著述

歴史上の偉人

【幕末の儒者】木内順二とその生涯

- 木内順二の生い立ちと学問 木内順二は、1789年(寛政元年)に播磨国姫路藩領国分寺村(現・兵庫県姫路市国分寺町)に生まれた。父は医師の木内順庵、母は田能氏の娘である。順二は幼少の頃から聡明で、5歳で漢学を学び始めた。11歳のときに姫路藩の儒官・松島玄朔の門下に入り、朱子学を学んだ。 順二は17歳で江戸に遊学し、佐藤一斎の門下に入った。一斎は朱子学の大家として知られ、その学問は幕末の儒学者たちに大きな影響を与えた。順二は一斎のもとで朱子学を深く学び、また、古文辞学や経世済民の学問にも通じた。 順二は19歳で姫路藩に帰国し、藩の儒官となった。藩政改革や教育制度の整備などに尽力し、藩の改革に貢献した。また、順二は藩の学問所である好古堂の教授となり、多くの門下生を育てた。 順二は儒学者としてだけでなく、詩人としても知られている。その詩は清澄で格調高く、幕末の文人たちに愛好された。順二は1862年(文久2年)に64歳で亡くなった。
政治家・活動家

小林雄七郎:明治時代の政治家と文筆家

小林雄七郎の生涯と経歴 小林雄七郎は、1851年(嘉永4年)に現在の長野県飯田市で生まれました。家業は薬種商で、幼い頃から漢籍を学び、その後、東京に出て慶應義塾に入学しました。 慶應義塾では、福澤諭吉に師事し、政治や経済を学びました。卒業後は、民権運動に参加し、1881年(明治14年)に国会開設運動の急先鋒として活躍しました。 1887年(明治20年)には、第1回衆議院議員総選挙に当選し、政界入りしました。衆議院議員としては、立憲改進党の幹部として活躍し、1890年(明治23年)には、第1次松方内閣で逓信大臣に就任しました。 その後、政界を引退し、文筆活動に専念しました。1919年(大正8年)には、第1回文化勲章を受章しました。1933年(昭和8年)に、82歳で亡くなりました。 小林雄七郎は、明治時代の政治家、文筆家として活躍した人物です。民権運動に参加し、国会開設運動を推進しました。また、衆議院議員として立憲改進党の幹部として活躍し、逓信大臣も務めました。政界引退後は、文筆活動に専念し、第1回文化勲章を受章しました。
歴史上の偉人

「奈良本辰也」-明治、大正、昭和、平成を駆け抜けた日本史学者

奈良本辰也の生涯と功績 奈良本辰也は、1862年(文久2年)に、現在の千葉県印西市で生まれました。幼少の頃から歴史を好み、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学してからは、三宅雪嶺や坪内逍遥らの指導を受け、1887年(明治20年)に卒業しました。卒業後は、東京専門学校の助教授となり、歴史学の研究と教育に携わりました。 1893年(明治26年)には、東京帝国大学(現在の東京大学)の教授に就任し、日本の歴史学の発展に大きな貢献をしました。奈良本は、史料に基づく実証的な研究を重視し、日本史の通史である『日本通史』や、日本古代史の研究書である『日本古代史』など、数多くの著作を発表しました。また、奈良本は、歴史学の教育にも熱心に取り組み、多くの学生を育て上げました。 奈良本は、明治、大正、昭和、平成の4つの時代を駆け抜け、日本の歴史学の発展に大きな貢献をした偉大な歴史学者です。奈良本の著作は、現在でも歴史学の研究や教育に広く利用されており、その功績は高く評価されています。 奈良本の主な著作は以下の通りです。 * 『日本通史』(1903年) * 『日本古代史』(1907年) * 『日本中世史』(1913年) * 『日本近世史』(1919年) * 『日本現代史』(1925年) * 『日本文化史』(1931年) * 『日本外交史』(1937年) * 『日本思想史』(1942年) * 『日本経済史』(1948年) * 『日本社会史』(1953年)
研究者

「伊藤東涯」

-伊藤東涯の生涯と業績- 伊藤東涯は江戸時代前期の儒学者・思想家・史学者。名は信友、通称は弥次右衛門。号は東涯。別号は孤雲、無尽、莆陽、春暉、雪窓。 1670年、江戸の尾張藩士伊藤仁兵衛の三男として生まれた。13歳で儒学者の松永尺五に師事し、18歳で藩主徳川綱吉の侍講となった。綱吉の信任が厚く、1696年には柳沢吉保とともに勘定奉行に任命され、1701年には大目付に昇進した。 東涯は儒学のほか、医学・天文・数学などにも通じ、多くの著作を残した。代表作には、『論語古義』、『孟子古義』、『春秋左氏伝古義』などの儒学の注釈書、『医書精義』、『天文書精義』、『数学書精義』などの科学書、『東武実録』、『北窓瑣談』などの歴史書などがある。 東涯の儒学は、朱子学を批判し、より合理主義的な儒学を唱えた。また、彼は経世済民の学問を重視し、儒学を政治や社会の改革に役立てようとした。 東涯は74歳で没した。彼の死後、その学問は多くの弟子たちによって受け継がれ、江戸儒学の発展に大きな影響を与えた。 -主な著作- * 『論語古義』 * 『孟子古義』 * 『春秋左氏伝古義』 * 『医書精義』 * 『天文書精義』 * 『数学書精義』 * 『東武実録』 * 『北窓瑣談』
研究者

