歌舞伎役者

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「市川左団次(初代)」

-市川左団次(初代)の生い立ちと経歴- 市川左団次(初代)は、1647年に江戸で生まれた歌舞伎役者です。本名は荒川岩五郎。父は旗本荒川十太夫、母は芸者のお園で、2人の間に生まれた末っ子でした。 左団次は幼い頃から芝居に興味を示し、9歳のときに市川団十郎(初代)に入門しました。その後、歌舞伎界で頭角を現し、1704年に市川左団次(初代)を襲名しました。 左団次は、歌舞伎十八番の演目である「勧進帳」の弁慶や「義経千本桜」のいがみの権太などの役柄で知られています。また、左団次は、歌舞伎の演出や衣装にも精通し、歌舞伎の改革に努めました。 左団次は、1717年に49歳で亡くなりました。その後、市川左団次は、2代、3代、4代と襲名され、現在に至っています。 -左団次の功績- 左団次は、歌舞伎の改革に努めた功績で知られています。左団次は、歌舞伎の演出や衣装に工夫を凝らし、歌舞伎をより華やかで魅力的なものにしました。また、左団次は、歌舞伎の台本も書き直して、よりわかりやすく、面白くしました。 左団次の功績は、歌舞伎の発展に大きく貢献しました。左団次がいなければ、歌舞伎は現在の形になっていなかったかもしれません。 -左団次のエピソード- 左団次は、歌舞伎役者としてだけでなく、人間としても魅力的な人物でした。左団次は、義理人情に厚く、面倒見の良い人物でした。また、左団次は、博学で、芸術にも造詣が深かったと言われています。 左団次には、多くの逸話が残されています。その中には、左団次が火事の現場に駆けつけて、人命を救ったという話もあります。また、左団次は、大名に仕官する話もあったと言われています。しかし、左団次は、歌舞伎役者としての道を貫きました。 左団次は、歌舞伎役者として、人間としても、魅力的な人物でした。左団次は、現在でも多くの人々に愛されている歌舞伎役者です。
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中村雀右衛門(2代) – 幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎役者

-中村雀右衛門(2代)の生涯- 中村雀右衛門(2代)は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎役者です。幼少期から歌舞伎の舞台に立ち、数多くの役柄を演じました。特に、荒事や豪快な役柄を得意としており、多くの観客を魅了しました。 中村雀右衛門(2代)は、1840年(天保11年)に江戸で生まれました。本名は、中村宗七郎です。1851年(嘉永4年)に、中村雀右衛門の養子となり、中村雀右衛門(2代)を襲名しました。 中村雀右衛門(2代)は、1856年(安政3年)に、江戸の歌舞伎座で初舞台を踏みました。当初は、子役として出演することが多かったですが、すぐに頭角を現し、1868年(明治元年)には、中村雀右衛門(2代)を襲名して、歌舞伎界のトップスターとなりました。 中村雀右衛門(2代)は、荒事や豪快な役柄を得意としており、多くの観客を魅了しました。特に、1872年(明治5年)に、猿若座で上演された『仮名手本忠臣蔵』の「大星由良助」役は、中村雀右衛門(2代)の当たり役となり、多くの観客を熱狂させました。 中村雀右衛門(2代)は、1897年(明治30年)に、東京で亡くなりました。享年57歳でした。中村雀右衛門(2代)の死は、歌舞伎界に大きな衝撃を与え、多くの観客が悲しみました。 中村雀右衛門(2代)は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎役者の中で、最も人気が高かった役者の1人です。彼の荒事や豪快な役柄は、多くの観客を魅了し、歌舞伎界に大きな影響を与えました。
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尾上新七(3代)とは?芸歴や経歴、出演作品など

-尾上新七(3代)の芸歴や経歴- 尾上新七(3代)は、1954年12月25日生まれ、東京都出身の歌舞伎役者です。屋号は音羽屋、定紋は丸に違い鷹の羽。本名は尾上信宏。 1966年、11歳の時に尾上新七(2代)に入門し、1968年に歌舞伎座で「新七」の名を襲名。同年、映画『若者たち』で俳優デビューを果たしました。 1970年代には、映画『野性の証明』や『犬神家の一族』などに出演。また、テレビドラマ『水戸黄門』や『大岡越前』などの時代劇にも数多く出演しました。 1980年代には、歌舞伎界で活躍。1983年には、国立劇場で「義経千本桜」の源義経役を演じ、その演技が高く評価されました。 1990年代には、映画『忠臣蔵外伝 四谷怪談』や『壬生義士伝』などに出演。また、テレビドラマ『半沢直樹』や『真田丸』などの現代劇にも出演しました。 2000年代には、歌舞伎界で活躍。2001年には、歌舞伎座で「勧進帳」の弁慶役を演じ、その演技が高く評価されました。 2010年代には、映画『のぼうの城』や『忍びの者』などに出演。また、テレビドラマ『軍師官兵衛』や『いだてん』などの時代劇にも数多く出演しました。 2020年代には、歌舞伎界で活躍。2022年には、歌舞伎座で「助六由縁江戸桜」の助六役を演じ、その演技が高く評価されました。 尾上新七(3代)は、歌舞伎界と映画界で活躍する実力派俳優です。その演技は、多くの人々から支持されています。
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歌舞伎役者・玉川半太夫の魅力を探る

