研究者

勝屋四郎とは – 江戸後期の有職家

-勝屋四郎の生涯- 勝屋四郎は、江戸時代後期の有職家です。文化12年(1815年)、江戸に生まれました。父親は、勝屋清房。幼い頃から学問に秀で、16歳の時に、有職家である烏丸光胤の弟子となりました。 烏丸光胤のもとで、有職故実を学び、22歳の時に、従五位下侍従に叙任されます。その後、京都所司代に任命され、京都の治安維持に努めました。 天保14年(1843年)、徳川家慶が死去すると、その遺言により、勝屋四郎は、徳川家慶の養子となり、徳川慶喜の兄となりました。しかし、慶喜は、将軍になることを拒否したため、勝屋四郎は、その代わりに、将軍となりました。 第14代将軍となった勝屋四郎は、有職故実に基づいた政治を行い、朝廷との関係を強化しました。また、外国との交渉にも尽力し、日米修好通商条約を締結しました。 しかし、安政5年(1858年)、大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、勝屋四郎は、井伊直弼の遺志を継いで、攘夷政策を推進しました。 文久2年(1862年)、勝屋四郎は、攘夷派の圧力に屈して、攘夷の勅許を下しました。しかし、攘夷派が京都で暴徒化すると、勝屋四郎は、攘夷派を鎮圧し、京都から追放しました。 元治元年(1864年)、長州藩が京都に侵攻すると、勝屋四郎は、長州藩を撃退しました。しかし、長州藩は、その後も、京都に侵攻を続け、慶応2年(1866年)に、京都を占領しました。 京都を占領された勝屋四郎は、江戸に逃れ、江戸城に立てこもりました。しかし、長州藩と薩摩藩の連合軍に敗れ、江戸城を明け渡しました。 慶応4年(1868年)、勝屋四郎は、戊辰戦争で敗れ、明治政府に降伏しました。その後、静岡藩主となり、明治12年(1879年)に死去しました。
芸術家

雲谷等益 – 江戸時代前期の画家

-雲谷等益の生涯- 雲谷等益は、江戸時代前期の画家です。本姓を藤堂氏といい、別号を七兵衛、道誉、道賀、道楽、等誉、等益などといいます。 1633年(寛永10年)に京都で生まれ、1690年(元禄3年)に同地で亡くなりました。 雲谷等益は、幼い頃から絵を描き始め、15歳の時に京都の画人、狩野探幽に入門しました。狩野探幽は、当時、江戸幕府の絵師として活躍していた有名な画家であり、雲谷等益は、その教えを受けて、狩野派の画風を学びました。 しかし、雲谷等益は、狩野派の画風が物足りないと感じ、独自の絵画表現を模索し始めました。そこで、狩野探幽のもとを離れ、中国の画風や日本の古画を研究するようになりました。 雲谷等益は、独自の絵画表現を確立し、狩野派とは異なる新しい画風を打ち立てました。彼の画風は、繊細な筆致と淡い色彩で、山水や花鳥を写実的に描いたもので、写生派とも呼ばれています。 雲谷等益は、その画風で、多くの絵画を描き、人々の注目を集めました。そして、江戸幕府の御用絵師として活躍するようになりました。 雲谷等益は、60歳で亡くなりましたが、彼の画風は、後の画家たちに大きな影響を与え、日本の絵画の歴史に大きな足跡を残しました。
歴史上の偉人

辻維岳:幕末から明治の激動期を駆け抜けた武士、官僚

-安芸広島藩の執政としての大政奉還推進- 辻維岳は、安芸広島藩の執政として、大政奉還を推進する上で重要な役割を果たしました。1864年に藩主浅野長訓の命を受けて上洛し、朝廷との交渉にあたりました。維岳は、朝廷に大政奉還を求める建白書を提出するとともに、薩摩藩や長州藩との連携を図りました。また、江戸幕府との交渉にもあたり、幕府を大政奉還に同意させました。維岳の活躍により、1867年に大政奉還が実現し、日本の近代化への道が大きく前進しました。 維岳が安芸広島藩の執政として大政奉還を推進できた背景には、彼の優れた政治的手腕と幅広い人脈がありました。維岳は、幼い頃から漢学を学び、藩校「講道館」で学問を修めました。また、江戸に出て、幕府の政治を学びました。維岳は、政治だけでなく、経済や軍事にも詳しく、藩政改革を推し進めました。また、維岳は、薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の木戸孝允など、倒幕派の志士たちと親交を深めていました。維岳の人脈と政治的手腕が、大政奉還を実現する上で大きな役割を果たしました。 大政奉還の推進は、維岳の最も重要な功績の一つです。維岳の活躍により、日本は近代化への道を大きく前進させることができました。維岳は、日本の近代化に貢献した偉大な政治家の一人と言えるでしょう。
研究者

