勤王から佐幕へ、土佐の誇る思想家「大石円」
勝海舟の弟子として
坂本龍馬と並ぶ土佐の誇る偉人たちといえば、武市半平太、中岡慎太郎、板垣退助が挙げられるだろう。しかし、この4人よりも早く土佐の地に近代思想を広め、世に送り出した重要な思想家がいることをご存知だろうか。その名は、大石円。土佐勤王党の志士として活動したのち、土佐藩の上士でありながら勝海舟の弟子となり、日本の将来を託された人物なのである。
大石円は、1823年(文政6年)に土佐国安芸郡北川村(現在の高知県安芸市)に生まれた。1848年(嘉永元年)に土佐藩の郷士として藩校である致道館に入学し、儒学や武芸を学んだ。1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀に来航すると、土佐藩は海防の強化を図るために藩士を江戸に派遣し、西洋の事情を調査させた。大石円もその派遣メンバーに選ばれ、江戸で西洋の文物や思想に触れることとなった。
江戸滞在中、大石円は勝海舟と出会い、その思想に共鳴する。勝海舟は、日本の独立と富国強兵を目指し、勤王と佐幕を調和させようとする思想を持っていた。大石円は勝海舟の弟子となり、その思想を土佐に持ち帰った。
1854年(嘉永7年)に土佐に帰藩した大石円は、土佐勤王党を結成し、勤王運動を展開した。しかし、1857年(安政4年)に土佐勤王党は藩当局に弾圧され、大石円は投獄された。
投獄中、大石円は勝海舟の思想をより深く学ぶ機会を得た。そして、1862年(文久2年)に釈放されると、土佐藩の上士でありながら勝海舟の弟子として活動するようになった。
大石円は、勝海舟の思想を基に、日本の独立と富国強兵を目指して活動した。1868年(慶応4年)の戊辰戦争では、土佐藩の代表として奥羽列藩同盟と交渉し、薩摩藩と長州藩の勝利に貢献した。
戊辰戦争後、大石円は明治政府に出仕し、様々な要職を歴任した。1871年(明治4年)には文部卿に就任し、日本の近代教育制度の整備に尽力した。1873年(明治6年)には工部卿に就任し、日本の近代産業の発展に貢献した。
大石円は、1878年(明治11年)に55歳で死去した。しかし、その思想は日本の近代化に大きな影響を与えた。大石円は、土佐の誇る思想家であり、日本の近代化に貢献した偉人である。