長唄

ミュージシャン

日吉小三八:大正から平成にかけて活躍した長唄唄方

-日吉小三八の経歴と業績- 日吉小三八は、1899年(明治32年)3月11日に東京府麹町区元園町(現在の東京都千代田区麹町)に生まれた。本名は、須貝末吉。父は、常磐津節の師匠である須貝小三味。母は、常磐津節の師匠である須貝小三寿。 小三八は、幼い頃から父や母から長唄を学び、1912年(大正元年)に13歳で長唄の演奏会に初出演した。1917年(大正6年)に18歳で長唄の師匠である杵屋小三八に入門し、1920年(大正9年)に21歳で杵屋小三八の名を襲名した。 小三八は、1923年(大正12年)に24歳で日本コロムビアに「長唄 勧進帳」を吹き込み、レコードデビューを果たした。1926年(昭和元年)に27歳で長唄の演奏会で「長唄 京鹿子娘五人道成寺」を初演し、大好評を得た。1928年(昭和3年)に29歳で長唄の演奏会で「長唄 戻駕色相肩」を初演し、こちらも大好評を得た。 小三八は、その後も数々の長唄の名曲を演奏し、長唄界の第一人者として活躍した。1936年(昭和11年)に37歳で日本コロムビアに「長唄 戻駕色相肩」を吹き込み、レコード大賞を受賞した。1950年(昭和25年)に51歳で長唄の演奏会で「長唄 小鍛冶」を初演し、大好評を得た。1954年(昭和29年)に55歳で長唄の演奏会で「長唄 道成寺」を初演し、こちらも大好評を得た。 小三八は、1980年(昭和55年)に81歳で死去した。しかし、小三八の演奏した長唄の名曲は、今もなお多くの人々に愛されている。
ミュージシャン

「今藤長十郎(2代)」-明治-昭和時代前期の長唄三味線方

2代今藤長十郎-生涯 2代今藤長十郎は、明治10年(1877年)に横浜で生まれ、本名は今藤徳太郎である。父は一中節・常磐津の三味線方だった徳三郎である。 長十郎は、明治13年(1880年)に5歳の時に今藤駒蔵に弟子入りし、明治19年(1886年)に14歳で長唄の名取を得る。明治22年(1889年)に17歳で2代目今藤長十郎を襲名し、明治24年(1891年)に20歳で杵屋六三郎の娘と結婚した。 長十郎は、杵屋六三郎、杵屋勘次郎、杵屋正次郎らと共に長唄界をけん引した名手であり、特に長唄の杵勝会では、六三郎や勘次郎らと名演を残した。また、長十郎は三味線の指導者としても活躍し、多数の門人を育てた。 長十郎は、昭和14年(1939年)に63歳で死去した。 長十郎は、名手としてだけでなく、三味線の指導者としても活躍した偉大な長唄三味線方だった。
エンターテインメント

中山小夜之助 – 江戸時代前期の歌舞伎役者として知られる人物

- 天和-元禄期に活躍した女形 中山小夜之助は、江戸時代前期の歌舞伎役者として知られる人物です。天和-元禄期に活躍した女形として一世を風靡し、その美しさは「小夜之助に逢わずして女形を語るべからず」とまで謳われました。 中山小夜之助は、1665年に京都で生まれ、本名は五郎助と言います。14歳の頃に役者として初舞台を踏み、その美貌と卓越した演技力でたちまち人気者となりました。1693年には江戸に下り、中村座で「傾城恋飛脚」の主人公である傾城お富を演じて大当たりを取ります。それ以降、中山小夜之助は江戸の歌舞伎界を代表する女形として活躍し、数多くの名作を残しました。 中山小夜之助の演技は、写実的で感情豊かなもので、観客の心を揺さぶりました。また、女形でありながら、男役を演じることも得意とし、その versatility は他の役者には真似できないものでした。中山小夜之助は、歌舞伎界に大きな影響を与えた人物であり、その死後もその演技は多くの役者によって受け継がれました。 中山小夜之助の最も有名な演目には、「傾城恋飛脚」の傾城お富、「仮名手本忠臣蔵」の顔世御前、「菅原伝授手習鑑」の梅王丸などがあります。これらの演目は、中山小夜之助の演技によって、歌舞伎史に残る名作となりました。 中山小夜之助は、1707年に33歳の若さで亡くなりました。しかし、その短い生涯の中で、歌舞伎界に大きな足跡を残しました。中山小夜之助の演技は、今日でも多くの役者によって受け継がれており、その美しさは今もなお人々を魅了しています。
ミュージシャン

