藤木敦直

美術分野の人

鳥山巽甫 – 江戸時代前期の書家

鳥山巽甫の生涯 鳥山巽甫は、江戸時代前期の書家です。元和8年(1622年)に京都で生まれ、寛文12年(1672年)に51歳で亡くなりました。 巽甫は、幼い頃から書を学び、15歳で江戸に出て、書家として活躍しました。寛永20年(1643年)には、将軍徳川家光の書道師範となり、寛文年間(1661~1673年)には、大奥の女官たちにも書を教えました。 巽甫は、楷書、行書、草書、隷書など、幅広い書体を得意としていましたが、特に草書に優れていました。彼の草書は、流れるような筆運びと、力強い線の美しさで知られています。 巽甫は、書家としてだけではなく、歌人としても活躍しました。彼は、多くの和歌を詠み、その中には「古今和歌集」に収められたものもあります。 巽甫は、江戸時代前期の書壇を代表する書家の1人とされています。彼の作品は、現在も多くの美術館や博物館に所蔵されています。
歴史上の人物

寂源(2)

-寂源の生涯- 寂源は、1181年に讃岐国で生まれました。幼い頃から出家して仏道を志し、18歳で京都の比叡山に登りました。比叡山で天台宗の教えを学び、23歳で得度しました。その後、寂源は比叡山を離れて全国各地を巡り、高野山や熊野権現などに参拝しました。 1210年、寂源は熊野権現で神託を受け、九州の肥前国に渡るように命じられました。寂源は肥前国に渡り、佐賀郡の肥前国大慈寺を興しました。大慈寺は、寂源が肥前国で布教活動を行う拠点となりました。 寂源は、肥前国で浄土宗の教えを説き、多くの人々を救いました。寂源は、また、肥前国で多くの寺を建立し、仏教文化の発展に貢献しました。 1246年、寂源は66歳で入滅しました。寂源の死後は、寂源の弟子たちが浄土宗の教えを継承し、全国各地に広めていきました。浄土宗は、現在では日本最大の仏教宗派の一つとなっています。 寂源は、浄土宗の開祖として、また、肥前国における仏教文化の発展に貢献した人物として知られています。寂源の死後、寂源の弟子たちは浄土宗の教えを継承し、全国各地に広めていきました。浄土宗は、現在では日本最大の仏教宗派の一つとなっています。
歴史上の人物

「荒木素白」-上代様の書復興に尽力した書家

-荒木素白とは?- 荒木素白は、1785年に江戸で生まれた書家です。名は与益、字は元永、別号は素白・春雨先生などがあります。大岡忠光(伊勢守)の子孫の流れをくむ荒木家に生まれ、父の荒木与吉は儒学者でした。 素白は幼少の頃から書を学び、16歳の時に儒学者の岡本豊雛や書家の石川九皐に師事しました。その後、京都の四条派の書家である松崎慊堂に師事し、上代様の書を学びました。 上代様の書とは、平安時代以前の書のことです。素白は上代様の書を復興することに尽力し、多くの作品を残しました。彼の作品は、古雅で優美な書風で知られています。 素白は、1817年に江戸で没しました。享年33歳でした。しかし、彼の作品は今もなお多くの人々に愛され続けています。 素白の代表作としては、以下の作品があります。 * 「般若心経」 * 「金剛般若経」 * 「法華経」 * 「古事記」 * 「万葉集」 素白の作品は、全国の美術館や博物館に所蔵されています。
美術分野の人

