸幕府の初代老中として活躍しました。また、大阪夏の陣では、徳川軍の総大将を務め、豊臣氏を滅ぼしたことで知られています。 -# 死去 忠為は、1613年に死去しました。享年70歳でした。忠為の死後、松山藩は大久保忠隣が継ぎました。 -# 大久保忠為の人物像 大久保忠為は、武勇に優れ、行政手腕にも優れた武将でした。また、家康に忠義を尽くし、江戸幕府の安定に貢献した人物としても知られています。
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石川忠総:大久保忠隣次男にして江戸時代前期の大名

石川忠総の生い立ちと家康との出会い 石川忠総は、明智光秀による本能寺の変ののち、播磨まで侵攻してきていた毛利輝元に備えるべく、織田信長の命令で毛利の背後に位置する山陰出雲・伯耆を平定するべく大久保忠隣が派遣され、安濃津から出港した際に海上暴風雨に遭い、伯耆国御宿の浜(現境港市)に漂着して出生したとされます。 幼名は鎌之助、のちに徳川家康より拝領した偏諱により忠総と称します。忠総の母は本多平八郎忠勝の娘の久能殿とされます。 大久保忠隣が毛利と戦い、忠総2歳の時に討死したため、徳川家康に預けられて養育されることとなり、家康の三河国模範牧場(牛馬牧場)にて、子飼いの牛馬番として育てられました。また、祖父の大久保忠教の跡を継いで、駿河国田中城一万石の城主となりました。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に味方して戦い、功績を挙げます。そして、戦後には、近江国膳所城城主として、10万石の所領を安堵されます。また、家康の信任を得て、大老となった大久保忠隣と同様、忠総も老中として幕政に参与するようになりました。 忠総は、徳川家康の信任を得て、江戸幕府草創期の政治に大きな影響力を持ちました。そして、慶長19年(1614年)に、従四位下侍従に昇進し、越後国村上藩主として移封されます。そして、忠総は、村上藩主として藩政に力を尽くし、産業振興や領内の道路整備などを行い、藩の経済発展に貢献しました。