伝統音楽の継承者-上原真佐喜(2代)-

箏曲家の軌跡 上原真佐喜(2代)は、20代にして東京芸術大学邦楽課の教授に就任し、その後、東京芸術大学邦楽課長、東京芸術大学音楽学部長、東京芸術大学学長を歴任した、邦楽界の重鎮である。 上原は、1935年に東京に生まれ、幼い頃から箏に触れ、10歳のときに初代上原真佐喜に入門した。以来、伝統的な箏曲の奏法を学び、16歳のときにプロの箏曲家としてデビューした。 上原は、伝統的な箏曲の奏法だけでなく、新しい音楽にも積極的に取り組んだ。1960年代には、三味線の杵屋栄二朗、尺八の竹田誠一、琵琶の中村裕一らと「邦楽アンサンブル四重奏団」を結成し、邦楽の可能性を追求した。また、1970年代には、オーケストラとの共演も行った。 上原の箏曲演奏は、その華麗な技巧と、繊細な情感表現で高く評価され、国内外で多くの賞を受賞した。1993年には、文化庁長官賞を受賞し、2005年には、文化勲章を受章した。 上原は、教育者としても活躍し、東京芸術大学邦楽課の教授として、多くの箏曲家を育成した。また、海外でも、アメリカやヨーロッパで講義を行い、邦楽の普及に努めた。 上原真佐喜(2代)は、伝統音楽の継承者として、邦楽界に大きな功績を残した。その卓越した演奏技術と、新しい音楽への積極的な取り組みは、邦楽の可能性を広げ、邦楽を世界に発信するのに貢献した。
芸術家

扇子の名工、松井恒治郎(1917-1992)の軌跡

- 扇子職人の道へ 松井恒治郎は、1917年(大正6年)に愛知県名古屋市で生まれた。幼い頃から絵を描くことが好きで、地元の小学校を卒業後、名古屋の洋画研究所に学ぶ。卒業後は、名古屋で画工として働くが、絵の世界で生きていくのは難しいと悟り、扇子職人の道に進むことを決意する。 1937年(昭和12年)、松井恒治郎は京都の扇子工房「宮脇扇工房」に入門する。宮脇扇工房は、江戸時代から続く老舗の扇子工房で、松井恒治郎はここで伝統的な扇子作りの技法を学ぶ。 松井恒治郎は、扇子作りの才能を発揮し、すぐに頭角を現す。1940年(昭和15年)には、宮脇扇工房の職人として独立し、自身の工房を構える。 松井恒治郎は、扇子作りの名人として知られ、その作品は国内外で高く評価された。1955年(昭和30年)には、日本工芸会正会員に推挙され、1966年(昭和41年)には、重要無形文化財保持者に認定される。 松井恒治郎は、1992年(平成4年)に75歳で亡くなるまで、扇子作り一筋に生き、数多くの名作を残した。その作品は、現在も国内外の美術館や博物館に収蔵されており、人々に愛され続けている。
ミュージシャン

杵屋六三郎(3代)について

杵屋六三郎(3代)の生涯 杵屋六三郎(3代)は、1817年(文化14年)に江戸で生まれた。本名は寺田末松。幼い頃から長唄を学び、1833年(天保4年)に20歳で杵屋六三郎の名を襲名。その後、杵屋正三郎、杵屋栄三郎、杵屋栄寿と改名・再襲名している。 杵屋六三郎(3代)は、長唄の名手として知られ、多くの名曲を残した。代表曲は、「越後獅子」「勧進帳」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」など。また、常磐津節や清元節にも通じ、それらの曲も得意とした。 杵屋六三郎(3代)は、1873年(明治6年)に56歳で亡くなった。その死は、長唄界に大きな衝撃を与え、多くの人々がその死を悼んだ。 杵屋六三郎(3代)は、長唄の名手として日本を代表する音楽家の一人である。その音楽は、今日でも多くの人々に愛され続けている。
ミュージシャン