「鈴鹿連胤」- 江戸後期~明治の国学者

「鈴鹿連胤の生涯」 鈴鹿連胤(1784-1843)は、江戸後期~明治の国学者です。 連胤は、1784年に伊勢国鈴鹿郡(現在の三重県鈴鹿市)に生まれました。幼いころから学問を好み、15歳のときには京都に上って儒学を学びました。その後、国学に興味を持ち、賀茂真淵の門下生となり、国学の研究に励みました。 連胤は、真淵の没後は、真淵の門下生である本居宣長の門下生となり、宣長から古事記・万葉集の講義を受けました。連胤は、宣長の教えを忠実に受け継ぎ、国学の研究に没頭しました。 宣長の死後、連胤は宣長の遺志を継いで、国学の研究と普及に努めました。連胤は、多くの著作を著し、国学の普及に貢献しました。また、連胤は、国学者の養成にも努め、多くの門下生を育てました。 連胤は、1843年に死去しました。享年60歳でした。連胤は、国学の発展に大きく貢献した国学者として知られています。 連胤の主な著作としては、以下のものがあります。 * 「鈴鹿連胤集」 * 「鈴鹿連胤遺稿」 * 「鈴鹿連胤講義録」 * 「鈴鹿連胤日記」
研究者

– 加藤咄堂

# 加藤咄堂の生涯 加藤咄堂(かとう とつどう、1879年(明治12年)3月4日 - 1968年(昭和43年)10月28日)は、日本の医師、詩人、歌人、俳人、僧侶。 - 幼少期と青年期 加藤咄堂は、1879年(明治12年)3月4日、大分県北海部郡下毛郡高田町(現在の臼杵市)に加藤和右衛門、いよ夫妻の三男として生まれた。幼名は、三太郎。 地元の小学校卒業後、臼杵中学(現在の臼杵高等学校)に進学。卒業後は、日本医学校(現在の日本大学医学部)に入学。1904年(明治37年)に卒業し、医師免許を取得。 卒業後は、東京で開業医として働きながら、詩歌や俳句の創作を始めた。1911年(明治44年)に、第一歌集『我が涙』を刊行。この歌集は、当時の歌壇に大きな衝撃を与え、咄堂は歌人として一躍有名になった。 - 僧侶として 1918年(大正7年)、咄堂は、郷里の大分県に戻り、臨済宗妙心寺派の僧侶となった。法名は、咄堂宗賀。僧侶となった後は、主に詩歌や俳句の創作に専念し、多くの作品を残した。 咄堂は、1926年(大正15年)に、第二歌集『海ほたる』を刊行。この歌集は、自然を愛する心や、人生の哀愁を詠んだ作品が多く収められており、大きな反響を呼んだ。 咄堂は、僧侶としてだけでなく、詩人、歌人、俳人としても活躍し、多くの作品を残した。その作品には、自然を愛する心や、人生の哀愁が色濃く表れている。咄堂は、1968年(昭和43年)10月28日、89歳で死去。
歴史上の偉人

芳村夭仙 – 江戸時代前期から中期の医師

- -芳村夭仙の生涯と経歴- 芳村夭仙は、江戸時代前期から中期の医師です。1656年(明暦2年)に京都で生まれ、1727年(享保12年)に72歳で亡くなりました。 夭仙は、幼い頃から聡明で、医学を志しました。10代の頃から医術を学び始め、20歳頃には開業医となりました。夭仙は、医術に優れており、多くの患者を診ていました。また、夭仙は、医書を著しており、その著作は、多くの医師に読まれました。 夭仙は、生涯を通じて、医術を学び続けました。夭仙は、中国の医学書を研究しており、中国の医学を取り入れていました。また、夭仙は、西洋の医学にも興味を持っており、西洋の医学書を翻訳していました。 夭仙は、日本の医学の発展に貢献した医師です。夭仙の著作は、多くの医師に読まれ、夭仙の医術は、多くの患者を救いました。夭仙は、日本の医学史において、重要な人物です。
研究者

