横山徳渓:幕末から明治にかけての傑出した漢学者
生涯と経歴
横山徳渓(1812年 - 1888年)は、幕末から明治にかけての傑出した漢学者です。周防国(現在の山口県)に生まれ、本名は横山徳治(とくじ)と言いました。幼少期より漢学を学び、18歳で江戸に遊学します。
江戸では、昌平坂学問所に学び、朱子学を修めました。また、水戸藩士の藤田東湖や、尊皇攘夷派の志士であった吉田松陰らと交流を深めました。1841年に周防国に帰郷し、藩校の山口明倫館で教授を務めました。
1853年にペリーが浦賀に来航すると、徳渓は攘夷論を唱え、藩主の毛利敬親に攘夷の実行を勧めます。しかし、敬親は徳渓の意見を容れず、徳渓は藩を追放されてしまいます。
徳渓は、その後、京都や大阪、江戸を転々とし、各地で漢学を講じました。1868年に明治維新が起きると、徳渓は新政府に出仕し、大学大丞や侍読などの要職を歴任しました。
1872年に東京帝国大学が設立されると、徳渓は初代総長に就任しました。その後、文部省の初代文部卿となり、日本の近代教育制度の確立に尽力しました。
徳渓は、1888年に76歳で死去しました。徳渓は、幕末から明治にかけての激動の時代に活躍した偉大な漢学者であり、日本の近代化に貢献した人物として知られています。