松永鉄五郎(4代)→ 幕末の長唄唄方としての生涯と功績

松永鉄五郎(4代)の生涯と長唄唄方としての実績 松永鉄五郎(4代)は、幕末の長唄唄方であり、江戸長唄を代表する人物の一人です。1809年に江戸に生まれ、若くして長唄を学び、1832年に4代目松永鉄五郎を襲名しました。その後、江戸の寄席や劇場で活躍し、長唄唄方として高い評価を得ました。 松永鉄五郎(4代)は、長唄の演奏において、優れた声量と発声、そして巧みな節回しを持ち、聴衆を魅了しました。また、長唄の作曲にも優れており、多くの名曲を残しました。代表曲には、「松島音頭」「馬方節」「苗字帯刀」「玉屋踊」「越後獅子」などがあります。 松永鉄五郎(4代)は、長唄唄方としてだけではなく、長唄の教育者としても活躍しました。1854年に、江戸に長唄の稽古所を開設し、多くの弟子を育てました。弟子の中には、後の長唄唄方として活躍する人物も少なくありませんでした。 松永鉄五郎(4代)は、1867年に江戸で亡くなりました。享年58歳でした。松永鉄五郎(4代)は、長唄唄方として、また長唄の教育者として、江戸長唄の発展に大きな貢献をした人物であり、その功績は今日でも高く評価されています。
エンターテインメント

豊竹湊太夫(2代)-豊竹八重太夫(3代)

-豊竹湊太夫(2代)の芸風- 豊竹湊太夫(2代)は、豊竹若太夫の次女として、天保10年(1839年)に生まれた。彼女は、幼い頃から芸事を仕込まれ、13歳のときに豊竹豊子太夫の名で初舞台を踏んだ。その後、豊竹津太夫、豊竹若太夫などの名跡を継ぎ、明治40年(1907年)には、豊竹湊太夫(2代)を襲名した。 豊竹湊太夫(2代)は、清元節の第一人者として知られる。彼女は、清元節の伝統を重んじながら、新しい試みも積極的に取り入れた。彼女の芸風は、「豊竹節」と呼ばれ、その特徴は、力強い声量と、繊細な情感表現にある。彼女は、特に、浄瑠璃や長唄を得意としたが、端唄や小唄なども幅広くこなした。 豊竹湊太夫(2代)は、国内各地で公演を行い、その芸を披露した。彼女の公演は、常に満員御礼となり、人々を魅了した。彼女は、清元節の普及に大きく貢献し、その功績は、今日でも高く評価されている。 豊竹湊太夫(2代)は、明治45年(1912年)に、74歳で亡くなった。彼女の死は、清元節界に大きな衝撃を与えた。しかし、彼女の芸風は、後世に受け継がれ、現在でも、多くの清元節の演奏家が、彼女の芸を参考にして、演奏している。
作家

-長島寿阿弥

-大見出し 長島寿阿弥- -小見出し 長島寿阿弥の生涯- -はじめに- 長島寿阿弥は、江戸時代初期に活躍した浄土真宗の僧侶であり、浄土真宗の学僧として知られています。また、浄土真宗の教えを広く布教し、多くの信者を獲得したことから、浄土真宗の祖師の一人とも称されています。 -生い立ちと修行時代- 長島寿阿弥は、1543年に加賀国(現在の石川県)に生まれました。幼い頃から浄土真宗の教えに親しみ、18歳の時に出家して、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の教えを学びました。その後、諸国を巡りながら修行を重ね、浄土真宗の教えを深く理解しました。 -布教活動- 修行を終えた寿阿弥は、浄土真宗の教えを広く布教するため、各地を巡って説法を行いました。その説法は、浄土真宗の教えをわかりやすく説き、多くの信者を獲得しました。また、寿阿弥は、浄土真宗の教えをまとめた『教行信証』を著し、浄土真宗の教学の発展に貢献しました。 -晩年- 寿阿弥は、晩年を近江国(現在の滋賀県)の安養寺で過ごしました。1623年に、81歳で亡くなりました。寿阿弥の死後、その教えは弟子たちによって受け継がれ、浄土真宗は広く普及しました。 -おわりに- 長島寿阿弥は、浄土真宗の教えを広く布教し、多くの信者を獲得したことで、浄土真宗の発展に大きく貢献しました。また、寿阿弥は、『教行信証』を著し、浄土真宗の教学の発展にも貢献しました。寿阿弥の教えは、現在でも浄土真宗の僧侶や信者によって大切に受け継がれています。
エンターテインメント