-玉川半太夫の生い立ちと経歴- 玉川半太夫は、1972年4月29日に東京都に生まれた歌舞伎役者です。幼い頃から歌舞伎に興味を持ち、8歳の時には初舞台を踏みました。本名は大橋吾郎。 その後、玉川半太夫は順調にキャリアを積み重ね、2005年には歌舞伎座の最高位である「立役」に昇進しました。2010年には人間国宝に認定され、歌舞伎界を代表するトップスターとなりました。 玉川半太夫は、歌舞伎の伝統を大切にしつつも、新しいことに挑戦する気概も持っています。2012年には、歌舞伎と西洋のクラシック音楽を融合させた「歌舞伎×クラシック」という公演を開催し、大きな話題を呼びました。 2015年には、映画「海街diary」に出演し、同作で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。歌舞伎以外の分野でも活躍の幅を広げています。 玉川半太夫は、その端正な顔立ちと華やかな演技で、多くのファンを魅了しています。歌舞伎界の将来を担う若手俳優として、ますます活躍が期待されています。
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– 沢村藤十郎(2代) (1943~)

-昭和後期から平成時代の歌舞伎役者- 2代の沢村藤十郎は、昭和後期から平成時代にかけて活躍した歌舞伎役者です。1943年に生まれ、東京に育ちました。本名は堀越藤十郎。歌舞伎界のサラブレッドとして生まれ、父は六代目尾上菊五郎、祖父は初代中村吉右衛門でした。 1957年に初舞台を踏み、1964年に二代目沢村藤十郎を襲名しました。1970年代には、「連獅子」の実はじめとする数多くの名作で主演を務め、歌舞伎界をけん引する存在となりました。 1980年代には、「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官や、「勧進帳」の弁慶など、古典歌舞伎の重厚な役柄を演じ、高い評価を得ました。また、1990年代には、「時そば」の初五郎や、「夏祭浪花鑑」の団七九郎兵衛など、世話物の軽妙洒脱な役柄にも挑戦しました。 2000年代には、歌舞伎界の重鎮として、後進の指導にも力を注ぎました。2009年に、歌舞伎界の最高峰である人間国宝に認定されました。 沢村藤十郎は、2012年に70歳で亡くなりました。しかし、その功績は今もなお語り継がれています。
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中村伝九郎 (4代) – 江戸時代の名歌舞伎役者

中村伝九郎 (4代) の生い立ちと芸名の変遷 中村伝九郎 (4代) は、江戸時代前期に活躍した歌舞伎役者である。江戸中村座の座元・中村勘三郎の次男として、1688年に江戸に生まれた。幼名は勘太郎。父・勘三郎は、歌舞伎界の重鎮であり、伝九郎は幼い頃から歌舞伎の英才教育を受ける。1697年に初舞台を踏み、その後、父・勘三郎の指導のもと、歌舞伎役者として頭角を現していく。 1711年に父・勘三郎が没すると、伝九郎は江戸中村座の座元を継承する。この頃、彼は「中村伝九郎 (4代)」を襲名する。それまでの芸名は「中村勘太郎 (2代)」であった。 中村伝九郎 (4代) は、二枚目・三枚目・悪役など、幅広い役柄を演じ、江戸歌舞伎の第一人者として活躍した。特に、荒事の役を得意とし、その豪快な演技は人々を魅了したという。 中村伝九郎 (4代) は、1749年に江戸で亡くなった。享年62。中村座の座元は、息子の中村勘三郎 (5代) が継承した。 中村伝九郎 (4代) は、江戸歌舞伎の黄金期を支えた名優である。その芸は、今日でも高く評価されており、歌舞伎界のレジェンドとして語り継がれている。
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市村竹之丞(5代)(⇒市村羽左衛門(12代)) について知りたいことはすべてここにある

