8代

音楽分野の人

竹本染太夫(8代) – 江戸後期-明治時代の浄瑠璃太夫

-竹本染太夫(8代)とは?- 竹本染太夫(8代)は、江戸後期-明治時代の浄瑠璃太夫です。本名は柳原取治。1814年8月28日、京都の竹本頼母太夫の門人、松田八内(後に竹本住太夫を名乗る)の子として生まれました。 1831年、京都で初舞台を踏み、1847年に江戸に下り、竹本大和掾に師事しました。1850年に竹本染太夫を襲名。以後、江戸の歌舞伎座や大阪の朝日座などで活躍しました。 染太夫は、師匠の大和掾から受け継いだ「豊後節」を得意とし、その歌声は「竹本節の美声」と評されました。また、浄瑠璃の詞章に独自の工夫を加え、新しい浄瑠璃のスタイルを確立しました。 染太夫は、1886年3月20日に東京で亡くなりました。享年72でした。 染太夫は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した浄瑠璃太夫として、後世に大きな影響を与えました。その歌声や浄瑠璃の詞章は、現在でも多くの人々に愛されています。
文学分野の人

「竹沢団六(8代)」(⇒鶴沢寛治(つるざわ-かんじ)(7代))について

竹沢団六(8代)の経歴 竹沢団六(8代)こと鶴沢寛治は、1941年11月22日に生まれました。宮城県仙台市出身で、本名は佐藤寛治です。 1954年、13歳の時に三味線を始め、1957年に二代目豊沢団六の門下生となり、豊沢寛治を名乗ります。1961年に名取となり、1964年に六代目竹沢団六を襲名しました。 1968年に七代目竹沢団六を襲名し、1984年に八代目竹沢団六を襲名しました。1991年に重要無形文化財保持者に認定され、2002年には日本芸術院会員に選出されました。 竹沢団六は、三味線の第一人者として活躍し、国内外で公演を行いました。また、後進の育成にも力を入れ、多くの弟子を育て上げました。2016年11月22日に永眠、享年75歳でした。 竹沢団六は、三味線の卓越した演奏技術と、その音楽に対する深い理解で知られていました。また、三味線の普及にも尽力し、多くの人に三味線の魅力を伝えました。 竹沢団六の死は、三味線界にとって大きな損失となりました。しかし、彼の残した音楽と、後進の弟子たちが受け継ぐ三味線の伝統は、これからも長く生き続けていくことでしょう。
芸能分野の人

田中伝左衛門(8代) – 江戸後期-明治時代の歌舞伎囃子方

田中伝左衛門(8代)の生涯 田中伝左衛門(8代)は、江戸後期から明治時代にかけて活躍した歌舞伎囃子方です。文化13年(1816年)に江戸に生まれ、幼い頃から囃子を習い始めました。17歳の時に長唄の免許を取得し、22歳の時に歌舞伎座の囃子方として入座しました。その後、頭角を現し、明治12年(1879年)には囃子方の頭取に就任しました。 田中伝左衛門(8代)は、長唄、三味線、笛、太鼓など、あらゆる楽器を演奏することができました。また、作曲の才能にも恵まれ、数多くの名曲を残しています。特に、明治15年(1882年)に作曲した「越後獅子」は、現在でも歌舞伎の定番曲として演奏されています。 田中伝左衛門(8代)は、明治27年(1894年)に79歳で亡くなりました。しかし、その死後もその功績は称えられ続け、昭和22年(1947年)には、重要無形文化財保持者に認定されました。田中伝左衛門(8代)は、歌舞伎囃子の発展に大きく貢献した偉大な人物です。 田中伝左衛門(8代)の主な業績 * 長唄、三味線、笛、太鼓など、あらゆる楽器を演奏することができた。 * 数多くの名曲を作曲した。 * 明治12年(1879年)に囃子方の頭取に就任した。 * 明治15年(1882年)に作曲した「越後獅子」は、現在でも歌舞伎の定番曲として演奏されている。 * 昭和22年(1947年)に、重要無形文化財保持者に認定された。
音楽分野の人

杵屋三郎助(初代)から杵屋喜三郎(8代)までの人々

杵屋三郎助(初代)の生涯 初代杵屋三郎助は、1748年に江戸で生まれたとされています。幼い頃から音楽の才能を発揮し、三味線や胡弓を習い始めました。16歳の時に、当時人気だった浄瑠璃太夫の杵屋六三郎に入門し、杵屋三郎助を名乗るようになりました。 杵屋三郎助は、浄瑠璃太夫として活躍する傍ら、三味線の演奏にも力を入れ、各地を巡業してその演奏を披露しました。また、作曲家としても活躍し、多くの浄瑠璃の楽曲を作曲しました。 1800年、杵屋三郎助は52歳で亡くなりました。しかし、彼の死後も彼の音楽は人々に愛され続け、杵屋三郎助の弟子たちが彼の音楽を継承していきました。 杵屋三郎助の最も有名な弟子には、2代目杵屋三郎助、3代目杵屋三郎助、4代目杵屋三郎助などがいます。これらの弟子たちは、杵屋三郎助の音楽を全国各地に広め、杵屋三郎助の音楽は日本の伝統音楽として定着していきました。 杵屋三郎助は、日本の伝統音楽に大きな貢献をした人物です。彼の音楽は現在でも多くの人々に愛されており、日本の伝統音楽の重要な一部となっています。
歴史上の人物

