薬師院 – 戦国時代の茶人
薬師院の生涯と人物像
薬師院は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した茶人です。本名は織田廣信(織田長益)といい、尾張国愛知郡岩崎(現・愛知県愛知郡長久手市)に生まれました。織田信長の弟あるいは叔父にあたるともいわれていますが、詳細は不明です。
薬師院は、若い頃から茶の湯を好み、松永久秀や今井宗久ら当時の名だたる茶人と交流しました。また、茶道に関する著書『南方録』を残しており、これは日本の茶道史において重要な文献のひとつとされています。
薬師院は、1582年(天正10年)に本能寺の変で信長が自害した際、その直後に剃髪して出家しました。その後、薬師院と号し、茶の湯の指導に専念するようになりました。また、聚楽第の茶室「松向軒」の設計にも携わったと伝えられています。
薬師院は、1596年(慶長元年)に京都で死去しました。享年71歳でした。薬師院の死後、その茶道は弟子である小堀遠州によって受け継がれました。
薬師院は、茶人としての才能だけでなく、武将としても勇猛果敢な一面を持っていました。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで、信長の軍勢が今川義元の軍勢を破ったとき、薬師院は信長の先鋒を務めて活躍しました。また、1570年(元亀元年)の姉川の戦いでは、信長の軍勢が浅井・朝倉連合軍を破ったとき、薬師院は信長の右翼を務めて活躍しました。
薬師院は、茶人としてはもちろん、武将としても優れた人物でした。その生涯は、戦国時代の激動の時代を象徴しているといえるでしょう。