「坂田仙四郎(4代)」 杵屋六三郎の門人から東京明治座で活躍

4代仙四郎の芸歴と活躍 坂田仙四郎(4代)は、1854年(嘉永7年)に東京に生まれました。本名は坂田藤蔵。杵屋六三郎の門人となり、1873年(明治6年)に東京明治座で初舞台を踏みました。その後、各地を巡業して活躍し、1888年(明治21年)に東京明治座に戻りました。 4代仙四郎は、端正な顔立ちと豊かな声量を備えた立役として人気を博しました。得意とした演目は『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官、『勧進帳』の弁慶、『義経千本桜』の義経などです。また、新作歌舞伎にも積極的に取り組み、1896年(明治29年)には『勧進帳』の弁慶を演じて大ヒットを記録しました。 4代仙四郎は、1903年(明治36年)に49歳で亡くなりました。しかし、その芸は今もなお語り継がれています。 4代仙四郎の芸歴をまとめると以下の通りです。 * 1854年(嘉永7年) 東京に生まれる * 1873年(明治6年) 東京明治座で初舞台を踏む * 1888年(明治21年) 東京明治座に戻り、活躍する * 1896年(明治29年) 『勧進帳』の弁慶を演じて大ヒットを記録する * 1903年(明治36年) 49歳で亡くなる
ミュージシャン

演芸人の人名データベース:杵屋 佐吉 (3代)

杵屋 佐吉 (3代)の紹介 杵屋 佐吉 (3代)は、日本の箏曲家・作曲家。本名は伊藤佐吉。1892年(明治25年)10月25日、東京府東京市日本橋区本町1丁目に生まれる。父は杵屋佐吉 (2代)、母は林とみ。杵屋佐吉 (2代)は、文政11年(1828年)生まれの箏曲家・作曲家で、4代目杵屋佐吉の初代であり、常磐津の師匠として活躍していました。杵屋佐吉 (3代)は、幼少の頃から父の膝の上で箏を習い、5歳の頃から邦楽の稽古を始めました。 1902年(明治35年)10歳の時に、東京音楽学校(現東京芸術大学)邦楽科に入学し、平岡守吉、吉沢検校、島岡松五郎、杵屋弥七郎らに師事しました。 1907年(明治40年)に東京音楽学校を卒業し、三味線を専門としました。その後、杵屋佐吉 (2代)の門下となって、杵屋佐吉 (3代)を名乗りました。1912年(大正元年)に父が亡くなると、家督を継いで杵屋佐吉 (4代)を襲名しました。 杵屋佐吉 (4代)は、1914年(大正3年)に東京音楽学校の邦楽科の教授となりました。また、1918年(大正7年)に日本音楽協会を設立し、会長に就任しました。 杵屋佐吉 (4代)は、1941年(昭和16年)12月8日に50歳の若さで亡くなりました。杵屋佐吉 (4代)は、邦楽の発展に貢献した功績が認められ、1947年(昭和22年)に文化功労者に選出されました。 杵屋佐吉 (4代)は、日本箏曲界を代表する作曲家として、多くの作品を残しています。杵屋佐吉 (4代)の作品は、日本音楽の発展に貢献したとして、日本レコード大賞、日本音楽コンクールなど、多くの賞を受賞しています。
エンターテインメント

歌舞伎作者 津打治兵衛 -3代-

-3代目津打治兵衛- 3代目津打治兵衛は、江戸時代前期の歌舞伎作者である。生年は不詳だが、1643年に江戸で没した。 治兵衛は、京都の出身で、本名は津打勘兵衛という。1624年に、江戸に出て、歌舞伎作者として活動を開始した。治兵衛は、世話狂言や浄瑠璃脚本を得意とし、多くの作品を残した。治兵衛の作品は、庶民の生活や心情をリアルに描いたもので、江戸の庶民に人気を博した。 治兵衛は、1643年に、江戸で没した。享年不詳。治兵衛の死後、その門弟たちが、治兵衛の作風を受け継いで、歌舞伎作者として活躍した。 治兵衛の作品には、次のようなものがある。 * 『傾城三度笠』(1624年) * 『心中宵庚申』(1633年) * 『義経千本桜』(1641年) * 『仮名手本忠臣蔵』(1646年) 治兵衛の作品は、現在でも、歌舞伎や浄瑠璃で上演されている。治兵衛は、江戸歌舞伎の発展に大きく貢献した人物である。
ミュージシャン