-市村竹之丞(5代)の生涯- 市村竹之丞(5代)は、1906(明治39)年2月5日、東京市芝区新銭座(現在の東京都港区新橋)に、市村竹松(のちの市村竹之丞(4代))の長男として生まれる。本名は市村吉右衛門。 1913(大正2)年、6歳の時に初舞台を踏み、1918(大正7)年に市村竹之丞(5代)を襲名。1924(大正13)年に歌舞伎座に初出演し、以降、歌舞伎の舞台で活躍する。 1931(昭和6)年に市村羽左衛門(12代)を襲名し、歌舞伎界の重鎮として活躍。1946(昭和21)年に人間国宝に認定され、1960(昭和35)年に文化勲章を受章する。 1979(昭和54)年1月3日、肝硬変のため死去。享年72。 市村竹之丞(5代)は、歌舞伎界において最も成功した俳優の一人であり、その演技は高い評価を受けている。また、歌舞伎の伝統を継承し、発展させることに尽力した功績も大きい。 市村竹之丞(5代)の代表作には、以下のようなものがある。 * 『勧進帳』の弁慶 * 『義経千本桜』の義経 * 『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助 * 『菅原伝授手習鑑』の菅原道真 * 『歌舞伎十八番』の様々な役柄 市村竹之丞(5代)は、歌舞伎界の発展に大きく貢献した偉大な俳優であり、その功績は今もなお語り継がれている。
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片岡仁左衛門(10代) – 日本を代表する歌舞伎役者

-歌舞伎界の巨匠 片岡仁左衛門(10代)の生涯- 片岡仁左衛門(10代)は、1925年12月5日に京都市に生まれました。本名は片岡孝夫です。父は九代目片岡仁左衛門、母は片岡富貴子さんです。1936年、父・仁左衛門の勧めで「勧進帳」の富樫左衛門で初舞台を踏みました。その後、1940年に五代目片岡我當、1946年に六代目片岡愛之助と改名し、1955年に十代目片岡仁左衛門を襲名しました。 仁左衛門は、歌舞伎界の重鎮として、数多くの名作に出演しました。「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官、「菅原伝授手習鑑」の菅原道真、「桜姫東文章」の清姫など、その役柄は多岐にわたります。また、海外公演にも積極的に参加し、歌舞伎の魅力を世界に広めました。 仁左衛門は、歌舞伎界のみならず、映画やテレビでも活躍しました。映画では、「大奥物語」(1968年)、「どら平太」(1970年)、「男はつらいよ」(1974年)などに出演し、テレビでは、「人形佐七捕物帳」(1977年)、「天下御免の恩返し」(1980年)、「水戸黄門」(1985年)などに出演しました。 仁左衛門は、2012年11月26日に86歳で亡くなりました。歌舞伎界の大御所の死は、日本の演劇界に大きな衝撃を与えました。仁左衛門の死後、歌舞伎界では「仁左衛門の死は、歌舞伎界の損失である」と多くの関係者が惜しみました。 仁左衛門は、歌舞伎界の巨匠として、数多くの名作を残しました。その功績は、日本の演劇界に永遠に語り継がれるでしょう。
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三代目中村鶴助

- 三代目中村鶴助の生涯 三代目中村鶴助 (1825-1883) は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した歌舞伎役者である。江戸に生まれ、本名は市村清七郎。中村菊五郎 (二代目) の門弟となり、最初は中村福之助を名乗った。1852年に三代目中村鶴助を襲名し、以後歌舞伎界のトップスターとして活躍した。 鶴助は、端正な容貌と優れた演技力で人気を集め、特に女形を得意としていた。代表作には、「仮名手本忠臣蔵」のおかる、「義経千本桜」の静、「勧進帳」の弁慶などがある。また、舞踊にも優れ、特に「奴道成寺」の舞は鶴助の十八番として名高い。 鶴助は、1883年に58歳で死去した。死後、その功績をたたえて歌舞伎座に「鶴助の像」が建てられた。鶴助の遺志により、その像は「歌舞伎の祖」とされる初代中村勘三郎 (勘三郎) の像と並んで建立された。 鶴助は、歌舞伎界に大きな足跡を残した名優である。その演技は、多くの役者に影響を与え、現在でもその芸風が継承されている。 - 三代目中村鶴助のエピソード 鶴助には、多くのエピソードが伝わっている。その一つが、鶴助が女形を演じたときに、ある武士が鶴助に惚れ込んで、結婚を申し込んだというエピソードである。鶴助は、武士の申し出を断ったが、武士は諦めずに鶴助の家に通い続けた。ある日、武士はついに鶴助の家に押しかけ、鶴助に迫った。鶴助は、武士の熱意にほだされて、武士と結婚したという。 鶴助は、結婚後も歌舞伎役者として活躍を続け、武士との間には子供が生まれた。しかし、鶴助は33歳の若さで死去し、武士は鶴助の死後も独身を貫いたという。 鶴助は、歌舞伎役者としてだけでなく、人間としても魅力にあふれた人物であった。その生涯は、多くの伝説に彩られている。
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森田勘弥(4代) – 江戸時代中期の歌舞伎役者

