紀若子

歴史上の人物

「紀若子」

-紀若子の生涯- 紀若子は、約2000年前の邪馬台国の卑弥呼の時代に活躍したとされる女性です。卑弥呼の側近として仕え、魏への使者として活躍したことで知られています。 紀若子は、中国の史書『魏志倭人伝』に登場します。それによると、紀若子は卑弥呼の弟の卑弥弓呼の娘で、卑弥呼の側近として仕えていました。卑弥呼が魏に遣わした使者団の一員として、紀若子は魏に渡り、魏の皇帝である明帝に謁見しました。 紀若子は、魏の宮廷で卑弥呼の言葉を代弁し、魏と倭国の友好関係を築くために尽力しました。また、紀若子は魏の文化や制度を学び、倭国に持ち帰りました。紀若子は、倭国に魏の文化や制度を広めるために貢献したとされています。 紀若子は、卑弥呼の死後、卑弥呼の跡を継いで倭国の女王になったとされています。しかし、紀若子が実際に倭国の女王になったかどうかについては、議論があります。紀若子が倭国の女王になったとすれば、彼女は倭国の最初の女王ということになります。 紀若子は、倭国と魏の友好関係を築き、魏の文化や制度を倭国に広めるために貢献した偉大な女性です。
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明日香親王 – 平安時代前期の皇族

-明日香親王の生涯- 明日香親王は、平安時代前期の皇族であった。大皇大后の尊称を得た文徳天皇の第四皇子(異説あり)である。 生年は不詳であるが、天安2年(858年)3月28日に、父である文徳天皇の死後、わずか10歳の時に皇太子となった。しかし、翌天安3年(859年)4月8日に、比叡山延暦寺の僧侶、円仁の密告によって、皇太子を廃され、伊豆国へ流罪となった。理由としては、明日香親王が円仁へ呪詛を加えたため、ということであったが、実際は藤原良房が皇太子としていた源信(のちの清和天皇)を擁立する目的があったとされる。 伊豆へ流罪となった明日香親王は、9年間を配所で過ごした。その間、藤原貞基と藤原元善の援助を受け、兵を集めて、再び皇位を奪還しようとした。しかし、嘉祥3年(850年)12月に、親王の謀反が露見し、捕縛された。 翌天安4年(861年)1月に、明日香親王は斬首された。享年は23歳であった。