杵屋勝五郎 (4代) ~明治・大正期の長唄三味線方~

-長唄唄方初代坂田仙八の子として生まれる- 杵屋勝五郎 (4代)は、1835年(天保6年)に江戸神田松枝町に生まれました。父は長唄唄方初代坂田仙八、母は芸妓のとして知られた吾妻屋のおりんでした。幼名はおすみと言い、幼い頃から父から長唄の手ほどきを受けました。 1848年(嘉永元年)、13歳のときにはすでに長唄三味線方として初舞台を踏み、1854年(安政元年)には江戸のみならず、京都や大阪でも演奏するなど、その才能を早くから発揮していました。 1861年(文久元年)、26歳のときには杵屋勝五郎 (3代)を襲名し、長唄三味線方の第一人者として活躍しました。明治維新後も、宮内省御用掛に任命されるなど、その地位を確たるものにしました。 1873年(明治6年)、東京音楽学校が開設されると、その邦楽科教授に就任しました。また、1887年(明治20年)には、東京音楽学校邦楽科の主任教授に就任し、邦楽教育に尽力しました。 1903年(明治36年)には、帝国音楽院会員に任命され、1911年(明治44年)には、宮内省御用掛を拝命しました。1914年(大正3年)には、文化勲章を受章しました。 1922年(大正11年)、87歳の生涯を閉じました。杵屋勝五郎 (4代)は、長唄三味線方の第一人者として、明治・大正期に邦楽界に大きな足跡を残しました。
ミュージシャン

富士田千蔵(2代):江戸時代後期の長唄唄方

-富士田千蔵(2代)の生涯と芸風- 富士田千蔵(2代)は、江戸時代後期の長唄唄方です。本名は富士田清五郎。1802年(享和2年)に江戸に生まれ、1871年(明治4年)に同地で没しました。 千蔵は、幼少の頃から音楽に興味を持ち、10歳の時に長唄の名手である富士田千蔵(初代)に入門しました。15歳で初舞台を踏み、20歳で名人となりました。千蔵は、その華やかな芸風で人気を博し、江戸の長唄界を代表する唄方として活躍しました。 千蔵は、長唄のほかにも、浄瑠璃や小唄などの芸も得意としました。また、作曲家としても活躍し、多くの名曲を世に残しました。代表作には、「富士田千蔵(2代)」や「千蔵音頭」などがあります。 千蔵は、江戸の長唄界に大きな功績を残した人物です。その芸風は、後世の唄方に大きな影響を与えました。 -芸風- 千蔵の芸風は、華やかで派手なものでした。その声は大きく、伸びやかで、劇場の隅々まで届きました。また、千蔵は、歌詞を丁寧に発音し、その意味をしっかりと聴衆に伝えました。 千蔵の演奏は、その華やかさだけでなく、繊細さも兼ね備えていました。千蔵は、曲の細かなニュアンスを丁寧に表現し、聴衆に深い感動を与えました。 千蔵は、江戸の長唄界を代表する唄方として、その芸風で人々を魅了しました。その功績は、後世の唄方に大きな影響を与え、今日でも多くの人々に親しまれています。
エンターテインメント

福森久助(2代) – 江戸時代後期の歌舞伎作者

-改名歴と河原崎座での立作者就任- 福森久助(2代)は、江戸時代後期の歌舞伎作者である。初代福森久助の門弟で、後にその養子となった。本名は三谷茂兵衛。 1828年(文政11年)、初代久助の死後、その養子となって二代目福森久助を襲名した。その後、河原崎座の立作者となった。 河原崎座では、1830年(天保元年)に『根本中将頼朝』、1832年(天保3年)に『青砥藤綱雁金文台』など、多くの作品を残した。また、1835年(天保6年)には、江戸の大火によって焼失した河原崎座の再建に尽力した。 久助(2代)は、1838年(天保9年)に河原崎座の立作者を辞任し、その後は自由な身となって、さまざまな劇場で作品を発表した。 また、浄瑠璃や常磐津などの台本も手がけ、歌舞伎脚本にとどまらず、広く活躍した人物であった。 久助(2代)は、1850年(嘉永3年)に没した。
ミュージシャン

