「崇徳天皇」
保元(ほうげん)の乱と配所生活
保元(ほうげん)の乱とは、1156年に崇徳天皇と後白河天皇の間で起きた内乱のことです。この乱は、崇徳天皇が後白河天皇の皇子である重仁親王(のちの二条天皇)を皇太子としたことに反対し、挙兵したことから始まりました。
乱は、崇徳天皇方の勝利に終わりましたが、後白河天皇方の源義朝や平清盛らが巻き返し、崇徳天皇方は敗北しました。崇徳天皇は、讃岐国(現在の香川県)に配流され、そこで1164年に崩御しました。
崇徳天皇の配所生活は、非常に厳しいものでした。崇徳天皇は、讃岐国で監視下に置かれ、自由に外出することも許されませんでした。また、崇徳天皇は、食料や衣服も十分に与えられず、貧しい生活を送っていました。
崇徳天皇は、配所生活の中で、和歌を詠んだり、日記をつけたりして、自分の思いを表現しました。崇徳天皇の和歌には、配所での孤独や悲しみが詠まれています。また、崇徳天皇の日記には、配所での生活の様子や、崇徳天皇の心情が記されています。
崇徳天皇の配所生活は、1164年に崩御するまで続きました。崇徳天皇は、配所生活の中で、苦しい生活を送りましたが、最後まで自分の信念を貫きました。