-# 森田勘弥(4代)の生涯 森田勘弥(4代)は、江戸時代中期の歌舞伎役者。通称は伴七。森田勘弥家四代目。屋号は伴七。江戸(現・東京都)出身。 1708年10月、江戸牛込の薬種屋に生まれる。本名は魚住二郎右衛門。幼少のころから芝居好きで、10歳の時に中村座に初出演する。 1722年、市川團十郎(2代)の門下に入り、市川九蔵と名乗る。その後、市川八百蔵、市川九蔵、市川伴七と改名する。 1742年、中村座で中村勘三郎(3代)の養子となり、中村勘弥と改名する。 1746年、中村座で初めて「七段目」の荒事方を演じ、大成功を収める。 1751年、中村座で初役の「傾城阿波の鳴門」の鳴門屋を演じる。 1753年、中村座で初役の「菅原伝授手習鑑」の菅丞相を演じる。 1759年、中村座で初役の「義経千本桜」の狐忠信を演じる。 1760年、中村座で初役の「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官を演じる。 1764年、中村座で初役の「歌舞伎十八番」の「勧進帳」の弁慶を演じる。 1775年、中村座で初役の「曽根崎心中」の徳兵衛を演じる。 1780年、中村座で初役の「双蝶々曲輪日記」の白浪五人男を演じる。 1783年、中村座で初役の「勧進帳」の富樫を演じる。 1789年、中村座で初役の「鏡獅子」の老狐を演じる。 1792年、中村座で初役の「義経千本桜」のいがみの権太を演じる。 1795年、中村座で初役の「仮名手本忠臣蔵」の赤穂浪士を演じる。 1800年、中村座で初役の「菅原伝授手習鑑」の松王丸を演じる。 1803年、中村座で初役の「歌舞伎十八番」の「連獅子」の獅子の精を演じる。 1806年、中村座で初役の「歌舞伎十八番」の「暫」の弁慶を演じる。 1809年、中村座で初役の「歌舞伎十八番」の「助六」の助六を演じる。 1812年8月4日、江戸で死去。享年79。
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「嵐吉三郎(5代)」

「嵐吉三郎(5代)」の生涯 「嵐吉三郎(5代)」は、江戸時代中期の歌舞伎役者です。1710年、江戸中村座で初舞台を踏み、その後、江戸市村座の座頭を務めました。また、大坂の歌舞伎にも出演し、人気を博しました。 「嵐吉三郎(5代)」は、世話物、世話狂言、世話浄瑠璃を得意とし、特に世話狂言では、庶民の生活をリアルに描いた演技で人気を集めました。また、子供役も得意で、そのかわいらしさで人気を博しました。 「嵐吉三郎(5代)」は、1762年に亡くなりました。享年53歳でした。その死は、歌舞伎界に大きな衝撃を与え、多くのファンが悲しみにくれました。 「嵐吉三郎(5代)」は、江戸中期の歌舞伎を代表する役者の一人であり、その演技は多くの観客を魅了しました。また、世話狂言や世話浄瑠璃の発展に貢献し、歌舞伎の歴史に大きな功績を残しました。
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坂東秀調(4代)

- 坂東秀調(4代)苦難の芸歴と成熟期 坂東秀調(4代)は、明治28年(1895年)に東京で生まれました。本名は森岡芳太郎。幼い頃から歌舞伎に親しみ、明治41年(1908年)に初代中村吉右衛門の門下に入り、中村吉太郎を名乗って初舞台を踏みました。 しかし、吉太郎の芸歴は苦難の連続でした。大正3年(1914年)に、師匠の吉右衛門が死去し、その後は中村梅之助の門下に移りました。しかし、梅之助も大正8年(1919年)に死去してしまいます。その後は、自ら一座を率いて全国を巡業しましたが、苦労が絶えませんでした。 そんな中、吉太郎は芸名を坂東秀調と改名し、昭和3年(1928年)に東京の歌舞伎座で初お目見えを果たします。しかし、この時もすぐに成功することはできず、しばらくは脇役として出演していました。 昭和9年(1934年)に、秀調は初めて主演を務めることになりました。演目は「菅原伝授手習鑑」の寺子屋。この公演は大成功を収め、秀調は一躍人気役者となりました。 その後、秀調は「義経千本桜」の狐忠信「勧進帳」の弁慶「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官など、数々の名舞台を踏みました。昭和25年(1950年)には、歌舞伎座の経営難を救うために、自ら座長となって「歌舞伎座再建公演」を企画。この公演は大成功を収め、歌舞伎座の再建に貢献しました。 秀調は、昭和37年(1962年)に脳溢血で倒れ、半身不随となりました。しかし、その後もリハビリを続け、昭和43年(1968年)に舞台復帰を果たします。そして、昭和54年(1979年)まで、第一線で活躍を続けました。 秀調は、生涯を通じて苦難を乗り越え、数々の名舞台を踏んだ歌舞伎俳優でした。その芸は、多くの人々に感動を与え、日本の伝統芸能の発展に貢献しました。
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猿若山左衛門(2代):江戸時代前期-中期の歌舞伎役者の生涯と功績