「水走平岡」

-水走平岡の生涯- 水走平岡(1872-1954)は、明治から昭和時代にかけて活躍した日本の芸術家です。東京に生まれ、幼少期から絵画の才能を発揮しました。東京美術学校で学び、卒業後は同校の助教授となりました。その後、ヨーロッパに留学し、西洋の芸術を学びました。帰国後は、日本美術院の会員となり、日本の伝統的な絵画を研究しました。独自の画風を確立し、多くの作品を残しました。 水走平岡は、主に山水画を描きました。彼の山水画は、中国の伝統的な山水画の影響を受けながらも、独自の日本的な美意識が表現されています。彼の作品は、日本の近代美術史において重要な位置を占めています。 水走平岡は、絵画以外にも、彫刻や工芸、文学など、様々な分野で活躍しました。彼は、日本の芸術界に多大な貢献をした偉大な芸術家です。 -主な作品- *「富士山」(1910年) *「松島」(1920年) *「黒部川」(1930年) *「白馬連峰」(1940年) *「厳島」(1950年) -展覧会- *「水走平岡展」(1930年、東京国立近代美術館) *「水走平岡回顧展」(1955年、東京国立近代美術館) *「水走平岡生誕100周年記念展」(1972年、東京国立近代美術館) -受賞歴- *「文化勲章」(1951年) *「日本芸術院賞」(1935年) *「東京府知事賞」(1930年)
研究者

福原謙七 – 明治-大正時代の教育者

-福原謙七の生涯- 福原謙七は、1861年(文久元年)に現在の石川県金沢市に生まれました。1882年(明治15年)に東京高等師範学校を卒業後、石川県尋常師範学校の教諭に任命されました。その後、1890年(明治23年)に東京高等師範学校教授に就任し、1901年(明治34年)には校長に昇進しました。 福原謙七は、校長在任中に東京高等師範学校を近代的な教育機関に改革しました。彼は、教員養成課程を拡充し、研究を重視する教育方針を打ち出しました。また、体育や芸術教育にも力を入れ、東京高等師範学校を日本の教育界を牽引する学校に育て上げました。 福原謙七は、1909年(明治42年)に東京帝国大学教授に就任し、1913年(大正2年)に文部大臣に就任しました。文部大臣在任中に、彼は小学校教育の充実や中等教育の改革に取り組みました。また、日本の教育界における女性の地位向上にも尽力しました。 福原謙七は、1920年(大正9年)に文部大臣を辞任し、1927年(昭和2年)に亡くなりました。彼の功績は日本の教育界に大きな影響を与え、今日でも近代教育の父として敬愛されています。
歴史上の偉人

木村芥舟 – 幕末の武士・海軍所頭取

- 坂本龍馬らと交流を持った人物 木村芥舟は、幕末の武士であり、海軍所頭取を務めました。海援隊の坂本龍馬とは、親交を深めたことで知られています。 ある日、龍馬は軍艦を建造するための資金調達のため、芥舟を訪ねました。芥舟は龍馬の志に共感し、資金を提供しました。また、龍馬の脱藩を助け、海援隊の結成にも協力しました。 龍馬と芥舟は、幕末の動乱期において、日本の将来について語り合いました。芥舟は、龍馬の考えに同意し、龍馬の行動を支持しました。 龍馬が暗殺された後、芥舟は龍馬の遺志を継いで、幕府の倒壊と明治維新に尽力しました。戊辰戦争では、新政府軍の総督として、旧幕府軍と戦いました。 明治維新後、芥舟は海軍卿に任命されました。海軍の近代化に努め、日本の海軍力を強化しました。また、日清戦争や日露戦争にも参戦し、勝利に貢献しました。 芥舟は、幕末の動乱期から明治維新期にかけて、日本の歴史に大きな影響を与えた人物です。龍馬との交流は、芥舟の生涯にとって重要な出来事であり、芥舟の思想や行動に大きな影響を与えました。
歴史上の偉人

– 池田定常

-池田定常の生涯と功績- 池田定常は、日本の政治家、社会運動家である。1832年に現在の滋賀県大津市に生まれ、1897年に京都で没した。 池田定常は、維新後に大津裁判所の判事となり、1871年に滋賀県権令に任命された。1876年に立憲改進党を結成し、1878年に衆議院議員に当選した。1881年に参議院議員に転じ、1889年に貴族院議員に任命された。 池田定常は、自由民権運動の指導者として、国民の権利と自由のために戦った。また、社会福祉事業にも尽力し、1877年に京都府初の社会福祉施設である「京都府養育院」を設立した。 池田定常は、日本の近代化に貢献した偉大な政治家、社会運動家である。その功績は、現在でも高く評価されている。 池田定常の生涯を振り返ると、以下のようなことが挙げられる。 * 1832年滋賀県大津市に生まれる。 * 1868年維新後に大津裁判所の判事となる。 * 1871年滋賀県権令に任命される。 * 1876年立憲改進党を結成する。 * 1878年衆議院議員に当選する。 * 1881年参議院議員に転じる。 * 1889年貴族院議員に任命される。 * 1897年京都で没する。 池田定常は、日本の近代化に貢献した偉大な政治家、社会運動家である。その功績は、現在でも高く評価されている。