市川検校→ 江戸時代前期の地歌演奏者

-市川検校の生涯と経歴- 市川検校(1567年 - 1632年)は、江戸時代前期の地歌演奏者。諱は尚富。官職は筑後守、検校。 1567年に京都に生まれる。盲目であったが、音楽の才能に恵まれ、幼少の頃から三味線や筝を学ぶ。18歳の時、豊臣秀吉の御前で演奏し、その才能を高く評価される。その後、江戸に移り住み、地歌演奏者として活躍した。 市川検校は、地歌の演奏法に革新をもたらした。従来の地歌は、三味線や筝の伴奏に合わせて歌うものであったが、市川検校は、三味線を主旋律として演奏し、箏を伴奏とする演奏法を確立した。この演奏法は、地歌の表現力を飛躍的に高め、地歌をより人気のある芸能とした。 また、市川検校は、多くの地歌の曲を作曲した。その曲は、美しいメロディーと豊かな情感で知られ、現在でも多くの地歌演奏者によって演奏されている。 市川検校は、1632年に江戸で亡くなった。66歳没。 市川検校は、地歌演奏者としてだけでなく、作曲家としても大きな功績を残した人物である。その功績は、今日まで地歌の演奏者や愛好家によって受け継がれている。
ミュージシャン

– 玉村芝楽

-玉村芝楽の生涯- 玉村芝楽は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師です。1753年(宝暦3年)に江戸の浅草で生まれ、1806年(文化3年)に死去しました。生涯に遺した作品は3000点以上と言われ、その多くが錦絵として出版されました。芝楽は、葛飾北斎や歌川広重と並んで、江戸時代の浮世絵を代表する絵師の一人です。 芝楽は、幼い頃から絵を好み、15歳の時に浮世絵師の鈴木春信に入門しました。春信のもとで、浮世絵の基本を学びましたが、1772年(明和9年)に春信が死去すると、芝楽は独立して浮世絵師として活動を始めました。 芝楽は、浮世絵師として成功を収め、多くの作品を世に送り出しました。芝楽の作品の特徴は、華やかで艶やかな美人画です。芝楽は、美しい女性を描き出すことに長けており、その作品は多くの浮世絵ファンに愛されました。 芝楽は、浮世絵師としてだけでなく、役者絵の分野でも活躍しました。芝楽は、歌舞伎役者を多く描き、その作品は役者絵の傑作として高く評価されています。 芝楽は、1806年(文化3年)に江戸で死去しました。享年54歳でした。芝楽の死は、浮世絵界に大きな衝撃を与え、多くの浮世絵師が芝楽の作品を模倣しました。 芝楽は、江戸時代の浮世絵を代表する絵師の一人です。芝楽の作品は、華やかで艶やかな美人画や役者絵などが多く、その作品は多くの浮世絵ファンに愛されています。
ミュージシャン

– 岡安南甫(初代)について

-岡安南甫(初代)の生涯- 岡安南甫(初代)は、1909(明治42)年11月8日、熊本県阿蘇郡高森町で生まれました。本名は、岡安南甫(岡安夘吾)。幼い頃から絵が好きで、1923(大正12)年に東京美術学校に入学しました。在学中は、川端龍子や安田靫彦に師事し、日本画を学びました。 1931(昭和6)年に東京美術学校を卒業後、郷里の熊本に戻り、日本画の制作を続けました。1936(昭和11)年、第1回新文展に入選。1941(昭和16)年、第3回新文展で特選を受賞しました。 1943(昭和18)年、軍に召集され、中国大陸に派遣されました。1945(昭和20)年、戦争が終わり、復員しました。 戦後は、日本画の制作を再開し、1950(昭和25)年、第1回日展に入選しました。1952(昭和27)年、第3回日展で特選を受賞しました。 1957(昭和32)年、熊本県立美術館の館長に就任しました。1963(昭和38)年、第14回日展で特選を受賞しました。1975(昭和50)年、第26回日展で内閣総理大臣賞を受賞しました。 1980(昭和55)年、熊本県立美術館の館長を退任しました。1990(平成2)年、勲三等瑞宝章を受章しました。2003(平成15)年、94歳で亡くなりました。 岡安南甫(初代)は、日本画壇を代表する画家の一人であり、その作品は、多くの美術館に収蔵されています。
エンターテインメント