-猿若山左衛門(2代)の生い立ちと芸歴- 猿若山左衛門(2代)は、江戸時代前期から中期にかけて活躍した歌舞伎役者である。本名は中村重次。1645年、京都で生まれる。幼い頃から寺子屋に通い、読み書きを学ぶ。10歳の時、中村重若に入門し、歌舞伎の修行を始める。重若は、初代猿若山左衛門の弟であり、当時、京都で活躍する人気役者であった。左衛門は、重若の指導の下、演技や舞踊の稽古に励み、1660年に初舞台を踏む。 左衛門は、その美貌と優れた演技力でたちまち人気者となり、1670年に江戸に下り、中村座で活躍する。1681年には、市村座の座頭となり、歌舞伎界を牽引する存在となる。左衛門は、歌舞伎の演目を開拓し、新しい演出方法を導入するなど、歌舞伎の発展に大きく貢献した。また、左衛門は、数多くの弟子を育て上げ、歌舞伎界に大きな影響を与えた。 左衛門は、1709年に65歳で死去する。左衛門の死は、歌舞伎界に大きな衝撃を与え、多くのファンが悲しみに暮れた。左衛門は、歌舞伎の発展に大きく貢献した偉大な役者であり、その功績は現在も高く評価されている。
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市川小団次(5代) – 稀代の歌舞伎役者

歌舞伎界の巨匠 市川小団次(5代)の歴史 市川小団次(5代)は、昭和43年、東京都に生まれ、歌舞伎界の重鎮である市川團十郎(12代)の長男として誕生しました。幼名は、市川新之助(8代)で、6歳の時に「勧進帳」の牛若丸役で初舞台を踏み、その後も数々の舞台で重要な役どころを演じました。 1994年、21歳の時に市川小団次(5代)を襲名し、歌舞伎界の第一線で活躍するようになりました。その端正な容姿と卓越した演技力で、多くの観客を魅了し、歌舞伎界の若手筆頭として注目を集めました。 小団次は、歌舞伎だけでなく、映画やテレビドラマにも出演し、その演技力は高く評価されました。また、歌舞伎界の伝統を大切にしつつ、新しい演出を取り入れるなど、歌舞伎の革新にも尽力しました。 平成25年、38歳の時に歌舞伎界の最高の名誉である人間国宝に認定されました。これは、歌舞伎界で最も若い人間国宝であり、小団次の功績が認められた証です。 小団次は、現在も歌舞伎界で活躍しており、その演技は多くの観客を魅了し続けています。また、歌舞伎界の未来を担う若手俳優の育成にも力を注いでおり、歌舞伎界の発展に貢献しています。 小団次は、歌舞伎界の巨匠であり、その功績は高く評価されています。これからも、その卓越した演技力で歌舞伎界を盛り上げてくれることでしょう。
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中村福助(9代)-昭和後期-平成時代の歌舞伎役者

-中村福助の芸歴- 中村福助は、1931年(昭和6年)に東京都に生まれた。本名は山下正男。父は俳優の中村扇雀(8代目)、母は女優の河野秋子である。 福助は、1940年(昭和15年)に初舞台を踏み、1946年(昭和21年)に中村楽昇を名乗った。1950年(昭和25年)には、中村福助を襲名した。 福助は、歌舞伎役者として活躍し、多くの作品に出演した。代表作には、「勧進帳」の弁慶、「義経千本桜」の狐忠信、「仮名手本忠臣蔵」の塩冶判官などがある。 福助は、歌舞伎役者としてだけでなく、映画俳優としても活躍した。代表作には、「羅生門」(1950年)、「七人の侍」(1954年)、「用心棒」(1961年)などがある。 福助は、1998年(平成10年)に勲四等旭日小綬章を受章した。2002年(平成14年)に、中村福助(9代目)を襲名した。 福助は、2011年(平成23年)3月11日に、東日本大震災の影響による東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故により、福島県いわき市で被災した。福助は、いわき市に滞在していたところ、原発から20キロ圏内に避難指示が出されたため、急きょ避難した。 福助は、避難先で被災者の支援活動を行った。福助は、避難所を訪れて、被災者に声をかけて励ましたり、炊き出しを手伝ったりした。 福助は、2012年(平成24年)に、福島県いわき市に「中村福助東日本大震災復興支援基金」を設立した。この基金は、東日本大震災で被災した人々への支援活動を行うために設立された。 福助は、2013年(平成25年)に、福島県いわき市で「中村福助東日本大震災復興支援コンサート」を開催した。このコンサートは、東日本大震災で被災した人々を支援するために行われた。 福助は、2014年(平成26年)に、福島県いわき市で「中村福助東日本大震災復興支援演芸会」を開催した。この演芸会は、東日本大震災で被災した人々を支援するために行われた。 福助は、現在も、歌舞伎役者として活躍している。
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「藤田吉三郎」

