「樋口権右衛門」(⇒小林義信(こばやし-よしのぶ))について
- 樋口権右衛門の生涯
樋口権右衛門は、戦国時代末期から江戸時代初期の武将で、徳川氏の家臣であり、のちに初代播州赤穂藩主となる。幼名は徳之助、通称は新右衛門、のちに権右衛門。諱は義信。
樋口権右衛門は、三河国額田郡釜谷(現在の愛知県岡崎市釜谷町)に、樋口直哉の長男として生まれた。永禄3年(1560年)、松平元康(徳川家康)が今川氏から独立すると、父とともに徳川氏に仕えた。
元亀元年(1570年)、姉川の戦いに従軍し、初陣を飾った。天正3年(1575年)、長篠の戦いで功を挙げ、徳川家康から感状を賜った。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで、池田恒興の攻撃を受けて奮戦、戦功を挙げた。
天正18年(1590年)、小田原征伐では、徳川家康の旗本として武蔵国攻めに従軍した。戦後、甲斐国巨摩郡内2,600石を与えられた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に属し、上杉景勝の軍勢と戦った。戦後、播磨国赤穂郡内で1万石を与えられ、赤穂藩主となった。
慶長7年(1602年)、徳川家康の上洛に随行し、伏見城の築城奉行を務めた。慶長8年(1603年)、江戸幕府が開設されると、大番頭兼西丸留守居となり、徳川秀忠に仕えた。
慶長16年(1611年)、病気を理由に赤穂藩主を辞任し、次男の直吉に家督を譲った。慶長18年(1613年)、江戸城西の丸で死去。享年54。法名は玄清院殿法蓮正道大居士。
樋口権右衛門は、徳川家康に仕え、数々の戦で功績を挙げた武将である。播州赤穂藩の初代藩主として、領内の統治に尽力した。