栗田土満 – 江戸時代中期の歌人・国学者
栗田土満の生涯
栗田土満(くりたたつま、1733年4月17日(享保18年3月14日) - 1811年1月22日(文化7年12月19日))は、江戸時代中期の歌人・国学者。名は常慶、字は君之、通称は藤蔵・甚助。号は土満・藤舎・恵満。播磨国美嚢郡平岡村塩田村(現・兵庫県加古川市平岡町塩田)生まれ。
土満の父・長蔵は村役人であったが、土満が3歳のときに没した。土満は母・美和と姉・お徳に育てられた。土満は幼少の頃から学問を好み、15歳のときに播磨国明石郡平岡村(現・兵庫県明石市)の儒学者・尾藤二洲の門下に入った。二洲のもとで漢学や和歌を学び、18歳のときに二洲の娘・お筆と結婚した。
1755年(宝暦5年)、土満は二洲とともに大坂に出て、儒学者・山崎闇斎の門下に入った。闇斎のもとで儒学を学び、1758年(宝暦6年)に二洲とともに播磨国に戻った。
1760年(宝暦10年)、土満は二洲の死後、二洲の私塾である「二洲塾」を引き継いだ。二洲塾は、播磨国だけでなく、近隣諸国からも多くの学生が集まる名門塾であった。土満は二洲塾で儒学や和歌を教え、多くの門人を育てた。
土満は歌人としても活躍し、1792年(寛政4年)に『新撰万葉集』を編纂した。新撰万葉集は、平安時代から鎌倉時代にかけての歌人・藤原定家の『夫木和歌抄』を模倣した和歌集である。新撰万葉集には、土満自身の和歌や門人の和歌が収録されている。
土満は国学者としても活躍し、1798年(寛政10年)に『古事記伝』を著した。古事記伝は、日本最古の歴史書である『古事記』の注釈書である。土満は古事記伝の中で、古事記のテキストを批判的に検討し、古事記の成立過程を明らかにした。古事記伝は、古事記研究の基礎を築いた重要な著作である。
土満は1811年(文化7年)に77歳で死去した。土満の墓は、兵庫県加古川市平岡町塩田の正法寺にある。