橘つや – 大正から昭和の寄席三味線方

寄席の三味線方として活躍した女性 橘つやは、大正から昭和にかけて活躍した寄席の三味線方です。本名は田中つやといい、1897年(明治30年)に東京に生まれました。15歳のときに三味線を始め、17歳のときに寄席でデビューしました。 橘つやは、力強く軽快な三味線演奏で人気を博しました。また、端唄や小唄などの弾き語りも得意で、寄席だけでなく劇場やレコードにも出演しました。1930年(昭和5年)には、東京の寄席で初めて女性三味線方がトリを務めるという快挙を達成しました。 橘つやは、1978年(昭和53年)に81歳で亡くなりました。彼女は、寄席の三味線方として活躍した女性の先駆者であり、その功績は今日でも語り継がれています。 橘つやの三味線演奏は、力強く軽快なものでした。彼女は、三味線を弾くときには、全身を使って演奏していました。また、橘つやは端唄や小唄などの弾き語りも得意で、寄席だけでなく劇場やレコードにも出演しました。 橘つやは、1930年(昭和5年)に東京の寄席で初めて女性三味線方がトリを務めるという快挙を達成しました。これは、それまでの寄席界では、男性が三味線方を務めるのが当たり前とされていたため、画期的な出来事でした。 橘つやは、寄席の三味線方として活躍した女性の先駆者であり、その功績は今日でも語り継がれています。彼女は、女性でも三味線方を務めることができることを証明し、多くの女性三味線方が活躍するきっかけを作りました。
ミュージシャン

– 「大和美代葵」

- -「大和美代葵」- -「大和美代葵」の生涯- 大和美代葵は、中国の女性外科医である。彼女は、1924年に中国の東北部にある遼寧省で生まれた。1949年に中国共産党が政権を樹立すると、彼女は医科大学に入学し、外科医として学んだ。 1955年に大学を卒業すると、彼女は故郷の遼寧省に戻り、外科医として働き始めた。彼女は、次々と難症例を克服し、患者の信頼を得た。1966年に文化大革命が始まると、彼女は迫害され、外科医としての仕事を辞めざるを得なくなった。 しかし、文化大革命が終結すると、彼女は外科医として復帰した。彼女は、再び次々と難症例を克服し、患者の信頼を回復した。1985年に彼女は「中国人民解放軍総医院」の外科部長に就任した。 彼女は、外科医として数多くの功績を残した。彼女は、消化器外科の分野において、世界で初めて胃癌の手術に成功した。また、彼女は、肝臓癌の手術の成功率を大幅に向上させた。 彼女は、1998年に74歳で死去した。彼女の死後、中国政府は彼女を「人民英雄」として顕彰した。 大和美代葵は、中国の近代医学の発展に貢献した偉大な外科医である。彼女は、中国の女性外科医の草分け的存在であり、数多くの功績を残した。彼女の功績は、中国のみならず、世界中の外科医たちから尊敬されている。
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永島富士蔵について

-永島富士蔵の生涯- 永島富士蔵は、1859年に熊本県阿蘇郡(現・阿蘇市)で生まれました。幼い頃から武器の扱いに関心があり、16歳の時に軍人となることを決意。兵役期間中は、西南戦争で活躍し、傷を負いながらも生き残りました。 西南戦争後は、陸軍士官学校に入り、卒業後は陸軍歩兵第18聯隊に配属されました。日露戦争では、旅順攻囲戦に参加し、負傷しながらも戦い続けました。 日露戦争後、永島富士蔵は陸軍大学校に入学。卒業後は、参謀本部員としてドイツに派遣され、軍事研究を行いました。帰国後は、陸軍省軍務局長を務め、日本の軍事近代化に貢献しました。 1914年に勃発した第一次世界大戦では、永島富士蔵は陸軍中将に昇進し、第5師団長としてヨーロッパ戦線に派遣されました。永島富士蔵は、西部戦線で戦い、ドイツ軍を相手に多くの勝利を収めました。 第一次世界大戦後、永島富士蔵は陸軍大将に昇進し、陸軍参謀総長に就任しました。永島富士蔵は、日本の軍備拡張を推進し、関東軍の創設にも関与しました。 1936年に永島富士蔵は退役し、1942年に死去しました。永島富士蔵は、日本の近代化に貢献した偉大な軍人として知られています。
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「和歌山富十郎(初代)」 初代の功績と特徴

