浅井瓢緑 – 明治時代の俳人
浅井瓢緑 - 明治時代の俳人
浅井瓢緑の生涯
浅井瓢緑(1845-1917)は、明治時代の俳人です。幼名は熊寿、通称は文蔵、号は瓢緑。幕末の動乱期に生まれ、新政府の中枢で活躍した政治家・大久保利通に師事し、俳句をたしなむようになります。
1870年(明治3年)に大久保利通の命で欧米に留学し、帰国後は大蔵省の官吏として勤務。1880年(明治13年)に官を辞して俳句に専念し、高浜虚子、正岡子規らと親交を深めます。1885年(明治18年)に俳誌「ホトトギス」を創刊し、近代俳句の発展に貢献しました。
瓢緑の俳句は、写生を重んじる清澄な作風で知られ、俳句の基本理念である「不易流行」を体現する俳人として高く評価されています。1897年(明治30年)に句集「露沾集」を刊行し、1908年(明治41年)には俳人初の帝国芸術院会員に選出されました。
瓢緑は、俳句の近代化に尽力した功績により、1917年(大正6年)に没後正四位に叙されました。彼の俳句は、現在でも多くの俳人に愛され、読み継がれています。