北向雲竹

北向雲竹の生い立ちと経歴 北向雲竹は、1906年(明治39年)8月12日に、北海道札幌市で生まれました。本名は北向竹蔵ですが、芸名として雲竹を名乗りました。 幼少期から音楽に親しみ、11歳の時に、札幌交響楽団の首席バイオリニストの元に弟子入りしました。そこでバイオリンの基礎を学び、15歳の時に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学しました。 東京音楽学校では、バイオリンを専攻し、1925年(大正14年)に卒業しました。卒業後は、帰郷して、札幌交響楽団に入団しました。 1928年(昭和3年)に、単身でヨーロッパに渡り、ベルリン音楽大学に入学しました。そこでバイオリンの研鑽を積み、1931年(昭和6年)に卒業しました。 卒業後は、ヨーロッパ各地で演奏活動を行い、1935年(昭和10年)に帰国しました。帰国後は、札幌交響楽団のコンサートマスターに就任し、1941年(昭和16年)までその任に就きました。 1941年(昭和16年)に、再びヨーロッパに渡り、第二次世界大戦終戦後の1947年(昭和22年)まで演奏活動を行いました。 1947年(昭和22年)に帰国後も、演奏活動と後進の指導に励みました。1962年(昭和37年)に、札幌交響楽団の常任指揮者に就任し、1972年(昭和47年)までその任を務めました。 1972年(昭和47年)に引退し、1983年(昭和58年)に逝去しました。
文学分野の人

寺田無禅 – 江戸時代前期の書家

近衛家に仕えた書家 寺田無禅は、江戸時代前期の書家です。寛永16年(1639年)に京都で生まれ、元禄元年(1688年)に50歳で亡くなりました。本名は寺田治部右衛門政明といい、号は無禅、別号に一風庵、一風亭、大忍、青竹楼、松陰子、夢風、風塵子などがあります。 無禅は、幼い頃から書を学び、16歳の時に近衛家に仕官しました。近衛家は、公家の名門であり、無禅は近衛家に仕える中で、多くの貴重な書物や書画を目にする機会を得ました。また、近衛家の人々からも書を学び、ますます書への理解を深めました。 無禅は、書風を小堀遠州、柳原紀光、本阿弥光悦、細川幽斎など、自分よりも先に出た「名手」を探して学び、書を学びました。無禅は、それらを吸収しながら、独自の書風を確立しました。無禅の書風は、力強く雄渾であり、また、清らかで幽玄な趣があります。無禅は、楷書、行書、草書いずれの書体にも優れ、特に、草書は独創的で、後世の書家に大きな影響を与えました。 無禅は、近衛家に仕えたことで、多くの公家や武家と交流し、その書名を高めました。また、無禅は、書を教えることもしており、多くの弟子を育てました。無禅の弟子には、小堀政一、柳原紀光、本阿弥光悦、細川幽斎などがいます。 無禅は、江戸時代前期を代表する書家で、その書は、後世の書家に大きな影響を与えました。無禅の書は、現在でも高く評価されており、多くの美術館や博物館で所蔵されています。
美術分野の人

佐々木志頭磨

佐々木志頭磨の生涯 佐々木志頭磨(ささき しとうま)は、南北朝時代の武将、政治家、儒学者。南朝の後村上天皇、後醍醐天皇の忠臣として活躍し、死後は忠臣として広くその名を知られるようになった。 佐々木志頭磨は、1304年(嘉元2年)、備前国に佐々木平氏の一族として生まれた。父は佐々木道誉、母は不明。佐々木氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武家であり、志頭磨は一族の有力者であった。 志頭磨は、幼い頃から聡明で、10歳にして儒学を学び始めた。また、武芸にも秀でており、15歳で元服し、佐々木氏の当主となった。 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府に反旗を翻すと、志頭磨は天皇に味方し、幕府軍と戦った。幕府軍は圧倒的な兵力を持っていたが、志頭磨は巧みな戦術で勝利を収め、鎌倉幕府を滅亡させた。 後醍醐天皇は、志頭磨の功績を称え、備前守に任じた。志頭磨は、備前国の守護として、同国を統治し、天皇の忠実な臣下として活躍した。 1352年(正平7年)、後村上天皇が吉野に南朝を建てると、志頭磨は南朝に仕え、天皇の側近として活躍した。志頭磨は、天皇の信頼を厚くし、南朝の重臣として活躍した。 1362年(正平17年)、志頭磨は、北朝方の軍勢に攻められ、戦死した。志頭磨の死は、南朝に大きな打撃を与え、南朝の衰退につながった。 志頭磨は、忠臣として広くその名を知られるようになった。志頭磨の死後、志頭磨の功績を称えるために、備前国に志頭磨神社が建立された。志頭磨神社は、現在も多くの参拝者を集める人気のある神社となっている。