「中村正直」
-中村正直-
-幕末-明治時代の教育者,啓蒙思想家-
中村正直は、日本の幕末から明治時代にかけての教育者、啓蒙思想家である。昌平坂学問所に入学し、儒学を学ぶ。その後、洋学を学ぶために長崎に遊学する。帰国後は、昌平坂学問所に復学し、洋学を講義する。幕府が倒れ、明治政府が成立すると、文部省に勤務する。文部省では、学制の制定や教育制度の改革に尽力する。また、民間の学校を設立し、教育の普及に努める。正直は、日本の近代教育制度の確立に大きな貢献をした人物である。
-幼年期から青少年期-
中村正直は、1832年(天保3年)7月14日、江戸の牛込津久戸に生まれる。父は中村徳太郎、母はすがである。徳太郎は、甲州街道の飯田宿にある本陣「中村屋」の次男で、江戸に出て呉服商を営んでいた。すがは、武蔵国榛沢郡の豪農の娘である。正直は、幼少期から聡明で、読書を好んだ。10歳のとき、昌平坂学問所に入学し、儒学を学ぶ。昌平坂学問所は、江戸幕府の最高学府であり、全国から優秀な学生が集まっていた。正直は、昌平坂学問所で、朱子学を学び、特に朱子学者の伊藤仁斎に傾倒する。
-長崎遊学と洋学への傾倒-
1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航する。ペリー来航は、日本に大きな衝撃を与え、幕府は国防の強化を図る。正直も、国防の強化のために洋学を学ぶ必要があると考え、1855年(安政2年)に昌平坂学問所を退学して長崎に遊学する。長崎は、当時の日本における洋学の中心地であり、多くの洋学者が集まっていた。正直は、長崎で、オランダ語を学び、西洋の自然科学や政治思想を学ぶ。正統な西洋医学を勉強した、シーボルトの弟子である、伊東玄朴、その伊東玄朴の愛弟子だった松本良順、それにオランダ軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトから直接指導を受けている。
-昌平坂学問所への復学と洋学講義-
1858年(安政5年)、正直は長崎から帰国し、昌平坂学問所に復学する。昌平坂学問所では、洋学を講義する。正直の洋学講義は、とても人気があり、多くの学生が集まった。正直は、洋学講義の中で、西洋の自然科学や政治思想を紹介し、日本の近代化の必要性を説いた。正直の洋学講義は、日本の近代化に大きな影響を与えた。
-明治政府への出仕と教育改革-
1868年(明治元年)、幕府が倒れ、明治政府が成立する。正直は、明治政府に出仕し、文部省に勤務する。文部省では、学制の制定や教育制度の改革に尽力する。正直は、1872年(明治5年)に公布された学制の起草に参加し、日本の近代教育制度の確立に大きな貢献をした。
-民間の学校設立と教育の普及-
正直は、文部省を退官した後、民間の学校を設立し、教育の普及に努めた。正直は、1875年(明治8年)に東京専門学校を設立する。東京専門学校は、日本の最初の私立専門学校であり、多くの学生が学んだ。正直は、東京専門学校の校長として、教育の充実を図り、日本の近代化に貢献した。
-晩年と死-
正直は、1891年(明治24年)に死去する。享年59歳であった。正直は、日本の近代教育制度の確立に大きな貢献をした人物であり、日本の近代化に大きな影響を与えた。