吉田冠二(2代) – 江戸時代中期~後期の、人形浄瑠璃の人形遣い
初代吉田冠蔵、または初代西川伊三郎に師事
吉田冠二(2代)は、江戸時代中期~後期の、人形浄瑠璃の人形遣いである。初代吉田冠蔵(またの名を初代西川伊三郎)の門弟、また養子ともいわれる。江戸(東京都)で活躍。
1748年(寛延元年)、大坂の豊竹座で初出勤。翌1749年(寛延2年)11月、江戸の桐座に出勤する。以降、江戸の桐座・豊竹座などで活躍。
1755年(宝暦5年)、富本節、並木宗助作詞、一節太郎作曲の浄瑠璃『太平記忠臣講釈』において、冠二の遣う近江屋重兵衛は日置屋五郎(3代吉田又六)と並ぶ名演技で好評を博した。
1783年(天明3年)、江戸の桐座の竹本座披露にあたり、竹本津国太夫の浄瑠璃で、冠二の遣う矢の根五兵衛の立回りが見せ場となった。
1792年(寛政4年)10月、江戸の肥後座で、竹本越路太夫の浄瑠璃で、冠二の遣う南禅寺和尚の立回りが好評を博した。
1795年(寛政7年)10月、江戸の桐座で、竹本越路太夫の浄瑠璃で、冠二の遣う恋山庄の立回りが好評を博した。
1797年(寛政9年)、江戸の肥後座で、竹本越路太夫の浄瑠璃で、冠二の遣う徳兵衛の立回りが好評を博した。
1800年(寛政12年)10月、江戸の桐座で、清元延寿太夫の浄瑠璃で、冠二の遣う村上帝の立回りが好評を博した。
1804年(文化元年)10月、江戸の桐座で、杵屋六三郎の浄瑠璃で、冠二の遣う忠兵衛の立回りが好評を博した。
1805年(文化2年)10月、江戸の桐座で、竹本津太夫の浄瑠璃で、冠二の遣う武辺左衛門の立回りが好評を博した。
1807年(文化4年)10月、江戸の桐座で、清元延寿太夫の浄瑠璃で、冠二の遣う茶売りの立回りが好評を博した。
1811年(文化8年)10月、江戸の桐座で、清元延寿太夫の浄瑠璃で、冠二の遣う唐子の立回りが好評を博した。
初出勤から60年以上、摺鉢の立役の第一人者として活躍した。