-初代和歌山富十郎の功績と特徴 初代和歌山富十郎(1869-1939)は、明治から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者である。本名は、岡崎治助。屋号は、河内屋。定紋は、四つ花菱である。 彼は、大阪で生まれ、14歳で芝居の世界に入る。1905年、27歳の時に、和歌山富十郎を襲名する。その後、京都、大阪、東京などで活躍し、1931年に、帝国劇場の歌舞伎座長に就任する。 初代和歌山富十郎は、歌舞伎界に大きな功績を残した人物である。まず、彼は、歌舞伎の演目を復活させた。例えば、彼は、『勧進帳』、『助六由縁江戸桜』、『仮名手本忠臣蔵』などの名作を復活させ、今日でも上演され続けている。 また、彼は、歌舞伎の様式を改良した。例えば、彼は、歌舞伎の音楽に西洋音楽を取り入れたり、歌舞伎の舞台装置をより豪華にしたりした。彼は、歌舞伎をより大衆的なものにし、歌舞伎の人気を高めたのである。 さらに、初代和歌山富十郎は、歌舞伎役者を養成する学校を設立した。1927年に、彼は、東京に歌舞伎座演劇学校を設立する。この学校は、現在も歌舞伎役者を養成しており、多くの名優を輩出している。 初代和歌山富十郎は、歌舞伎界に多大な功績を残した人物である。彼の功績は、今日でも高く評価されており、歌舞伎界の重鎮として尊敬されている。 * 初代の富十郎は、明治から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者である。 * 屋号は河内屋、定紋は四つ花菱である。 * 14歳で芝居の世界に入り、27歳の時に和歌山富十郎を襲名。 * 京都、大阪、東京などで活躍し、1931年に帝国劇場の歌舞伎座長に就任。 * 歌舞伎の演目を復活させ、様式を改良した。 * 歌舞伎役者を養成する学校を設立し、多くの名優を輩出。 * 歌舞伎界に多大な功績を残した人物である。
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「湖出市十郎(3代)」

3代湖出市十郎の活躍した時代と場所 3代湖出市十郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した豪商であり、現在の静岡県湖出市を拠点に活動しました。 湖出市は、東海道の宿場町として栄えた町で、3代湖出市十郎は、この地の豪商として、様々な事業を展開しました。 3代湖出市十郎は、まず、酒造業を営み、その利益を元手に、両替商や質屋、米穀商など、様々な事業を展開しました。 また、3代湖出市十郎は、地元の文化の発展にも貢献し、湖出市に学校を創設したり、図書館を設立したりしました。 3代湖出市十郎は、その財力と人脈を利用して、地元の経済や文化の発展に貢献し、湖出市を繁栄させた偉人として知られています。
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宮薗千之(2代) – 明治時代の浄瑠璃三味線方

宮薗千之(2代)の生涯 宮薗千之(2代)は、明治時代の浄瑠璃三味線方です。本名は宮薗千蔵。通称は鬼千代。1860年(万延元年)9月1日、石川県金沢市に生まれました。幼少の頃から三味線を始め、10歳の時には、2代豊沢広助に入門しました。1884年(明治17年)には、東京に出て、2代目竹本綱太夫門下となり、綱太夫と名乗りました。1890年(明治23年)には、2代目松浦検校の門下となり、千之を名乗りました。 千之は、三味線の技術に優れ、特に義太夫節を得意としました。1905年(明治38年)には、文部大臣賞を受賞しました。1910年(明治43年)には、帝国劇場の専属となり、1916年(大正5年)には、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授となりました。 1922年(大正11年)、57歳の時に、脳卒中で死去しました。千之の死は、浄瑠璃界に大きな衝撃を与えました。千之は、浄瑠璃三味線の第一人者として、日本の音楽史に大きな足跡を残しました。 千之は、三味線の技術だけでなく、作曲家としても才能を発揮しました。1920年(大正9年)には、浄瑠璃の曲集である『宮薗千之曲集』を出版しました。この曲集には、千之の代表作である「佐倉宗吾」や「堀川猿丸」などが収められています。『宮薗千之曲集』は、浄瑠璃の古典として、現在でも多くの人に親しまれています。 千之は、浄瑠璃三味線の第一人者として、日本の音楽史に大きな足跡を残しました。千之の死は、浄瑠璃界に大きな衝撃を与えました。千之の功績を称え、1923年(大正12年)には、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に「宮薗千之記念碑」が建立されました。