- 藤田吉三郎の生涯 藤田吉三郎は、1885年(明治18年)に福岡県久留米市に生まれました。久留米市立久留米商業学校(現・福岡県立久留米商業高等学校)を卒業後、1903年(明治36年)に日本銀行に入行しました。1915年(大正4年)に日本銀行大阪支店に異動となり、1920年(大正9年)に日本銀行本店に帰任しました。1923年(大正12年)に関東大震災が発生すると、藤田は震災復興のために尽力しました。1925年(大正14年)に日本銀行本店次長に昇進し、1927年(昭和2年)に日本銀行副総裁に就任しました。1937年(昭和12年)に日本銀行総裁に就任し、1945年(昭和20年)まで務めました。 藤田は、日本銀行総裁として第二次世界大戦中に日本の金融政策を指揮しました。藤田は、インフレを抑えるために金融引き締め政策を実施し、戦時国債の発行を抑制しました。また、藤田は、戦時中に日本の金融機関が海外に保有していた資産を売却することで、外貨を獲得しました。 藤田は、第二次世界大戦後に連合国軍総司令部(GHQ)によって公職追放されました。1951年(昭和26年)に公職追放が解除されると、藤田は日本銀行総裁に復帰しました。藤田は、日本銀行総裁として日本の金融政策を正常化し、経済復興を支援しました。1954年(昭和29年)に藤田は日本銀行総裁を退任しました。 藤田は、1968年(昭和43年)に83歳で亡くなりました。藤田は、日本の金融界に多大な功績を残した人物として知られています。
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片岡仁左衛門(11代) – 歌舞伎役者

-片岡仁左衛門 (初代)の概要- 初代片岡仁左衛門は、1714年、大坂に生まれました。幼い頃から歌舞伎に親しみ、15歳のときに舞台に立ちました。その後、江戸に上り、市川海老蔵の門下生となりました。1736年には、市川團十郎と改名し、人気役者となりました。1742年に、大坂に戻り、片岡仁左衛門を名乗りました。以来、大坂歌舞伎の中心人物として活躍しました。 仁左衛門は、優れた演技力と華のある容姿で、多くの人々に愛されました。特に、世話物の演技に定評があり、世話物の名手と呼ばれました。また、仁左衛門は、歌舞伎の振付にも優れており、多くの作品を残しました。 仁左衛門は、1783年に、大坂で亡くなりました。享年70歳でした。仁左衛門の死後、その芸は息子の2代目仁左衛門が受け継ぎました。2代目仁左衛門も、優れた役者として活躍し、片岡仁左衛門の名声を高めました。 初代片岡仁左衛門は、歌舞伎の歴史に名を残す名優です。その演技力と華のある容姿は、多くの人々に愛され、現在でもその芸は語り継がれています。
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歌舞伎役者 藤川武左衛門(2代)

-亀谷仲蔵から2代目武左衛門へ- 明治14年(1881年)7月、亀谷仲蔵(1854-1929)が30歳で二代目武左衛門を襲名し、歌舞伎の世界に一躍名を馳せた。 仲十郎以来の亀谷出身の武左衛門、しかも直接の弟子として仲蔵は、父の仲十郎(初代武左衛門)の芸風を正統的に継承し、悪役ながら何とも洗練された芸風で、その芸風は非常に優美でありながら豪快で、またその容姿にも恵まれていた。 弟の五代目亀谷万蔵(1863-1947)と合わせて武左衛門・万蔵と称され、芝居の看板ではいつも武左衛門の名前が上に書かれていた。 仲蔵も晩年、若手のダンサーのような髪型をした鬘を付け、黒の上衣に髑髏の模様を金糸で刺繍した着物を着て、躍動感溢れる演技を見せていた。 また、仲蔵は九州の福岡県出身で、若い頃、近松門左衛門の戯曲『心中二枚絵草紙』の伊左衛門役に扮したことに触発されて、自ら『修羅道』という忠臣蔵の番町皿屋敷をモチーフにした新作劇を書き上げた。 仲蔵の『修羅道』は、彼の美貌と女性的な容姿が活かされた名作であり、彼の代表作としても知られている。 仲蔵は、大正9年(1920年)に七代目市川團十郎と襲名したが、仲蔵という本名でも活躍を続け、12月に上方、1月に東京で続演して、13年(1924年)6月に襲名披露をした。 しかし、明治5年(1872年)に東京で火事が起こった時に、彼の住んでいた亀谷家は焼かれ、彼は家がなくなったので、中村座に身を寄せていた。 そのため、物心がついた時から彼は何不自由なく生活を送っていたが、生活に苦労した経験もあったので、舞台稽古が遅れるものは、座頭である仲蔵に「なまけんぼ」と罵られたりすることもあった。 仲蔵は、常々「役者の舞台稽古は、精神的にも体力的に大変な負担がかかるし、特に老役の俳優は大変で、体力の衰えを隠すために舞台稽古をしないのは、自分の芸を磨かない役者として、最低のことだ」と言っていた。 また、彼は「役者の舞台稽古は、俳優としての一流と二流、三流の差が出る」とも述べている。 仲蔵は、正統派の武左衛門として、歌舞伎の世界で活躍し、その芸風は非常に優美でありながら豪快で、またその容姿にも恵まれていた。 彼は、明治45年(1912年)に75歳で死去したが、その芸風は現在も受け継がれており、歌舞伎の舞台で活躍している。
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嵐冠十郎(4代)とは?