「千宗左(8代)」

-第8代表千家家元- 千家家元とは、茶道の流派である千家において、その流派を代表する家元のことです。千家家元は、代々千宗左を名乗り、現在まで16代続いています。 8代千宗左は、1893年(明治26年)に京都に生まれました。名は宗左、号は玄室。父は7代千宗室、母は河井慈明の娘・八千代です。1919年(大正8年)に家督を相続し、8代千宗左を襲名しました。 8代千宗左は、茶道を広く普及させることに努めました。1923年(大正12年)には、茶道の入門書『茶道入門』を出版しました。また、1926年(昭和元年)には、東京に茶道教室「千宗左茶道教室」を開設しました。 8代千宗左は、茶道の伝統を守りつつ、新しい茶道の在り方を模索しました。1934年(昭和9年)には、茶道の雑誌『茶道雑誌』を創刊しました。また、1937年(昭和12年)には、茶道の専門学校「茶道専門学校」を設立しました。 8代千宗左は、1964年(昭和39年)に死去しました。享年71歳。跡を子の9代千宗室が継ぎました。 8代千宗左は、茶道の普及と発展に貢献した人物として知られています。茶道の基本をわかりやすく解説した『茶道入門』は、現在でも多くの人に親しまれています。また、茶道の専門学校「茶道専門学校」は、茶道の研究と教育の中心的な役割を果たしています。
歴史上の人物

「国義」
江戸時代前期の刀工

人物の概要 国義は、江戸時代前期に活躍した刀工です。本名は河内守国義(かわちのかみくによし)といい、通称は河内守。摂津国三田尻(現在の兵庫県三田市)に生まれ、江戸で活躍しました。 国義は、相州伝を学び、特に正宗の作風に傾倒していました。その作風は、正宗の作風を踏襲しつつも、独自の工夫を加えたもので、華やかな金工を施すことで知られています。また、国義は刀身だけでなく、刀装具にも優れた技量を発揮しました。 国義は、その卓越した技量から、徳川将軍家をはじめ、諸大名や豪商などから厚く庇護を受けました。江戸城内での作刀を許され、江戸幕府の御用刀工となり、その作刀は「国義物」として珍重されました。 国義は、寛文12年(1672年)に72歳で没しました。その死後も、国義の作刀は高く評価され、現在でも多くの作品が残されています。国義の作刀は、日本の刀工史において重要な位置を占めており、その作風は、後の刀工たちに大きな影響を与えました。
歴史上の人物

牧野貞直 – 幕末から明治時代の著名な人物

-牧野貞直の生涯と功績- 牧野貞直(まきの さだなお)は、幕末から明治時代にかけて活躍した政治家で、伯爵。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主を、明治政府では内務卿、司法卿、文部卿を歴任した。 -幕末期- 牧野貞直は、1833年(天保4年)に尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)で生まれた。父は尾張藩士の牧野貞一、母は松平義行の娘である。幼名は亀五郎。 1851年(嘉永4年)、19歳の時に尾張藩の藩校である明倫堂に入学。ここで漢学や儒学を学んだ。1854年(安政元年)、22歳の時に江戸に出て、昌平坂学問所に遊学。ここで佐藤一斎や佐久間象山の門下生となった。 1858年(安政5年)、26歳の時に尾張藩に帰藩。藩主の徳川慶恕に仕えて、藩政改革に取り組んだ。1862年(文久2年)、29歳の時に京都に上り、公武合体の運動に参加。1864年(元治元年)、31歳の時に参議に任命され、政権中枢に加わった。 -戊辰戦争- 1868年(明治元年)、35歳の時に戊辰戦争が勃発。牧野貞直は、奥羽越列藩同盟の盟主として、新政府軍と戦った。しかし、1869年(明治2年)、36歳の時に新政府軍に降伏。戊辰戦争は終結した。 -明治政府期- 戊辰戦争終結後、牧野貞直は新政府に出仕。内務卿、司法卿、文部卿を歴任した。また、明治10年(1877年)には、西南戦争に際して熊本鎮台司令長官として出征した。 明治12年(1879年)、46歳の時に、伯爵に叙せられた。明治16年(1883年)、50歳の時に、文部大臣に任命された。しかし、翌明治17年(1884年)、51歳の時に辞任した。 明治22年(1889年)、56歳の時に、貴族院議員に勅選された。明治30年(1897年)、64歳の時に、死去した。 牧野貞直は、幕末から明治時代にかけて、日本の近代化に貢献した政治家であった。特に、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍と戦い、明治政府の樹立に貢献した。また、明治政府では内務卿、司法卿、文部卿を歴任し、日本の近代化に尽力した。
歴史上の人物

– 松浦誠信

-松浦誠信の生涯- 松浦誠信(1565年 - 1612年)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国平戸藩初代藩主。キリシタン大名として知られる。 松浦誠信は、肥前国平戸の大名・松浦隆信の三男として生まれた。天正12年(1584年)、父・隆信が死去したため、家督を継いだ。誠信は、キリシタンであり、宣教師を招いて布教活動を許可した。また、平戸に南蛮貿易の拠点を開設し、ポルトガルやスペインと交易を行った。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、西軍に属したが、徳川家康に降伏した。戦後、改易されそうになったが、家康の計らいで所領を安堵された。しかし、キリシタンであることを理由に、慶長15年(1610年)に改易された。その後、平戸を離れ、京都で暮らした。 慶長17年(1612年)、誠信は京都で死去した。享年48。墓所は、京都市東山区にある常光寺。 誠信は、キリシタン大名として知られるが、同時に、平戸藩の基礎を築いた名君でもあった。誠信の治世下、平戸は南蛮貿易の拠点として栄え、多くの文化が流入した。また、誠信は、学問を奨励し、藩校である松浦学館を開設した。誠信の功績は、今日でも平戸に語り継がれている。