静尊法親王

歴史上の人物

「恵尊法親王」(⇒静尊法親王(せいそんほうしんのう))について

恵尊法親王とは? 恵尊法親王(静尊法親王)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての法親王。北朝(南朝では天台座主)であり、仁和寺の第19代門跡である。 恵尊法親王は、俗名を良観といい、北朝第3代後光厳天皇の第3皇子として誕生した。母は新待賢門院(藤原泰子)。 1350年(観応元年)、14歳で出家し、善観と名乗る。1356年(観応2年)、19歳で仁和寺に入り、真恵から法を受け、恵尊と改名する。1361年(正平16年/康安元年)、24歳で仁和寺の座主となる。 恵尊法親王は、学徳が高く、南北朝の動乱期にあって、朝廷と南朝との和睦に尽力した。また、仁和寺を復興し、今日の仁和寺の基礎を築いた。 1399年(応永6年)、52歳で薨去。 恵尊法親王は、南北朝時代の傑出した僧侶であり、朝廷と南朝との和睦に貢献した。また、仁和寺を復興し、今日の仁和寺の基礎を築いた。
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「太田守延」(?-1333 鎌倉時代の武将)

- 元弘の乱における活躍 元弘の乱において、太田守延は後醍醐天皇側に加わり、鎌倉幕府軍と戦った。 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企て、元弘の乱が勃発した。太田守延は後醍醐天皇側に加わり、鎌倉幕府軍と戦った。 太田守延は、元弘の乱において、数々の戦功を挙げた。特に、1333年(元弘3年)に鎌倉幕府軍が京都に攻め込んだ際には、太田守延は楠木正成らとともに鎌倉幕府軍を撃退した。 しかし、鎌倉幕府軍はその後も攻勢をかけ続け、後醍醐天皇は京都を逃れ、吉野に逃亡した。太田守延もまた、吉野に逃れ、後醍醐天皇を支え続けた。 1333年(元弘3年)に後醍醐天皇が崩御すると、太田守延は護良親王を奉じて鎌倉幕府打倒の戦いを続けた。しかし、1336年(建武3年)に護良親王が鎌倉幕府軍に殺害されると、太田守延は吉野を逃れ、各地を転戦した。 そして、1339年(暦応2年)に太田守延は鎌倉幕府軍に捕らえられ、処刑された。
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「一条局(1)」

一条局(1)について 一条局は平安時代後期に皇后・中宮が管理していた天皇の私的な役所です。一条局は内裏(天皇の住居)にある役所で、後宮の女官が常駐して天皇の身の回りの世話や政務を扱いました。一条局の長官は一条局長官と呼ばれ、皇后・中宮が兼任することが通例でした。 一条局は平安時代中期から後期にかけての時期に、皇后・中宮の権力が強まるにつれて設置されました。それまでは、天皇の私的な役所は蔵人所が担当していましたが、皇后・中宮の権力が強まると、蔵人所から一条局に移管されました。 一条局は、天皇の私的な役所という性格上、天皇の私生活に関する情報や政務に関する情報が集まる場所でした。そのため、一条局は情報収集や情報発信の拠点として重要な役割を果たしていました。 また、一条局は皇后・中宮の権力の象徴でもありました。皇后・中宮が一条局の長官を務めることで、皇后・中宮の権力が内裏の中で確立され、政務にも影響力を及ぼすことができました。 しかし、一条局は鎌倉時代になると、皇后・中宮の権力が衰退するにつれて、次第にその役割を縮小していきました。そして、室町時代になると、一条局は廃止されました。