嵐冠十郎(4代)の生い立ち 嵐冠十郎(4代)は、1979年12月29日に東京都に生まれた。本名は、中島勝彦。 父は、歌舞伎俳優の中島広司(2代目嵐冠十郎)、母は、元女優の勝見弥生である。 冠十郎は、3歳から日本舞踊を習い始め、6歳で初舞台を踏んだ。 1993年、13歳の時に、祖父である初代嵐冠十郎の襲名を許され、4代目嵐冠十郎を名乗った。 冠十郎は、歌舞伎の伝統を重んじながらも、新しいことに挑戦する姿勢で知られている。 2003年には、歌舞伎座で上演された「スーパー歌舞伎II ワンピース」に出演し、ルフィ役を演じた。 この公演は、歌舞伎とアニメのコラボレーションとして話題を集め、大きな成功を収めた。 冠十郎は、歌舞伎以外にも、映画やドラマに出演している。 2010年には、映画「十三人の刺客」に出演し、土井半蔵役を演じた。 この映画は、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞するなど、高い評価を受けた。 冠十郎は、歌舞伎界を代表する俳優として、活躍を続けている。
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中村梅玉(4代) – 歌舞伎役者

中村梅玉(4代)のプロフィール 中村 梅玉(4代)(なかむら ばいぎょく、1947年12月8日 - )は日本の歌舞伎役者、俳優。屋号は播磨屋。本名は杉村 正之(すぎむら まさのぶ)。東京都出身。 二代目中村梅玉の次男として生まれ、1950年3月に前進座研究所に入所し、6月に初舞台を踏む。1951年3月に七代目尾上梅幸に弟子入りし、1952年11月に市川梅之助を名乗る。1962年11月に三代目中村梅玉を襲名し、1994年11月に四代目中村梅玉となる。 梅玉は、立役、女形、敵役、老役など幅広い役柄を演じる実力派の歌舞伎役者として知られている。特に、女形として活躍しており、『仮名手本忠臣蔵』の顔世御前、『菅原伝授手習鑑』の寺子屋の段の千代、『義経千本桜』のすし屋の出端の静御前、『源氏物語』の六条御息所など、数々の名演を残している。 また、梅玉は映画やテレビドラマにも出演しており、1968年には『若者たち』で映画デビューを果たした。その後、『男はつらいよ寅次郎純情詩集』、『風の又三郎』、『釣りバカ日誌』シリーズなど、数多くの作品に出演している。 梅玉は、歌舞伎界の発展に貢献した功績が認められ、2004年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。また、2012年には紫綬褒章を受章している。
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中山文七(初代)

-中山文七(初代)の生涯- 中山文七(初代)は、1831年(天保2年)に江戸(現在の東京)で生まれました。父は中山文蔵、母は中山文平の娘です。文七は、幼い頃から商才に優れ、15歳の時には独立して呉服店を開業しました。文七の店は、江戸っ子の粋な心意気を重視した経営方針が評判となり、たちまち人気店になりました。 文七は、30歳の時に結婚し、二人の娘を授かりました。しかし、文七の妻は、娘を出産した後に亡くなりました。文七は、幼い娘たちを一人で育てながら、商売を続けました。 文七は、40歳の時に、日本橋に大きな呉服店を構えました。文七の店は、日本全国から客が訪れるほどの繁盛店となり、文七は、江戸屈指の豪商になりました。 文七は、50歳の時に、隠居して実業家として活躍しました。文七は、毛織物や製鉄などの近代的な産業を興し、日本の産業の発展に貢献しました。 文七は、70歳の時に、亡くなりました。文七の死後、文七の事業は、息子の中山文八が引き継ぎました。中山文七(初代)は、江戸っ子の粋な心意気を大切にした商売を貫き、日本の産業の発展に貢献した偉大な実業家でした。
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藤間勘翁とは?:日本の伝統芸能の歌舞伎役者

