【「藤原貞子(1)」】平安時代前期の南家藤原氏の女御

【「藤原貞子(1)」】平安時代前期の南家藤原氏の女御

藤原貞子の生涯

藤原貞子の生涯

-藤原貞子の生涯-

藤原貞子は、平安時代前期の女御。右大臣藤原基経の娘で、醍醐天皇の女御となった。903年(延喜3年)に生誕。なお、10世紀前半成立の『古今和歌集仮名序』には藤原貞子と明記されていないが、藤原貞子を醍醐天皇皇后とする、932年(延長8年)12月29日付の藤原時平奏状や、歴史書の『大鏡』の記述から、藤原貞子が醍醐天皇の皇后として在位していたと考えられている。

915年(延喜15年)に醍醐天皇の女御となる。918年(延喜18年)に忠平王を出産。920年(延喜20年)に昭平親王を出産。923年(延喜23年)に重明親王を出産。藤原貞子は、醍醐天皇の寵愛を受け、たびたび歌合や宴会の場に同席した。藤原貞子は、930年(延長6年)に醍醐天皇が崩御するまで、女御として仕えた。

醍醐天皇の崩御後、藤原貞子は出家し、法名を浄真と改めた。娘である藤原穏子を入内させ、皇太后となった。938年(天慶元年)に55歳で死去した。

藤原貞子の出自と家族

藤原貞子の出自と家族

藤原貞子の出自と家族

藤原貞子は、平安時代前期の女御であり、清和天皇の妃として、貞平親王、貞純親王、貞数親王、元良親王、清和天皇の猶子、元善親王をもうけた。

藤原貞子は、藤原良房と藤原明子の娘として、天長元年(824年)に生まれた。良房は、平安時代初期に権勢を振るった藤原北家の人物であり、貞子は良房の第二子として誕生した。貞子の母である明子も、清和天皇の妃として、貞保親王と源清蔭をもうけた人物である。

藤原氏は、平安時代前期には、南家と北家に分かれており、貞子は南家藤原氏の出身であった。南家藤原氏は、良房の父である藤原冬嗣を祖とし、冬嗣の子である藤原良房と良相が、それぞれ南家藤原氏の嫡流と庶流を形成した。貞子は、良房の長男である基経の妹であり、南家藤原氏の嫡流の一員であった。

貞子は、清和天皇の妃として、貞平親王、貞純親王、貞数親王、元良親王、清和天皇の猶子、元善親王をもうけた。貞平親王は、清和天皇の第一皇子であり、貞純親王は、清和天皇の第二皇子である。貞数親王は、清和天皇の第三皇子であり、元良親王は、清和天皇の第四皇子である。元善親王は、清和天皇の猶子であり、貞子の弟である基経の子である。

貞子は、清和天皇の妃として、政治に大きな影響力を持ち、貞観18年(876年)に清和天皇が崩御すると、皇太后として、清和天皇の第一皇子である貞平親王の践祚を助けた。貞平親王は、陽成天皇として即位したが、貞子と陽成天皇の関係は良好ではなく、貞子は、陽成天皇の退位を画策した。

貞子は、陽成天皇の退位に成功し、貞観19年(877年)に、貞平親王の弟である貞純親王を擁立して、清和天皇の後継者とした。貞純親王は、光孝天皇として即位し、貞子は、光孝天皇の生母として、皇太后の位に就いた。

貞子は、光孝天皇の在位中に、藤原良房の死後に権勢を振るった藤原基経と対立し、基経を排除しようとした。しかし、基経は、貞子の暗殺を画策し、貞子は、貞観20年(878年)に暗殺された。

藤原貞子の死と評価

藤原貞子の死と評価

– 藤原貞子の死と評価

藤原貞子は、天長元年(824年)に亡くなりました。享年37歳でした。貞子の死は、その死を悲しんで源信が自殺したことから、国政にも影響を及ぼしました。嵯峨天皇は、貞子と同じ藤原北家出身の橘嘉智子(橘嵯峨院)を新たな女御に迎えましたが、嘉智子は貞子ほどの影響力を持ちませんでした。これにより、藤原北家の権力は衰退し、藤原南家が台頭するようになりました。

貞子は、その美貌と教養で知られていました。また、政治的な才覚もあり、嵯峨天皇の治世を支えました。貞子の死は、嵯峨天皇に大きな打撃を与え、天皇はしばらくの間、政務を執ることができなくなりました。

貞子は、死後も高い評価を受け続けました。平安時代中期に藤原道長が著した『御堂関白記』には、貞子は「才智兼備にして、天下の婦人の鑑」と称されています。また、平安時代末期に藤原宗頼が著した『中右記』には、貞子は「賢后にして、国を治めるに足る」と評されています。

藤原貞子は、平安時代前期の傑出した女性の一人です。その美貌、教養、政治的な才覚は、多くの人々の尊敬を集めました。貞子の死は、嵯峨天皇に大きな打撃を与え、国政にも影響を及ぼしました。しかし、貞子は死後も高い評価を受け続け、平安時代を通じてその名声は不朽のものとなりました。

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