藤原経家 – 平安後期から鎌倉時代にかけて活躍した公卿と歌人
-藤原経家とは-
藤原経家は、平安後期から鎌倉時代にかけて活躍した公卿と歌人である。父は藤原家隆、母は藤原範季の娘・範子。1184年(寿永3年)に生まれ、1241年(嘉禎元年)に58歳で亡くなった。
経家は、幼い頃から和歌を学び、13歳で歌集『経家集』をまとめるなど、早熟の天才として知られていた。『経家集』は、『万葉集』や『古今和歌集』などの古典を模倣した和歌を多く収めており、経家の和歌の才能を垣間見ることができる。
18歳で蔵人所に入り、その後、侍従、左兵衛佐、右近衛権中将などを歴任した。また、1219年(承久元年)には、承久の乱で後鳥羽上皇に味方し、鎌倉幕府と戦った。しかし、幕府軍が勝利し、経家は敗北して失脚した。
その後、経家は出家して一遍上人となり、各地を遊行して念仏を唱えた。1241年(嘉禎元年)には、京都の六波羅蜜寺で亡くなった。
経家は、和歌の才能だけでなく、その美貌でも知られていた。『愚管抄』には、経家が「日本第一の美男」であったと記されている。また、経家は、女性にモテたようで、多くの女性との間に子供をもうけた。その中には、鎌倉幕府の執権・北条泰時の娘・時子も含まれている。
経家は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した、和歌と美貌で知られた公卿と歌人である。