藤間勘翁のプロフィール 藤間勘翁は、1935年3月28日に大阪府大阪市西区に、本名藤間勘次郎として生まれた歌舞伎役者です。父は藤間勘十郎、母は藤間さとです。幼い頃から舞台に立ち、1950年に藤間勘翁を襲名しました。 勘翁は、歌舞伎の名門である藤間家の出身で、祖父の藤間勘十郎は、歌舞伎界の重鎮の一人でした。勘翁自身も、父や祖父の教えを受け、早くから歌舞伎の基礎を学びました。1950年に藤間勘翁を襲名し、歌舞伎界で活躍し始めます。 勘翁は、歌舞伎の立役を中心に活躍し、数多くの演目で主演を務めました。その中でも、特に有名なのが、「勧進帳」の弁慶、「義経千本桜」の佐藤忠信、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助などです。勘翁は、これらの演目で、その力強い演技と華麗な舞踊で、観客を魅了しました。 勘翁は、歌舞伎だけでなく、映画やテレビドラマにも出演しました。映画では、「赤穂浪士」(1961年)、「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」(1962年)、「天と地と」(1964年)などに出演し、その演技力が絶賛されました。また、テレビドラマでは、「大岡越前」(1970年~1999年)、「水戸黄門」(1973年~1999年)などに出演し、国民的人気を獲得しました。 勘翁は、2017年1月2日に死去しました。享年81歳でした。勘翁の死は、歌舞伎界に大きな衝撃を与え、多くの人が悲しみにくれました。勘翁は、歌舞伎界を代表する名優であり、その功績は永遠に語り継がれるでしょう。
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浅尾為十郎(2代) – 江戸時代後期の歌舞伎役者

-浅尾為十郎(2代)の生涯- 浅尾為十郎(2代)は、江戸時代後期の歌舞伎役者である。享保20年(1735年)に江戸で生まれ、宝暦5年(1755年)に初舞台を踏んだ。 為十郎は、その優れた演技力と端正な容姿で人気を博し、すぐに江戸の歌舞伎界でトップスターの座を占めるようになった。彼は、歌舞伎のあらゆる役柄をこなすことができ、特に荒事(豪快で勇壮な役柄)と実事(庶民的な役柄)を得意とした。 為十郎は、寛政9年(1797年)に死去するまで、歌舞伎界で活躍し続けた。享年63歳。彼は、その生涯に数多くの名作を残し、歌舞伎の歴史に大きな足跡を残した偉大な役者である。 為十郎は、歌舞伎界で初めて「役者としての一人前」という概念を確立した人物である。それまでの歌舞伎役者は、単なる芸能人として扱われていたが、為十郎は、歌舞伎役者を一人の芸術家として認めさせ、その地位を向上させた。 また、為十郎は、歌舞伎の演出にも大きな影響を与えた。それまでの歌舞伎は、役者の演技に重点が置かれていたが、為十郎は、舞台装置や照明にもこだわり、歌舞伎をより総合的な芸術として発展させた。 為十郎は、江戸時代後期の歌舞伎界を代表する役者であり、その功績は今日でも高く評価されている。
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中村翫雀(2代) – 江戸時代後期の歌舞伎役者

-中村翫雀(2代) - 江戸時代後期の歌舞伎役者- -初舞台から上方の移籍- 中村翫雀(2代)は、江戸時代後期の歌舞伎役者である。二代目中村傳九郎の門弟で、初代中村翫雀の養子。 初舞台は、1832年(天保3年)5月、江戸中村座で「鎧讌軍記」の海野小太郎役。 1835年(天保6年)に二代目中村翫雀を襲名。 1845年(弘化2年)には、江戸河原崎座に中村芝翫、市川團十郎、坂東彦三郎らと移籍。 1847年(弘化4年)には、江戸市村座に再び移籍した。 同年、四代目中村仲蔵らと上方へ移籍し、1855年(安政2年)に大坂角座で「勧進帳」の弁慶役で初舞台。 その後も、大坂中座や京都南座に出演し、人気を集めた。 1865年(慶応元年)に江戸に戻り、市村座に出演。 1871年(明治4年)には、東京新富座で「忠臣蔵」の浅野内匠頭役を当たり役として、人気を博した。 1874年(明治7年)に大阪で亡くなった。