松永周甫-江戸後期から明治時代にかけて活躍した医師や本草家

周甫の歩みと医学的貢献 松永周甫は、1795年(寛政7年)に肥後国(現在の熊本県)で生まれました。幼い頃から医学に興味を持ち、地元の医師に弟子入りして医学を学びました。その後、江戸に出て、当時著名な医師であった華岡青洲の門下生となり、さらに医学の研鑽を積みました。 周甫は、蘭学にも通じており、西洋の医学書を翻訳したり、西洋の医学器械を導入したりするなど、医学の近代化に貢献しました。また、本草学にも詳しく、多くの薬草に関する著書を残しています。 周甫の最も有名な医学的貢献は、日本初の種痘法の開発です。種痘法とは、天然痘の予防接種法の一種で、天然痘のウイルスの弱毒化したものを人体に接種することで、天然痘に対する免疫を獲得しようとするものです。周甫は、1849年(嘉永2年)に日本初の種痘法である「牛痘予防法」を発表し、天然痘の予防に貢献しました。 周甫は、1857年(安政4年)に63歳で亡くなりましたが、その医学的貢献は現在でも高く評価されています。周甫の残した医学書や本草書は、現在でも医学史や薬学史の貴重な資料として利用されています。 周甫の歩みと医学的貢献は、以下の通りです。 * 1795年(寛政7年)肥後国(現在の熊本県)に生まれる。 * 青年期地元の医師に弟子入りして医学を学ぶ。 * 江戸に出て、華岡青洲の門下生となる。 * 西洋の医学書を翻訳したり、西洋の医学器械を導入したりするなど、医学の近代化に貢献する。 * 本草学にも詳しく、多くの薬草に関する著書を残す。 * 1849年(嘉永2年)日本初の種痘法である「牛痘予防法」を発表し、天然痘の予防に貢献する。 * 1857年(安政4年)63歳で亡くなる。
歴史上の偉人

– 坂時存(江戸時代中期の武士,漢学者)

-坂時存の生涯- 坂時存(さか ときまさ、1684年(貞享元年) - 1749年11月29日(寛延2年11月1日))享保の改革で幕府に登用され、主計頭や銀座役人を歴任した江戸時代中期の武士、漢学者。 1684年(貞享元年)5月27日、江戸浅草橋に生まれる。父は江戸幕府の旗本・坂貞信。幼名は栄蔵。1695年(元禄8年)、父が没した後、11歳で家督を相続し、赤穂藩主・浅野長矩の御家人となる。 1701年(元禄14年)、17歳で江戸に出て、儒学者・藤井正貞に師事し、漢学を学ぶ。1704年(宝永元年)、20歳で浅野長矩に従い、赤穂藩に帰国する。1708年(宝永5年)、赤穂藩士・吉良義央と浅野長矩が江戸城内で刃傷沙汰を起こし、浅野長矩が切腹したため、赤穂藩は改易された。時存は浪人となり、江戸に戻って再び藤井正貞に師事し、漢学を学ぶ。 1716年(享保元年)、享保の改革で幕府に登用され、主計頭となる。1719年(享保4年)には、銀座役人を兼任する。1721年(享保6年)、江戸城火災の責任を問われて失脚する。1724年(享保9年)、銀座役人に復帰する。1735年(享保20年)、主計頭と銀座役人を辞任する。1749年(寛延2年)11月29日、江戸で死去する。享年65。 時存は、漢学に優れ、多くの著書がある。代表作に、『古今諸家詩文鈔』、『唐詩正韻』、『文選指南』などがある。また、書家としても知られ、その書は「坂流」と呼ばれて珍重された。